1988年よりフリーの添乗員として世界を旅していた永松真紀さんが、東アフリカケニアに移住したのは96年のこと。その後も1年の3分の1は、日本人旅行者から指名を受けて日本発のツアーに同行していた。そんな忙しい生活を続ける永松さんが2005年、伝統的な生活を営むマサイ族・ジャクソンさんの第2夫人になった。

 結婚後の永松さんは、マサイ・コミュニティのサポートやマサイを深く知るためのエコツアー、日本での講演などを精力的に行っている。著書『私の夫はマサイ戦士』(新潮社)やインタビューなどで日本メディアにも度々登場しているが、今回は初めて夫のジャクソンさんが同席。誇り高きマサイの生き方や現代化の波との対峙などについて話を聞いた。

ジャクソンさん(左)と永松真紀さん

【写真】「野生動物なのか人間なのかわからない」戦士時代のジャクソンさん 第1夫人たちとの仲良し集合写真も

なぜ一夫多妻なのか

――数あるアフリカの民族の中でも、マサイ族は日本で比較的よく知られています。

永松「アフリカには50を超える国があり、民族の数は800以上といわれています。人口5300万人強のケニアには40以上の民族がいますが、マサイは人口の約2%とごく少数です。日本では、俳優の名高達郎さんがマサイの戦士たちと一緒にジャンプするCM(81年)や映画、バラエティ番組などに登場したことで、ご存じの方が多いのではと思います」

――永松さんはジャクソンさんの第2夫人です。一夫多妻はアフリカで一般的なのですか?

永松「アフリカでは普通に存在する家族の形です。マサイはとても広い土地を持ち、そこに暮らす人数は少ないのですが、多くの家畜と 生活を送っているので仕事量がかなり多い。水汲みや薪拾い、土に牛糞を混ぜて塗りこめて作る家の補修もあります。そんな厳しい環境のなかで暮らしていくなら、家族は多い方が助け合えます。

北海道での一コマ【写真提供:永松真紀さん】

 ジャクソンの村に初めて遊びに行った時、長老を介して「第2夫人として迎えたい」と言われました。驚いたけど抵抗はなかった。その翌朝、第1夫人のアンゴイから『あなたがジャクソンと結婚したらうれしい。きっと仲良くできる。一緒に家族を支えていきましょう』と笑顔で言われました。その顔を見て、本音だと信じられた。第1夫人と第2夫人という呼び名も、実は単に結婚した順番。財産は平等に分け与えられます」

ジャクソンさんの世代を指導した「オルピロン」たち【写真提供:永松真紀さん】

“牛目線“で見た日本

――ジャクソンさんは永松さんの帰国に合わせての 来日経験が豊富です。今回は8回目ですが、今まで訪れた地域で印象深かったのはどこですか。

ジャクソン「北海道です。日本のどこかに住むとしたら北海道を選びます。寒いけれど、牛が生きていける広い土地がありますから。あと、ケニアは干ばつが続いているので、常に豊富な水を擁する日本の川を持って帰りたいですね」

永松「彼はやっぱり“牛目線”ですよね。他の場所では、産業廃棄物不法投棄事件があった香川県の豊島(てしま)で衝撃を受けたようでした。あとは自動運転の車。ファミリーレストランの猫型配膳ロボットや回転寿司店の注文システムなど、ほぼ人の手を介さないことに驚いていました」

2021年に行われた成人の儀式「エウノト」【写真提供:永松真紀さん】

ジャクソン「今、世界はどこへ向かっているんでしょうか(笑)」

――ジャクソンさんが“牛目線”になるほどマサイにとって牛はポイントなのですか?

永松「マサイは牛と共に生きる民族。牛が何よりも大切なんです。財産であり食料であり、人生の節目となる儀式に欠かせません。牛がいなければ、人生を先に進める儀式もできない。マサイの人生には切り離せない存在です」

ジャクソン「牛以外には羊や山羊を飼っています。家畜の世話をするのは子どもたちの役割。ほんの小さな子どもの時から、少し上のお兄ちゃんから放牧の仕方を習います」

戦士時代は森の中で修行

――牛を大切にすることがマサイの大きな特徴であるわけですね。他には?

