千葉ドリームスター・土屋来夢さん、高1で事故に遭い「もう野球はできないな」

 今年9月9日から2日間の日程で、バンテリンドーム ナゴヤを舞台に開催される世界大会をご存じだろうか。身体障害者野球の世界一を決定する「第5回世界身体障害者野球大会」だ。日本や米国、韓国、台湾、プエルトリコの5チームが参加し、総当たり戦で世界最強を決定。日本は2018年の第4回大会に続く2連覇を目指す。

 2006年に初代WBC王者となった日本が提案し、同年11月に初開催された。“もう1つのWBC”とも呼ばれ、4年に一度開催されてきたが、2022年に予定されていた第5回大会はコロナ禍の影響により開催延期。晴れて、今年実施の運びとなった。

 身体障害者野球は、日本では1981年に岩崎廣司さんが「神戸コスモス」を創立したのが始まり。現在は北海道から九州まで38チームがあり、991選手が登録している(2023年3月現在)。四肢障害がある人が対象で年齢・性別に制限はない。義足や車いす、杖を使う人がいれば、腕や手がなかったり、麻痺が残る人もいる。ルールに障害が合わないならルールを障害に合わせようという発想で、数々の特別ルールを設けながら幅広い人々が野球を楽しむ工夫がなされている。

 野球を始めたきっかけや野球を続ける目的はそれぞれだが、毎年開催される春の全国大会、秋の全日本選手権での優勝はもちろん、4年に一度開催される世界選手権への出場もまた、選手のモチベーションの1つとなっている。

 今年その目標を叶え、初めて日本代表に選ばれたのが、千葉ドリームスターの遊撃手・土屋来夢さんだ。9月の世界大会に向けて練習に励んでおり「自分のやるべきことは優勝に貢献すること。そして、自分ならではのスタイルを見せて、今までやってきたことを思いきり表現したいです」と目を輝かせる。

 土屋さんの右手には親指はあるが、他の4本の指はない。硬式野球部で二遊間を守っていた高校1年生の時、グラウンド整備時の事故で器具に指を巻き込まれ、失った。右手は利き手だった。

「怪我を負った当時はまず、もう野球はできないな、と思いました。学校に行けるのかな、普通に生活が送れるのかな、結婚とかできるのかな、そういう漠然とした不安も沸いてきましたね。まだ高校1年生で15歳。色々なことがこれからっていう年齢だったし、利き手を変えなければいけない不安もあって、必死でした」

人生に光りを差した障害者野球との出会い「キラキラ輝いて見えた」

 小学3年生から続けてきた野球を諦めなければならない。喪失感と不完全燃焼感を抱えて入院生活を送る土屋さんに、身体障害者野球の存在を知らせたのは、父・純一さんだった。「何かスポーツはやりたくて、サッカーのような手を使わない健常者スポーツも選択肢としてあるなと。ただ、やっぱりまだ野球をやりたい気持ちも心のどこかにありました」。そんな息子の気持ちを察したのか、退院すると千葉ドリームスターの練習に「無理矢理連れていかれました」と笑う。

 だが、この「無理矢理」が人生に光を差した。目の前で野球をする選手たちの障害は、先天性、後天性、手、腕、脚など様々。誰一人として同じ障害を持つ人はいない。個性豊かなメンバーたちは自分がプレーしやすい方法で、思い思いに野球を楽しんでいる。「めっちゃ心打たれましたね」と当時を振り返る。

「高校まで自分がやってきた野球とは概念が違いました。ようやくキャッチボールができるくらい人が多かったんですけど、色々な障害がありながら、みんなすごく楽しそうで、僕にはその姿がキラキラ輝いて見えたんです。自分が知らない世界を初めて知った衝撃が印象的で、すぐに興味を惹かれました」

 高校2年生になる2015年に千葉ドリームスターへ正式に入部した。右投げから左投げに変えるのも一苦労。捕球した左手のグラブを右脇に挟んで外し、左手で送球する“スイッチ”を覚えるのも一苦労。週1回のチーム練習に加え、自宅で父と自主練習を重ねながら、ようやく手応えを掴むまで1年半を要した。今では左手にグラブをつけたままのトスや、親指だけの右手で投げる技も身につけた。

 打撃も工夫を重ねている。左腕一本で軟式球を打ち返すのは「なかなか酷な話なんです(笑)」。左打ちを右打ちに変えてみたり、バットのグリップを短く持ってみたり。「アドバイスをもらいながら試行錯誤を繰り返しました。今は右手も添えられるようになったので、左打ちに戻しました。何が正解か分からないから、常に自分のやりやすい方法を探しています」という。

 身体障害者野球を始めて間もなく日本代表の存在を知ったが、当時は「慣れるので精一杯。いずれなれたら嬉しいな、くらいでした」。徐々にできるプレーが増え、自分のスタイルで戦える自信がついてくると、日本代表入りは夢ではなく目標に変わった。そして、入団から8年目の今年、日本代表キャップを被って笑顔を浮かべる土屋さんがいる。

「実際に日本代表に選ばれた時はホッとしたし、良かったなと。チームのみんな、お世話になった人たちが喜んでくれたし、何よりも両親が僕以上に喜んでくれたのが一番嬉しかったです。日本代表になったことが、怪我をしてからの一区切りになるという想いもあります」

日本代表入りで見つけた新たな目標「一歩踏み出せるコミュニティを」

 社会人3年目の24歳。普段はフルタイムで働きながら、週1回の練習に参加する土屋さんは最近、少しずつ考え方が変わってきたという。「今までは自分のことを一生懸命やってきましたけど、今度は自分が発信して、次につないでいく。そっちの方が重要だなって気付きました」と切り出すと、真摯に言葉を紡いだ。

「すごく難しいことですけど、世の中には障害を持っていて引き込もってしまう人もまだまだいるようなので、そういう人たちが一歩踏み出せるコミュニティを作っておいた方がいいと思うんです。僕はこの野球に少なからず救われた部分がある。だから、身体障害者野球があることを発信して知らせていきたいですし、この環境を保っていきたい。いてほしくはないですけど、僕みたいにある日突然怪我をして、将来に対して漠然とした不安を持つ人が1人でも、こういう世界もあると知って前向きに乗り越えられたらいいなと。せっかく日本代表に選ばれたので、そういう責任もあるなと感じています」

 2連覇を目指して戦う9月の世界大会は「怪我をしてから今日まで、本当に色々な人に助けてもらったので『ありがとうございます。おかげでここまで来られました』という感謝の気持ちを表現しながら、自分としても『ここまで来たんだ』という想いを噛みしめられるような大会にしたいです」と晴れやかに微笑む。

「日本代表になったら一区切り、そこで終わりかと思っていたんですけど、なったらなったで次につなげたいという想いが出てきた。個人的には一区切りでも、それだけじゃないのかなって。終わったら、また次が始まる、というか。最近、ドリームスターに車いすの高校生が入ってきたんですけど、毎週日曜日の練習が楽しみって言ってくれるんです。一生懸命に野球をする彼の姿を見て、その子のお母さんも嬉しそうで、そういうのがなんか素敵だなって。だから、若い子にもどんどん入ってもらって、(野球の時間が)希望みたいな感じになればいいなって思います」

 感謝と希望を胸に臨む世界大会。バンテリンドームでは自分にしかできない唯一無二のプレーを披露し、次世代へのバトンをつないでいく。(佐藤直子 / Naoko Sato)