連載 怪物・江川卓伝〜いざ大学受験へ(後編)

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 以前、江川卓にこんな質問をしたことがある。

── 自分が想像している以上の存在感と言動によって、周りが勝手に動いてしまうことについてどう思うか?

 江川は苦笑いしながらも、こう答えた。

「自分の発言が切り取られてしまい、ニュアンスが変わってしまうことに戸惑いを感じていました」

 江川という存在は、言うなれば太陽だった。強烈に照らす光を求めて人々が集まってくる。ただ、常夏の太陽のようにいつも燦々と輝くのではなく、時に雲に覆われてしまう。それは進路という分岐点になると必ず大人たちが介在し、本人の意思とは関係なく周りに影響を与えてしまう。


慶應大を不合格となった江川卓は法政大の二部を受験し合格を勝ちとった photo by Sankei Visual

【埼玉の高校を受験するつもりだった】

 高校進学の際も、中学3年時に静岡の佐久間中学から栃木の小山中学に転校し、二度のノーヒット・ノーラン、栃木県中学体育総合野球大会で優勝し、関東近郊の強豪校が我先にと獲得に走った。

 当時、日大三高の監督を務めていた萩原宏久は、江川勧誘についてこう証言する。

「日大の学生がたまたま小山中の指導に行って、帰ってきた時に私に言うんです。『小山中にすごいのがいますよ』と。それで秋季大会の合間に行って、グラウンドの外から見たんです。投げる姿は見れなかったのですが、体つきはいいし、動きも俊敏で、一瞬でモノが違うと感じました。それですぐ勧誘に行こうとしたら、日大の河内(忠吾)監督から『江川は小山高校に行くから』と言われ、一度は断念したんです。そしたら年明けに、江川の父が埼玉あたりで高校を探しているという情報が入ったので、部長と一緒に江川の家にすっ飛んで行ったんです」

 父は仕事の関係で出張に出ており、江川と母が対応した。

「江川くんが『日大三高から早稲田大に行くことができるでしょうか?』としっかりした口調で言うんです。私も確約はできないから『早稲田はルートがないから何とも言えないが、法政なら』と答えると、『法政ですか......』とじっとこっちを見つめて言いました。もっと積極的に勧誘していればと思いました。もし彼が入っていたら、日大三高の歴史は変わっただろうし、私だってどうなっていたのか......」

 その後、萩原はトレーナー業に転じ、近鉄を経て巨人のトレーナーとなり、1979年に入団した江川と再会を果たしている。

 前橋工業の監督である羽鳥眞之も獲得に乗り出していた。

「僕自身が小山中の江川を見に行き、『こんなピッチャーがいればいいな』と本気で思いましたね。結局、作新に進むのですが、入学したての6月に練習試合で対戦して、0対2で完封負けを食らった時、格段に成長していることに驚きました。小山中時代に見て惚れ込んだすばらしいボールが、短期間で脅威に感じさせるまでに成長し、敵なんですがどこか感心していました」

 江川は高校進学時について、こう振り返る。

「小山に住んでいたので、みなさん小山高に進むものだと思っていたらしいのですが、最初は埼玉の高校を受験する予定だったんです。浦和高か大宮高に行こうと思っていました」

 江川の進学の噂を聞きつけ、県内の有力中学生たちがこぞって小山高に進学したのは有名な話だ。のちに作新で江川の控えピッチャーとなる大橋康延でさえも、「江川が小山高に行くと聞いていたので作新に来たら、入学式にいたのでこっちは目が点になりました」と語るほど、知らず知らずのうちに多くの選手を巻き込んだ。

【慶應大受験にマスコミも大騒ぎ】

 そしてフィーバーを巻き起こした1973年夏の甲子園が終わってからも、江川の動向は俄然注目を集めた。「即プロでも20勝できる」と言われていた江川だったが、早くから大学進学を打ち出し、慶應大へ照準を絞った。

 作新には1949年に荒井敏、62年に春夏連覇のエース・八木沢荘六が早稲田へ進学したこともあり、ルートはあった。江川も早稲田なら推薦で入学できただろう。実際、江川の女房役だった亀岡偉民は早稲田に進学した。

