他者を説得するにはどんな言葉をかければいいか。フランスの哲学者・マクシム・ロヴェールさんは「誰かの価値体系を変えようと、『そういう行動はやめるべきだ』と言ってはいけない。話し手の実態が本人とルールの2つに分裂した常軌を逸した状態になってしまう」という――。

※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuppa_rock

■バカに説教をしてしまうのはなぜか

象とクリスタルガラスは全く違うものですが、なんと、このふたつの特徴を併せもつバカがいます。生きた象の体がクリスタルガラスでできている、と想像してみてください。

重さ数トンのこわれものが、長い鼻を揺らし、自由にのし歩き、なんならドスドス走ってこちらに来るわけです。

そういうバカは、初めて会って握手をした瞬間に、危ない、嫌な感じがします。慎重に扱わなければならないということが、最初からわかるのです。

こちらは、バカに何か言うときも、バカのほうを見るときも、ほぼ毎回、軽業のように、巧みに衝突を避けなければなりません。

バカは次から次へと現れ、わたしたちは、うまくよけられているか必ずしも確信がもてないまま、この軽業を続けます。するとそのうち、全部ガッシャーンと壊れる日が来ます。

わたしたちは、バカが粉々に壊したものを見つめながら、取り返しのつかない事態というものを味わいます。それは何よりもつらい経験ですが、バカも派手に壊れるという点では、何よりも素晴らしい経験でもあります。

哲学者のなかには、慰めようという意図で、「取り返しのつかないことというものは、要は避けようのないこと、つまり必然だったのだ」と言う人もいます。

でも、それは優しい嘘です。取り返しのつかないことのほとんどは、偶然の事故で起きます。そして、それこそがまさに、バカとは何かを言い表しています。

バカはそうした偶発的な出来事を、回避不能にしてしまいます。偶然を必然にしてしまうのです。

本稿の内容
・人はバカに対して含みをもたせた説教をしがちである。
・こうした説教はバカに対して無力であることの表れであり、効果はない。

■バカは人の資質ではない

本稿ではバカにどう対処するか考えましょう。

まず、みなさんにはあえて一点に注目していただきたいと思います。その一点とは、たとえどこをとっても不快な人間がいても、「バカであること」は「賢い人であること」と全く同様に、人の資質ではなく、いわば行動様式だということです。

いやいや、「バカ」という言葉にはふたつ意味があって、「バカなこと(行為がバカであること)」と、「バカな人(人の資質がバカであること)」の両方を指している、などと、ここで理屈をこねることはいったんやめておきましょう。

年季の入ったバカはいても、生まれつきのバカはいません。バカとは、もって生まれた性質ではないのです。したがって、「バカなことをすること」と、「バカであること」は、結局は全く同じことを意味する表現だということです。

人はバカなことをすればそのときはバカである。バカなことをしなければバカではない。これについてはみなさんも納得していただけることでしょう。

■バカという問題の解決方法

さて、バカという問題に対して、一番よく提示される解決方法を、ここに書いてみます。次の,砲弔い討蓮△匹Δ靴討海硫魴菠法になることが多いかというと、バカは資質ではなく行為だからなのです。ちなみに、わたしはこの「どうして」の部分に関心があります。

〈バカという問題の解決方法〉
 々坩戮世韻鯤霧弔棒擇衫イ靴胴佑┐襪海函
◆ー,❶と❷は無関係なものと考えること。

❶ あなたがどんな人間か(立派な人間)
❷ バカがあるべき姿(もうひとりの立派な人間。バカなことをしているときには、そうなれていない)

「バカがあるべき姿」と書きましたが、バカのせいで怒りが湧くと、すぐに「べき」という義務の話になると言ってよいでしょう。

バカのすることと、立派な人間がすべきふるまい方(少なくとも、あなたが思う「立派な人間」の概念に沿ったふるまい方)の間には断絶があります。

この「べき」という言い方はどうなのか。もう少し思いやりをもつにはどうしたらよいか。そうした議論は今は置いておき、まずは説教めいた態度について考えてみたいと思います。

■行きつくところは説教

バカに対するあなたの反応はさまざまでしょう。ひたすらののしる。その場で長々と話しあう。非難の言葉をつぶやく。面倒なことになったので頭の中でいろいろ考える。実は、どれも行きつくところは同じです。

つまり、普通、人はバカと関わるといろいろ考えさせられますが、それは全て小言や説教になるのです。

「ダメじゃない、バカなの?」
「ほんと、バカみたいなことして」
「バカはやめなさい!」

こんなにシンプルで短い表現でも、いくつもの説教のパターンがありますね。

■説教とは相手の価値体系を変えようとすること

もともと、わたしたちの頭の中には、「立派な人間になるためには、一通りの道徳上の義務がある」という、普段からもっている考えがあります。

バカな行為を目にすると、無意識のうちに頭が素早く働いて、自分の思う義務と、それと一致しない行為を、心の中で照らしあわせます。

そして、白い四角の枠に青い丸の積み木をはめこもうとしているサルのように、そのふたつをコンとぶつけあいます。でもどうしようもありません。それはぴったりはまらないのですから。

