新年度が始まった。心機一転、これまでのあれやこれやを忘れて仕事にまい進――と、割り切れないのはなぜだろうか。答えは明白。「やる気」が起きないからだ。では誰が、われらサラリーパーソンのモチベーションを奪ったのか。その答えも明白。経営者である。【渋谷和宏/経済ジャーナリスト】

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【写真を見る】日本企業と外国企業の“差”を象徴するヒット商品

 賃金を上げてほしいなら、君たち社員の労働生産性を上げてもらわないと困る。会社の業績が伸びないのは君たち社員の労働生産性が低いからだ。仕事の能率も上げずに給料を上げろなんて言う権利はない――。

 日本経済低迷の時代である「失われた30年」の中で働いてきた企業の社員にとって、「労働生産性」は“悪魔のキーワード”といえるかもしれません。経営者にこの言葉を持ち出されると、ぐうの音も出ない。たしかに私たち社員がもっと一生懸命働いて会社に利益をもたらさないと、経営者だって賃金を上げられるわけがない……。

哀愁漂う企業戦士たち

 真面目で誠実な日本のサラリーパーソンの中には、こんなふうに自分を責める人たちが少なくないのではないでしょうか。

労働生産性を低めているのは誰なのか

 しかし、その考え方は誤っています。なぜなら、OECD(経済協力開発機構)加盟38カ国中30位と、日本の労働生産性が低いのは紛れもない事実ですが、それは社員のせいではないからです。

 果たして、労働生産性を低めてしまっているのは一体誰なのか。それは、失われた30年の間に経営姿勢を変えようとしなかった経営者なのです。

〈と、われらサラリーパーソンを勇気づけてくれるのは、経済ジャーナリストの渋谷和宏氏だ。

「日経ビジネス」の副編集長や「日経ビジネスアソシエ」編集長などを歴任し、多くの企業や社員たちを取材してきた渋谷氏は、昨年11月、『日本の会社員はなぜ「やる気」を失ったのか』(平凡社新書)を出版し、日本の企業体質の問題点を改めて浮き彫りにした。

 先に、サラリーパーソンを勇気づけてくれると記したが、これは決して情緒に訴える話ではない。事実に基づいた指摘である。ひとつの簡単な数式の「読み解き方」がゆがめて伝えられてきたせいで、日本のサラリーパーソンは自責の念を抱え込まされてきたのだという。〉

扇風機の差

 ダイソンの羽根のない扇風機が売り出された時、私たちはその画期的なアイデアと洗練されたデザインに驚き、購買意欲をかき立てられました。一方、日本のメーカーは相変わらず旧態依然とした羽根付き扇風機を生産しています。自分の親世代、下手をしたら祖父母世代が使っていた扇風機と機能もデザインもほとんど変わらないのではないかと思えるほどです。実はこの扇風機の差にこそ、労働生産性の本当の意味を読み解く鍵が隠されています。

「生産性」というと能率や手際の良し悪しをイメージしがちですが、経済指標としての「労働生産性」は厳密に定義されていて、数式で表すと次のようになります。

「生産性=生産量あるいは付加価値÷投入した労働力」

 分子の「生産量あるいは付加価値」の中で、「労働生産性」を把握する際により重要なのは「付加価値」です。分かりやすく大雑把に言うと、「付加価値」は売上高から原材料費などの諸経費を引いた粗利益に相当します。仮に6万円の商品で5000円の原材料費などがかかっていたとすると粗利益は5.5万円。これが「付加価値」です。

 そして分母の「投入した労働力」とは、やはり大雑把に言えばその商品を作るために働いた労働者の数ですから、分子である粗利益5・5万円の商品を100人で作ったとしたら、1人あたりの労働生産性は「5.5万円÷100人=550円」となります。

 これまで私たちは「分母」ばかりに意識を向けさせられてきました。働く人たちの能率が悪いから日本の労働生産性は低いのだと。

独創性の淵源とは

 しかし、これはおかしな話です。なぜ「分子」に目を向けないのでしょうか。A社とB社がそれぞれ、同じ100人が関わってひとつの扇風機を作ったとして、A社の製品が6万円でB社の製品が1万円だった場合、原材料費に極端な差がなく同じ5000円であれば、前者の労働生産性は「550円」で後者は「50円」と11倍もの差が出てしまいます。

 実際、私が調べた時点では、ダイソンの扇風機は6万円程度で売られていて、昔ながらの日本の扇風機は1万円前後で売られていました。つまり、労働生産性は分子である商品の価格(付加価値)によって大きく左右されるのです。ダイソンの扇風機を例にとると、付加価値をもたらしたものは画期的なアイデアであり、洗練されたデザインといえます。要は、いかに「独創性に富んだ魅力的な商品=付加価値が高くて高額で売れる商品」を生み出せるかが、労働生産性を決める大きな要因なのです。

