体育で公開処刑…なぜ授業で、辱めを受けなくてはいけないのか。トラウマになりかねない現代の「体育事情」

2012年に中学校体育で必修化された「ダンス」。小学校の指導要領にも「表現運動」としてダンスが組み込まれ、なんと今の子どもたちは9年に渡って授業でダンスや運動表現をを学ぶのだという。もちろん得意な生徒にとっては楽しい時間に違いないが、トラウマ級の辱めを受ける生徒が確実に存在することにも目を背けてはいけない。体育が嫌いな生徒がなぜ生まれるのか、書籍『体育がきらい』より一部抜粋して紹介する。

「なんで踊らないといけないの?」という難問

跳び箱と同じような難問が、中学校で必修化されたダンスの授業についてもよく聞かれます。すなわち、「なんで踊らないといけないの?」という問いです。

この問いに対して、これまで出されてきた一つの回答は、本来人間は表現する存在であるから、というものです。たとえば、前章で挙げた花火と踊るちびっ子は、まさにそのよい例です。人間は古代から、それこそ文字を発明するよりも前から踊っていたと言われています。その意味で、踊ることは人間にとって、確かに根源的な意味を持っているようです。

とはいえ、やっぱり踊ることを恥ずかしく感じたり、イヤだなと思ったりしてしまう人は少なくありません。さらに言うと、いくら踊ることが人類史的に意味を持っているとしても、「なんで踊らないといけないの?」という疑問が出てきている時点で、その意味も、現代ではあまり有効でなくなっているのでは?という疑問も湧いてきます(踊りたくないからこの問いが出てきているわけですし……)。

このような疑問を挙げると、さらに次のように言われることがあります。いわく、それは、私たちが現代社会のさまざまなものの影響によって、人間本来の在り方を抑圧されたり忘れさせられたりしているからなのです、と。その証拠に、世界のどこに行ってもダンスや舞踊は存在しているでしょ、と。

この回答にも、確かに一理あるように思われます。世界中どこに行っても、またいつの時代にも、基本的にその地域や民族に特有のダンスは存在しています。その意味では、やはりダンスには、人類に普遍的な意味があると言えそうです。

写真はイメージです

ただし、これについても、すぐに次のような疑問が浮かんできます。すなわち、確かに普遍的な意味があるのかもしれないけど、それってたとえば、お酒も世界中のどこにでも存在する文化だから人間は酒飲む存在だと言っているのと同じじゃないの?でも、そんなわけないよね?みんなが酒飲む存在とは限らないでしょ?

ん~さすが難問です。ここでは、「体育ぎらい」との接点に絞って、この問題を考えてみたいと思います。

いわゆる「公開処刑」について

このダンスの例に典型的に見られるように、クラスみんなの前で運動をやらされ、それが失敗したときに感じる「恥ずかしさ」を表す言葉に、「公開処刑」というものがあります。この言葉、一度は聞いたことのある人が多いと思います。「体育ぎらい」に直結するこの言葉について、少し考えてみましょう。

たとえば、体育の授業では実技テストなどの名目で、一人ずつ順番に、クラスメイトの前で運動や技をやることがあります。先ほど挙げた跳び箱運動やマット運動などは、その典型かもしれません。そして、それらの運動や技が失敗したとき、私たちは、とてつもなく恥ずかしい感情を抱くことになるわけです。

この「公開処刑」という表現が見事に表しているように、運動が苦手な人にとっては、クラスメイトの前で何かの技や演技をやらされることが、地獄のような苦しみであるということは容易に想像できます。さらに言うと、それは運動が苦手な人に限った話でもありません。

運動が得意な人であっても、クラスメイトの前で実践した際に失敗した場合、そのときの恥ずかしさを強烈に覚えていることがあります。前章でも少し触れたように、「運動は好き」なのに「体育が嫌い」という人は、そのような経験によって生み出されるのかもしれません。

また、「公開処刑」と呼ばれるからには、公開されていることだけでなく、むしろ処刑されるというニュアンスが強く含まれているはずです。そのような状況は、技や演技の失敗を見ていたクラスメイトからの嘲笑や失笑、もしくはそれを感じさせる視線によって発生していると言えます。なかには、爆笑するような輩もいるかもしれません。

もちろん、そのようなあからさまな「公開処刑」は、現在の体育の授業では少なくなっていると思い(願い?)ます。体育の授業をする先生も、日々、いろいろと工夫をしています。

ただし、それでもやはり、他者の前で技や演技を行うことには、どうしても「恥ずかしさ」が付きまとってしまいます。これは、避けようのない事実です。そうであるならば、私たちはこの「恥ずかしさ」を、一体どのように考えればよいのでしょうか。その手がかりとして、ここでは、恥ずかしさの正体を考えてみたいと思います。

恥ずかしさの誕生

20世紀フランスの哲学者であるサルトルは、ノーベル文学賞を辞退したカッコイイ人です……が、ここではその話ではなく、恥ずかしさの感情についての、彼の議論を参考にしてみたいと思います。彼は、有名な「鍵孔」の例を挙げて、私たちの恥ずかしさの正体を考えています。

次のような場面を想像してください。みなさんの目の前には一つの部屋があり、そこへ入る扉は閉じられています。みなさんは好奇心に駆られて、その扉の鍵の孔から部屋のなかをのぞき見ています。そのとき、背後で足音が聞こえます。その瞬間、きっとみなさんは扉から離れて我に返り、自分のしていた行為を「恥ずかしく」思うのではないでしょうか。

この例で重要な点は、みなさんの行為が本当に誰かに見られたかどうかはわからないのに、「恥ずかしさ」を感じてしまうというところです。なぜ私たちは、本当は見られていないかもしれないのに、「恥ずかしさ」を感じてしまうのでしょうか。それは、私たちが他者の視線、つまり「まなざし」を、勝手に意識してしまっているからです。このことについて、サルトルは次のように表現しています。

羞恥は、「私は、まさに、他者がまなざしを向けて判断しているこの対象である」ということの承認である。(ジャン=ポール・サルトル著、松浪信三郎訳、2007年、『存在と無Ⅱ』、筑摩書房)

少し言い換えると、他者に見られたら「恥ずかしい」行為をしている私を、他者が「まなざし」ているということを私が意識したから、私は「恥ずかしさ」を感じた、ということです。

この例からは、恥ずかしさの正体について、少なくとも一つのことがわかります。それは、「恥ずかしさ」が他者との関係において生じるということです。このことを、サルトルは次のように言っています。

羞恥は、その最初の構造においては、誰かの前での羞恥である。(前掲書)

このように、私たちが「恥ずかしさ」を感じるそのスタートには、他者の存在があるわけです。つまり、私たちは、他者に見られていることを自覚することによって、はじめて恥ずかしさを感じるということです。

『体育がきらい』(ちくまプリマー新書)

坂本拓弥

2023/10/6

968円

224ページ

ISBN:

978-4480684615

先生はエラそうだし、ボールは怖い!

体育なんか嫌いだ!という児童生徒が増えています。なぜ、体育嫌いは生まれてしまうのでしょうか。

授業、教員、部活動。問題は色々なところに潜んでいます。そんな「嫌い」を哲学で解きほぐせば、体育の本質が見えてきます。強さや速さよりも重要なこととは?

「『体育』なんて好きにならなくてもいい」のです。最も重要なことは、みなさんが多様な他者とともに、自分自身のからだで、賢く、幸せに生きていくことです。そのためにも、たとえ体育の授業や先生、運動部やスポーツが嫌いになったとしても、みなさん自身のからだだけは、どうか嫌いにならないでください。(「おわりに」より)