とはいえ、全てのふるまいをひとつの道徳観で評価し、その道徳観のベースとなる価値体系を相手に共有してもらおうという姿勢は、あながち間違っていないのではないかと、みなさんはお思いになるでしょう。それはわたしも同感です。

実は、説教が効果を上げるには、相手の側に、いくつかのルールを理解した上で、そのルールが有効だと認める能力がなければなりません。人が誰かに説教をするときには、そうした相手の能力をあてにしています。

そうやって、自分がバカであるがゆえにどんな行為をしているのか、本人に認識してもらうのです。というのも、バカは自分がバカなことをしたことに気づけば、当然、バカであることをやめるからです。

そういう意味では、わたしたちがすぐバカに説教をするのは、バカな人をバカなこと(行為)から引き離すための努力に他なりません。ひょっとしたら、それがいわゆる和解への第一歩になるかもしれません。

バカを敵ではなく味方にしたい。だから、味方になるようバカを説得するために、いわばこちらの世界のルールを説明するのです。向こうがそのルールを認めれば、どちらも、同じひとつの出来事を前にした、立派な人間になれるわけです。

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したがって、説教とは相手の価値体系を変えようとすること、となります。バカが自分の行動と自分自身を切り離し、こちらが大事にしている価値体系を採用することで、それまでは不適切なふるまいをしていても、以後、同じことを繰りかえさないようにしてほしいのです。

つまり、わたしたちは、相手の主観の方向性を変えようと努力しています。それが変われば、相手は自分の行為を、もともともっていたのとは別の道徳観である、こちらの道徳観と照らしあわせます。相手は自分の過ちに気づいたら、その道徳観に沿って人間性を高めなければなりません。

その際、わたしたちは、まず価値体系を共有しないことには、道徳観も共有できないということを理解します。どういうことかというと、人の道徳観には、ベースとなる価値体系(その人が物事について考える際の基準)があります。

価値体系は、物事に対する(質的な)判断で成り立っていますが、その価値体系に同意している場合に限り、それに沿った道徳観で人を比較して(量的に)点数をつけるようなことが可能です。道徳観だけを取りだして、ものさしのように使うことはできません。

■義務を主張するとどうなるか

さて、一番大事なのは、説教めいた話はどれも、「義務」の概念に訴えているということです。わたしたちは、義務を果たさなかった人にそのことを気づかせようと努め、その人が気づくことで、今後よりよい人間になってくれることを期待します。

ところが、ここであっと驚くような逆転現象が起きます。バカとバカでないほうの人(わたしたち)の立場が入れ替わるのです。どういうことか、これから詳しく述べていきます。

実は、人は誰かに、道徳上の義務をもちだして説教をするとき、妙に含みをもたせた言い方になるのです。つまり、説教の種類が、直接的ではない、ほのめかしのような、言外の説教になるのです。

もちろん、具体的な状況における実際の会話は、最終的にはののしりあいになることもあります。

でも、とにかく、ごく単純な言葉の裏で、ある表現の仕掛けが働いているので、これからそれを明らかにしていきます。それは、実際にバカに言っている言葉には表れていません。話している当人も気づいていない、含みのようなものです。

それを言葉にして書きたすと、このような感じでしょうか。

「きみは本当なら、〜すべきだったのにしなかった(ぼくがどうこうじゃなくて、道徳上の義務だよ)。」

今のは、過去に焦点を当てて道徳上の義務を果たさなかったことを責めるパターンですが、未来に焦点を当てて義務を果たすように伝えるパターンだとこんな感じでしょうか。

「そういう行動はやめるべきだ(ぼくがどうこうじゃなくて、道徳上の義務を教えてあげているだけ。だって、ぼくの力ではきみのこんなバカな行動を阻止できなかったわけだから、ぼくはきみに意見するつもりはない)。」

こうして言語化してみると、話し手はとても不思議な態度を取っていることがわかります。話し手の実体が、話している本人とルールのふたつに分裂しているのです。

ルールは概念ですから、人が、人と概念に分裂する、というのがつかみづらければ、こんなイメージで考えてみましょう。話し手が鏡の前にいるとします。鏡には話し手の姿が映っています。話し手はこんな態度を取っています。

・物理的に言葉を発しているのはぼくの口
・きみの行動がいいか悪いか判断し、この話をしているのは、鏡の向こうの幻のぼく

不思議ですよね。要は、自分は別のものに口を貸しているだけだという態度です。これが仮に、預言者が神のお告げを口にするときの話なら、全く不思議ではありません。

言いかえると、この話し手の話は、自分の関与を隠すように組み立てられていて、自分が出している指示(「きみはこうすべき」あるいは「こうすべきではない」)を、外部の権威に託しているのです。

人はこうした説教めいた態度を取るとき、なぜいつも他の何かの判断をあおがないといけないのでしょうか。それは単純に、話し手が何かを義務だと言っても、その話し手の言葉だけでは、本当に義務だという信ぴょう性に欠けるからです。

