その甲斐あって、ヤンジャンさんやヤンマガさんなどの大きい媒体に頻繁に呼んでいただきましたし、次々とバラエティーのオファーもありました。もちろんホリプロという大きな事務所にいたのも大きいんですけど、結果が出ていたのでやりがいもありました」

順風満帆に見えた芸能活動だったが、2000年代後半になると、グラビアアイドルの牙城を崩す存在が頭角を現す。AKB48のグラビア進出だった。

「当時、私と同世代でグラビアを飾っていたのが、小阪由佳ちゃん、浜田翔子ちゃん、原幹恵ちゃんあたり。ほしのあきさん、熊田曜子さん、MEGUMIさんなど一時代を築いた上の世代の方々のグラビア活動が落ち着いてきて、ようやく私たちの世代が活躍できる時代がきたと思っていたんです。そのタイミングでAKB48の子たちが水着をやり始めて、あっという間にグラビアアイドルの出る場所がなくなっていきました」

グラビアアイドル冬の時代が到来した後も、たしろはコンスタントにイメージDVDをリリース、バラエティーでも存在感を発揮していたが、次第に失速を余儀なくされる。

「デビュー当時から寄り添ってくれたマネージャーさんが担当から離れてしまい、徐々に厳しい状況になっていきました。そもそも俳優になりたくて芸能界に入ったので、上手くシフトチェンジできれば良かったんですけど、ホリプロはバラエティーの部署と役者の部署が、しっかり分かれているんですよね。ずっと私はバラエティーの部署に所属していたので、そのイメージが強すぎたのかもしれません」

思うように俳優の仕事が入らない現状を打破しようと、個人的に芝居のレッスンやワークショップに通うようになった。

「ワークショップなどで知り合った監督さんなどからお仕事をいただけるようになって、徐々に俳優の仕事も増えていったんですけど、ふと考えたら、これってマネージャーさんがお仕事を取ってきた訳じゃないなと。その状況に不満を抱くというよりも、実力主義の世界なんだから、それを極めて、自分のやりたいことをやれたらいいなと思うようになったんです。それで30歳になるのを機にホリプロを円満退社して、フリーになり、芸名も田代さやかからたしろさやかにしました」

ホリプロ在籍時に出演した映画で、今の活動に活きている作品がある。

「26歳のときに、鈴木太一監督の『くそガキの告白』(12)という映画にヒロインで出させていただいたんですけど、オファーがあったときは監督名すら聞いたことがありませんでした。監督にとって初の長編映画というのもあって現場での段取りも悪いし、スタッフさんの怒号が飛び交うので居心地も悪い。クライマックスのシーンを撮る最終日も、朝まで台本を書き直すぐらいだったんですけど、完成した映画が素晴らしくて。

思い返してみると、大変な現場ではあったんですけど、みんなに情熱があったからこそ、たくさんの意見を出し合っていたんです。結果的に、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で四冠を受賞して、韓国でも上映されて舞台挨拶にも行って。東日本大震災から間もない時期だったので、みんなで車に乗って被災地に行って、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭の副賞でもらったプロジェクターで『くそガキの告白』を上映しました。そのチームで、プライベートにフットサルを楽しんだりもして。26歳でも、こんな青春があるんだと思い出深かったです」

2023年、鈴木太一監督は12年ぶりに『くそガキの告白』のスタッフと集結し映画を撮影。その映画『みんな笑え』(2024年公開予定)の撮影にはたしろにも声がかかった。

「事務所に所属していた頃は、“ホリプロの田代さやか”だから使ってくれた方も多かったと思います。もちろん肩書きとかネームバリューのおかげで、ありがたい思いをしてきたことも、たくさんあります。でも、たしろさやかとして声をかけていただけるのは、演技面や人間性を買ってくれているのかなと。約10年ぶりに鈴木太一監督の現場に行ったら、『くそガキの告白』でご一緒したキャストやスタッフの方々もいて。人と人との繋がりの大切さを感じました」

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