 それでは、どうすれば魅力的な商品を開発できるのでしょうか。意欲を持った社員がいなければ「良い商品を作って売ろう」という発想すら生まれてこないのは自明といえるでしょう。やる気がない社員ばかりで活気がない会社から、独創的なアイデアが出てくるわけがありません。つまり、社員たちが熱意を持って、ダイソンの扇風機のような付加価値が高く、良い商品を生み出すことができれば、日本の労働生産性は上がるはずなのです。果たして、日本の労働者たちのやる気はどうでしょうか。

「熱意溢れる社員」は6%

 世論調査や人材コンサルティングを手がける米ギャラップ社が、2017年に世界各国の企業を対象に従業員のエンゲージメント(仕事への熱意)に関する調査を実施しています。それによると、日本企業の「やる気のない社員」の割合は70%にも達し、一方、「熱意溢れる社員」は6%に過ぎず、調査した139カ国の中で132位でした。なお、米企業の熱意溢れる社員の割合は32%で、日本の5倍です。

 さらに、同じギャラップ社が23年に発表した「グローバル職場環境調査」では、「仕事にやりがいを感じ、熱意を持って生き生きと働いている」人の割合はわずか5%で、調査した145カ国のうちイタリアと並んで最低でした。日本人の仕事に対するやる気は年々失われているといえるのです。

 昔と今とで、日本企業で働く人たちの質が明らかに劣化したということがあり得るでしょうか。私にはそうは思えません。真面目で誠実に働く日本人の気質は昔も今もさほど変わっていないでしょう。ということは、ギャラップ社の調査が示すように日本の社員のやる気が失われているのは、社員たちの資質以外に大きな原因があると考えるべきなのです。では、何が原因なのか。その答えこそ、失われた30年にあります。

2002、03年頃がチャンスだった

 失われた30年の日本企業を象徴する体質とは何でしょうか。それはコストカット最優先の「縮み経営」です。バブルが崩壊し、さらに1997年の金融危機で日本経済は大きな打撃を受け、各企業は「三つの過剰」の削減にまい進します。「過剰労働力」「過剰設備」「過剰債務」をとにかく減らして危機を乗り切ろうとしたのです。そうした状況では「社員=コスト」と見なされ、節約や管理に長(た)けた小役人的なコストカッターが重宝されました。

 このような縮み経営は、緊急避難的には致し方ない面があったと思います。しかし、一時の底を脱し、2002、03年頃から日本の景気は上向きました。結果論ではありますが、この時が縮み経営から脱するチャンスでした。ところが、多くの日本の企業はそのまま縮み経営を続けた。そうしている間に、08年にリーマンショックが起き、縮み経営から抜け出す機会を完全に失ってしまったのです。

大企業の社長の選ばれ方に問題が

 社員をコストと見なし、前向きな設備投資も行われない職場環境で、社員がやる気を持てるはずがなく、独創性のある良い商品が生まれるわけもありません。そこで、少なくない日本企業は、「安さ=正義」だとしてある牛丼チェーン店のワンオペに象徴されるように、徹底的なコストカットによる「安さ勝負」に出ました。その結果、商品の値段はどんどん下がり、薄利多売で売り上げも伸びず、当然、賃金も上がらないというデフレスパイラルに陥ってしまったのです。

 しかし、繰り返しになりますが、縮み経営から抜け出すチャンスがなかったわけではないのに、日本の企業は縮み経営を続けてしまった。その要因のひとつは、日本の大企業の社長の選ばれ方にあったと私は考えています。

 私は「日経ビジネス」時代の1997年ごろ、「新社長登場」というコラムを担当していたのですが、大企業の新社長の決まり文句は以下のようなものでした。

「前任の社長からご指名を受け、はじめは『私なんかが』と気後れしたものの、今の困難な状況を考えるとお引き受けさせていただくしかないかと……」

 つまり、前任者に指名された新社長は、前任者の経営方針を否定するわけにはいかない。その前任者の経営方針、それこそが縮み経営だったのです。こうして、「縮み経営スパイラル」が断ち切られることなく、コストカットそのものが経営者の中で自己目的化していき、「社員=コスト」という考え方が蔓延(はびこ)って、社員のやる気は奪われ続けたのです。

「似非成果主義」

 もちろん社員のエンゲージメント、やる気を上げる要素は賃金だけではありませんが、賃金が大きなそのひとつであることは否定できません。働いても、働いても、賃金が上がらなければ、当然のことながら「独創的な良い商品を作り出そう!」というモチベーションは湧いてきません。失われた30年の間、賃金が上がっていた欧米や韓国と違い、日本の賃金がほとんど横ばいだったことは皆さんご存じの通りです。