つまり、そう主張している話し手には、相手を説得できるだけの権威がありません。というのも、相手から見れば、このとき実際にバカなのは話し手のほうだからです。

写真=iStock.com/SIphotography
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分裂しているのは話し手だけではありません。説教をされる側のバカの実体も、やはりふたつに分裂していることがよくわかります。実際にバカなことをした人と、その人がなりそこねた、話し手の想像上の立派な人間がいるのです。

話し手が分裂していると考えると、人がバカに説教をするときの仕組みがわかってきます。話し手は、バカも分裂させて、そのままのバカと、バカのあるべき姿のふたつを見ているのです。これも、バカが鏡の前にいるとして考えてみましょう。

・そのままのバカ
・鏡の向こうにいる、バカがあるべき姿(話し手の思う立派な人)

要するに、ふたりが横並びで鏡の前にいるような構図です。誤解しないでいただきたいのですが、わたしには、相手を立派な人間にしようとすることに問題があるようには思えません。

なぜなら、説教で相手を変えて、人類が全員、みなさん(この場合、わたしの読者のみなさん)のようになれば、今よりずっとうまくいくでしょう。みなさんそうお思いになりますよね。わたしも同感ですし、心からそう信じています。

■含みのある説教について考える

含みのある説教は、不思議な構造をしています。話し手が事実から目をそらしているようなところがふたつあるのです。

ひとつめは、話しているのは自分ではなく、自分の口を借りた誰かであるかのような態度です。ふたつめは、目の前にいる相手のことを話すというより、自分が思う、相手がなるべき姿について話しているところです。

この不思議な構造の正体を突きとめることが必要だと思われます。

では、含みのある説教について、簡単にまとめてみます。

 ]辰啓蠅蓮他の人の義務の話をするとき、自分ではない者が話したり考えたりしているかのようである。

◆]辰啓蠅蓮義務を無条件のルールのように述べている。しかし、神でもないひとりの人間が、有効条件を先に明示せずに真理を語っても、それは真理とは言えない。

 話し手は、バカがすでにバカではなくなったかのように、バカの行為(バカがしたバカなこと)を解釈している。言いかえると、自分が見込んでいる結果が得られること(バカが立派な人間に変わること)を前提としている。

このあたりの理解はたやすいでしょう。話し手が現実から目をそらしたような言い方をするのは、バカに対して無力だからです。無力だから、直接対決を避けているのです。

■説教とはバカに助けを求める行為

説教めいた態度を取れば、たちまち、大声で罵倒したり、くどくどと小言を言ったりということになりかねません。そうなれば、結局同じです。言おうとしていることを、整然と言葉にすることはできないでしょう。

先ほどの 銑のような性質の説教をしても、相手にはよく理解できません。日常会話における議論の分析に習熟している哲学者ならまた別ですが(ちなみに哲学には、形式論理、非形式論理という用語があり、日常会話などは非形式論理に入ります)。

でも、説教について、理解すべきことはひとつだけです。つまり、含みのある説教をする人はみな、自分の無力さをひしひしと感じているのだということです。義務を無条件のルールであるかのように語り、人はどうあるべきかと主語を大きくするのにも理由があります。

自分の言いたいことを、自分が先頭に立って、お互いに納得できる言い方で言うことが、もはやどうしてもできなくなっているのです。

つまり、説教めいた話は、実は、どうしていいかわからず混乱している状態をやりすごしたくてこぼす愚痴のようなものです。

なぜ愚痴かというと、そこで使われる言葉には、ほぼ意味がないからです。意地悪なバカやその他の嫌なバカを前にして、あまりの苦痛に表現力がいわばバラバラになってギュッと縮こまり、おかしなふうに発揮されてしまっているのです。

「わたしが言っていることをわたしは言っていない」

常軌を逸した言い方ですが、こういう意味だと解釈できます。

マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社

「何がどうなっているのかもうわけがわからない。いいかげんにしろよ、このバカ」

説教は、助けを求める声です。話し手が頑として引かず、自分は何も言っていない、これを言っているのは自分ではない、という態度で説教をしている場合は全て、完全に助けを求める声です。

でも、それはどうかしているということを、みなさんはわかってください。説教をすると、敵に助けを求めることになります。

しかも、自分の豊かな表現力を捨てて。そんなことをすれば、わざわざ自分から悪夢を見にいくようなものです。そんな必要がありますか? どうか目を覚ましてください。

本稿のポイント
説教めいた態度はやめよう。道徳上の義務と照らしあわせて人の行動のよしあしを判断するのも今すぐやめよう。

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マクシム・ロヴェール作家 哲学者
1977年生まれ。フランスの作家、哲学者、翻訳家。高等師範学校でベルナール・ポートラに師事。2015年から教皇庁立リオデジャネイロカトリック大学(ブラジル)で哲学を教える。本書は本国フランスはじめ、世界10カ国以上で注目を集める話題作となる。ジョルジョ・アガンベン、チャールズ・ダーウィン、ヴァージニア・ウルフ、ルイス・キャロル、ジョゼフ・コンラッド、ジェームス・マシュー・バリーなど哲学書、文学書の翻訳も手がける。
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(作家 哲学者 マクシム・ロヴェール)