 だが江川は慶應にこだわった。中学生の頃から早慶への憧れが強かったのもあったが、父・二美夫の意向で、推薦で行くよりも一般の学生と同じように受験を経験して大学に入ったほうが長い人生においてプラスになるということで、慶應を志望したとも言われている。

 とにかく江川が受験をする以上、慶應側も愛知の豊橋で勉強合宿を開催するなど抜かりはなかった。その合宿に参加した丸子実業の堀場秀孝(元大洋)が、当時の様子を振り返る。

「まず8月に慶應の日吉校舎でセレクションがあって、着いた初日は顔合わせだけで、2日目、3日目は午前が練習で、午後が模擬試験だったと思います。『今のままではちょっと危ないから、こういう勉強したらいいよ』って言われました。それで10月の第1週か2週ぐらいに、勉強会やるから来いよっていう話になったんです。上野で待ち合わせて、慶應のマネージャーと江川と私の3人で行きました。豊橋でほかのメンバーと合流して、2日間の勉強会があって、『これからは東京でもやるから』みたいな話になった感じです」

 江川と堀場は、豊橋駅で静岡高校の植松精一(元阪神)、水野彰夫、永島滋之、滝川高の中尾孝義(元中日)、大府高の森川誠らと合流。駅近くの旅館に泊まりながら、早朝から教授の家に行き、夜まで勉強会が行なわれた。

 江川は作新学院入学後すぐに行なわれた試験で、学年1位の成績をとったほど優秀な生徒だった。2年からは学年30位までが選抜される特別進学クラスに選ばれた。さすがに高校3年時の成績は30位まで落ちてしまったが、野球部を引退してからは睡眠時間を削って毎日10時間の勉強に励み、定期的に行なわれた東京での勉強会など、勉強漬けの日々を過ごした。

 大手予備校の模試の成績から、講師はもちろん、慶應OBからも合格の太鼓判をもらった。

 1974年2月18日、慶應の試験日。

「慶應の歴史のなかで、入試がこれほど騒がれたのは初めて」

 大学職員が困惑するなか、江川は法学部の試験を受けた。そして翌日は文学部、翌々日は商学部を受験した。

 マスコミは江川の慶應受験を面白おかしく報道し、ある週刊誌は「受験番号22174をマークせよ」と、今では考えられないような記事構成で大衆を煽った。

 しかし江川は、受験したすべての学部を不合格となった。受験失敗のニュースは速報で流れ、アナウンサーが「作新学院の江川卓投手が慶應義塾大学に落ちました」と読み上げ、雑誌では不合格について憶測めいた記事がいくつも躍った。たったひとりの高校生の受験合否が、これだけマスコミを騒がしたのは江川だけだろう。

 慶應受験と決めた時点から、合格が既成事実のように報道されていたため、周囲のショックは計り知れなかった。

 ドラフト1位候補の高校生を落とすことで、慶應はどんな受験生に対しても優遇せず、あくまで入試の学力だけで判断する公明正大な学府だと証明される。穿った見方をすれば、これほどの選手を落とすことで、慶應ブランドの価値を上げたとも言える。

 結局、江川とともに豊橋合宿に参加したメンバーのうち、永島と森川だけが現役合格し、ほかはすべて落ちた。そのなかで堀場は一浪して、慶應入学を果たした。

 江川の合否については、教授会でも紛糾したという。当時の大学関係者は次のように語る。

「江川の合否について教授会が開かれ、『一芸に秀でていれば、ある程度の学力レベルがあればいい』という古株の教授たちの考えよりも、若手の教授たちの『野球がうまいからといって慶應に入るよりは、まず一般の学生と同レベルの学力がなかったらしょうがないでしょう』っていう主張のほうが強かったらしいです」

 本来なら受かっていたという噂も流れるなど、さまざま憶測が飛び交った。だが、真相は藪の中であり、江川が慶應に落ちたという事実だけは変えようがない。東京六大学で野球をしたかった江川は急遽、法政大の二部を受験し、難なく合格を勝ちとった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している