 そして、コストである人件費のカットの道具として“利用”されたのが、かつてもてはやされた「成果主義賃金制度」です。日本の企業の特徴であった終身雇用のもとでの年功序列賃金制度は悪平等ではないか。働いてもいないオジサンが高い賃金をもらって、能力のある若者が低賃金なのは理不尽である。そうした不満をすくい上げる形で、各自の成果に合わせて賃金を決める成果主義が多くの企業で導入されました。

 しかし、そこには“わな”があったのです。実際に成果主義が導入されると、「特A」の飛びっきりの成果を上げた社員以外、すなわち大方の社員は「成果を上げられていない」と判断されて賃金が上がらなかったり、カットされたりしてしまったのです。

 私はこれを「似非(えせ)成果主義賃金制度」と呼んでいます。成果主義の美名のもとで賃金を抑えられ、その上、不満を持ちながらも何とか頑張ることができるための“保険”のような制度であった終身雇用も崩れていった。このような環境で、やる気を出せというのは無理な話です。

現金をためこむのは「経営」ではない

 従って、私は改めてこう断言したいと思います。日本の社員がやる気を失ってしまったのは社員のせいではない。コストカットを旨とし、縮み経営を自己目的化してきた経営者のせいなのだと。

 そして、社員がやる気を失っていることに気が付いた経営者は、マイクロマネジメント(部下への過干渉)を強化しました。やる気のない社員たちは、放っておくとサボるに違いないと考えて徹底的に管理し、逐一の報告を求めたり、なかには「会議で何を話すかに備えた会議」まで行う企業も出てきた。マイクロマネジメントのもとで社員の間に自主的なやる気が育(はぐく)まれることはあり得ません。ここでも、ますます社員のやる気が失われるという負のスパイラルに陥ってしまったわけです。

 こうした状況から脱するためにすべきことは、まずは社会の公器でもある大企業が縮み経営をやめて、社員に賃金として還元することです。先日の春闘では「過去最高水準」の賃上げ回答が相次ぎましたが、海外と比較すると圧倒的に不足していると言わざるを得ません。「そうはいっても、株価が4万円になったとはいえ、まだまだ日本経済は停滞していて先立つものがない」という経営者の“言い訳”が聞こえてきそうです。しかし、昨年9月に財務省が発表した大企業の内部留保は511.4兆円と、前年度から27.1兆円増えて過去最高を更新しています。大企業が抱え込む現金・預金はこの10年でおよそ8割増えています。先立つものはあるのです。社員に報いず、投資にも及び腰で、内部留保とりわけ現金・預金をため込むばかりでは、「経営」とはいえないでしょう。

副業を持つ方が安全

 次に、社員の側でできることは、例えば副業を始めてみることだと思います。似非成果主義のもとで賃金は抑えられながら終身雇用が保証されているわけでもない。そうした不安定な環境では、所属する企業に頼り切る「一本足打法」よりも、副業というもうひとつの軸足を持った「二本足打法」のほうが安全です。私自身、「日経ビジネス」の副編集長時代に、他社から小説を出版したことで精神的な安定が得られ、それが本業にも好影響をもたらしてくれたという経験をしています。

 副業をすることに疚(やま)しさを覚える必要はありません。これまで検証してきたように、一本足打法では不安だという状況を作り出したのは社員ではなく、縮み経営で社員のやる気をそぎ、追い込んできた経営者なのですから。

 ぜひ経営者には、今一度、社員のやる気の重要性を思い返してほしいと思います。日本に「GAFAM(Google等の巨大IT企業)」が生まれなかったのはなぜなのか。独創性の礎となる社員のやる気を軽視し過ぎたことが大きな要因なのではないか――。

「やる気」という言い方をすると情緒的に感じられるかもしれません。しかし、これは情緒の話である以前に、極めてドライな経済の問題です。企業が儲けたかったら、つまり付加価値を生み出したいのなら、社員のやる気を育てなければ始まらないのは当然のことではないでしょうか。

渋谷和宏(しぶやかずひろ)
経済ジャーナリスト、作家。1959年生まれ。大正大学表現学部客員教授。法政大学経済学部卒業後、日経BP社に入社。「日経ビジネス」副編集長、「日経ビジネスアソシエ」編集長、日経BPnet総編集長などを務めた後、2014年に独立。『日本の会社員はなぜ「やる気」を失ったのか』(平凡社新書)などの著書がある。

「週刊新潮」2024年4月4日号 掲載