永松「人生を4つの段階に分けていることです。ジャクソンが言った放牧を習う子ども時代から始まり、割礼の儀式を経て青年時代に入ります」

ジャクソン「同じくらいの時期に割礼を終えた子どもたちは『リカ』(同期の仲間)となり、青年時代から大人時代、長老時代へと、共に次の世代へ進みます。戦士時代ともいう青年時代には、リカと一緒に森の中で修行しながらマサイの伝統やルール、智慧を学びます。例えば、牛の病気を自分たちで治せるようにするため、一頭を解体して体の仕組みを学んだり」

――修行はどのくらい続くのでしょうか。

ジャクソン「森から出たり入ったりはしますが、10年ぐらいですね」

永松「彼らを指導するのは『オルピロン』です。『オルピロン』は2世代下への指導役を担う世代の長老たちで、どの世代のリカにもオルピロンがいます。指導する側とされる側の2つの世代がセットになっているわけです。このように社会構造がきっちりしているのもマサイの大きな特徴。地域の親世代が子ども世代の指導を担う。自分の子育てが終わってもお役御免にならず、すべての子ども世代の責任をすべての親世代が持つこのシステムは非常に優れていると思います。

 戦士たちが大人としての相応しい知識を身に付けたとオルピロンが判断したら、『エウノト』と呼ばれる戦士の卒業儀式を約1週間かけて行います。その数ざっと800人。集落によっては数千人規模になることもあります。最終日には戦士時代の特徴でもある長い髪を剃り落とすのですが、この日をもって厳しいながらも楽しかった戦士時代に別れを告げるとあり、みんな男泣きします」

時代の変化と「エウノト」

――ジャクソンさんも「エウノト」に参加された“真の戦士”だったんですよね?

永松「私は2003年に行われたエウノトを観に行き、ジャクソンと出会ったんです。その時の彼は野性味が溢れすぎて、野生動物なのか人間なのか分からない印象を受けました。怖いと思いながら恐る恐る近づき、なんとか写真を撮ってもらいましたが、もう同じ人はこの世にはいません。20年も経つと太っちゃって、すっかり変わってしまいました(笑)」

ジャクソン「戦士時代の私は、7頭のライオンと1頭のゾウを仲間と一緒に仕留めました。けれど今は、野生動物の命を絶つことが政府から固く禁じられています」

永松「ライオン狩りはその以前から禁止されていましたが、家畜を殺された時に“報復”という形で行われていました。今はいかなる理由があっても逮捕されます。そこで、動物を管理する団体とマサイの間で牧畜生活を守るための約束が交わされ、家畜を殺されたら補償金が支払われる仕組みができました。『エウノト』はジャクソンが参加した03年の後、2012年と2021年にも行われましたが、21年の時は誰一人、ライオンを殺していません」

「牛乳が主食」は過去の話に

――野生動物の扱い方以外に、マサイの生活で大きく変わったところはありますか。

ジャクソン「人が増えました。道も公的な学校もできました」

永松「近年のケニアは教育が義務化され、必ず学校に行かなければなりません。それ以前からマサイには、数十年後に牧畜を中心とした生活が成り立たなくなるのではという危機感がありました。そのため、子どもたちに学校教育を受けさせたほうが得策だと考え、自分たちで学校を作っていたのです」

ジャクソン「公的な学校でさらに高い教育を受けることによって、例えば政治家や弁護士、医者になることもできる。そのほうがマサイの生活を守れます。特に私の地域では、将来を見据えて(国の)中央で戦える人間を育てるといった考え方が強いですね」

永松「気候変化もマサイの生活に大きな影響を与えています。雨が降らず草も生えないので砂漠化が進み、牛の乳が出なくなった。昔は主食として牛乳を1日5〜6リットル飲んでいましたが、そんな時代は昔の話になってしまいました」

マサイの伝統や動向をYouTubeなどでチェック

――携帯電話やスマートフォンが生活の中に入ったことで、牧草の位置などについて情報交換ができるようになったと聞きました。

ジャクソン「他にもいろいろな情報が入るようになりました。私はYouTubeやTikTokで政治関係のチャンネルをよく見ています。2022年に誕生したマサイ初の女性大臣をはじめ、マサイの政治家たちがどれほど支持を集めているのか、政治の方向性などがスマホのお陰でよく分かるようになりました。マサイは隣国のタンザニアにも多く住んでいるので、いろいろな地域のマサイが運営しているチャンネルやローカルニュースもよく見ています」

永松「マサイの伝統に関するチャンネルも好きなようです。ケニアの民族には文字がなかったため記録する文化がなく、どの民族も書物としての資料がほとんど残っていない。あっても学校教育を受けていない世代は文字が読めない。そこで音声や映像で解説するマサイ語チャンネルは画期的だったと思います。現在はかなりのチャンネル数があり、彼らにとっては娯楽というより、今後を知るための便利なツールです」

年を取ることは最大の誇り

――戦士時代から大人時代を経たマサイの男性たちは、人生最終ステージにあたる長老時代に入ります。ジャクソンさんは2022年にこの長老昇格儀式を終えたそうですね。

ジャクソン「2世代上の長老たちが戦士時代からの私たちを育ててくれたように、今度は私たちが2世代下の子どもたちを育てる番です。戦士時代に入った子どもたちが長老昇格儀式を迎えるまでは35年くらい。彼らが長老になった晴れ姿を見届けてからこの世を去るのが、私にとって一番幸せなことだと思っています。

 子どもの頃から年長者を敬うことを教えていくと、大人になってもその文化は失われることがないと我々は思っています。日本人とマサイの共通点として思い浮かぶのは礼儀正しさです。マサイも目上の人には頭を下げます。すると、目上の人がその頭をちょんと押さえる。これが尊敬の気持ちを込めた挨拶です」

永松「マサイの人たちにとって年を取ることは最大の誇り。尊敬される長老になることが人生最大の成功例で、生まれてきた意味はそこにあるくらいの重みがあります。私はずっと年を取りたくないと思っていましたが、長老昇格儀式を見て初めて、年を取ることは美しいことなんだなと思いました」

「何をすべきか」は昔から決まっている

――尊敬される長老になるために、ジャクソンさんはどんなことをやっていきたいですか。

ジャクソン「自分が『何をしたい』かではなく、『何をすべきか』が昔から決まっています。長老がやることを見続け、自分も長老になったらああいう人になるんだと想像しながらこれまで生きてきました。そこまで到達できたことが誇らしいですね。

 世界の変化は自分たちで止めることができません。国が決めたことにも従わなければならない。『エウノト』のライオン狩りも廃止されましたが、だからといって大きな変化はありません。伝統文化において重要なのは、人生の節目となる儀式とそれにより世代を一つひとつ上がっていくことです。今の自分が尊敬される側なのか、する側なのかという位置関係を明確にすることに、我々は重きをおいています」

永松「スマホの普及も含め、世界情勢が大きく変わる中で、マサイも変化していかなければなりません。特にジャクソンの世代はいろんな変化を経験する長老になるでしょう。マサイが一堂に会して長老から指導を得る機会も少なくなってきました。

 そんな中でも『エウノト』に集まり、長老から礼儀や家畜の管理法、人生設計などを学ぶと、マサイであることを自覚し、誇りを感じるという若者も多い。環境の変化が激しい今だからこそ、マサイの誇り高く伝統を守り続ける生き方を現代人に知ってほしいですね」

岡崎優子

デイリー新潮編集部