「親友がいない」と悩む人に、ブッダならどんな言葉をかけるだろうか。福厳寺住職でYouTuberの大愚元勝さんは「お釈迦様の教えでは、愚かな友と群れるぐらいなら、孤独に生きていくほうがいい。一方で、自分を高めてくれる『善友』がいると、人生に大きな価値を与えると説いている」という――。

※本稿は、大愚元勝『思いを手放すことば』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yands

■「理解し合える親友」はいずれいなくなる

心から理解し合い、なんでも話せる友だちがいません。
親友がいる人がうらやましい。

結論から言うと、「理解し合い、なんでも話せる」一生ものの親友がいる人はいないと思います。人との関係は、変化するものだからです。

学生時代に仲がよかった友だちから数年ぶりに連絡があり、うれしくなって会いに行くと保険の勧誘をされた、なんて話は珍しくありません。こんなことが起こるのは、人間は移りかわっていく存在だからです。

自分を振り返ってみてください。学生時代の自分、結婚した自分、転職した自分、子どもをもった自分……。暮らし方や考え方がどんどん変化し、それに合わせて人間関係もかわってきているのではないでしょうか。小中学校時代の親友とのつき合いが続いているとしても、つき合い方はかわっていると思います。

今はすべてを分かち合えるような関係でも、いずれ状況はかわるもの。それに伴って気持ちのズレも生じます。お互いに親友と思っていられる期間は、それほど長くないのが普通だと思います。

■お釈迦様は親友ではなく「善友」を探せと説いた

そもそも「自分のすべてを理解し、なんでも話せる親友」という存在は、人間の希望と幻想がつくりあげたもののような気がします。他人をそこまで寛容に受け止められる人間がいるなんて、とても信じられません。

そんな友を探してもむだだとわかったから、人は神を求めたのだと思います。自分のすべてを理解し、受け止め、認めて許してくれる存在として、神を信じるようになったのではないでしょうか。

釈迦は、親友ではなく「善友」を求めなさい、と説いています。善友とは、人格的にすぐれ、自分の先を行ってよい影響を与えてくれる人のことです。

弟子のアーナンダが「善友がいることで、修行のどのぐらいが達成できるのですか?」と尋ねたとき、お釈迦様は「すべてです」と答えています。自分を導き、押し上げてくれるような友の近くにいることには、それほど大きな価値があるということです。

■よい友に出会いたいなら自分の心を磨き続ける

人間同士、すべてを理解し合うことはできませんが、善友とは心の深い部分でつながれると思います。こうした友の存在は、人間に幸福をもたらしてくれるもの。親友がいないことをさびしく思うのなら、善友を探してみてはどうでしょうか。

善友に巡り合うための方法は、ただひとつ。自分の人格を高めることです。

収入が上がると、お金に魅力を感じるリッチな人たちとのつながりができます。知名度が上がると、有名であることに魅力を感じる人たちと親しくなります。そして人格を高めた場合も、同じことが起こるわけです。

お金をもっていたり、有名だったりすることも、もちろんその人の魅力のひとつです。でもこうした魅力は、他人と比べて相対評価されがちです。

「リッチで素敵!」と寄ってきた人は、もっとお金をもっている人に出会ったら、そちらに乗りかえていくでしょう。この関係は、善友とはいえません。人間の外側を飾るものを基準にしているうちは、だれかと心でつながることは難しいんです。

■善友は何かを奪ったり裏切ったりすることはない

これに対して人の内面は、一律に他人と比べられるものではありません。その人の人間性に魅力を感じたのなら、一方的に見限ることはないでしょう。仮にもっとすぐれた人に出会っても、違う魅力をもつ善友が増えるだけのこと。優劣をつけてどちらかを選ぶ、ということにはならないはずです。

お金や知名度を頑張って手に入れても、失ったり奪われたりすることがあります。でも心を磨くことに後戻りはありません。磨けば磨くほどよりよい自分になっていくだけ。おまけに、善友は高め合う仲間。自分から何かを奪ったり裏切ったりすることは決してありません。

人の心は、一生、成長期です。善友を求めるのに、遅すぎることはありません。今すぐ「人格磨き」に取りかかってみてください。

親友ではなく、善友を求める。

■「寂しいから誘う」より「分かち合いたいから誘う」

人から誘われることが少なくてさびしい。
自分はだれからも必要とされていないのでしょうか。

人を誘う動機には、2種類あると思います。ひとつめが、自分のさびしさや不安を紛らわすため。相手がさびしそうだから、友だちとして一緒に何かを楽しみたいからと誘うのではなく、自分の心の空白を埋めることが目的です。

ふたつめが、よいものを分かち合うため。友だちが好きそうな美術展を一緒に見に行きたい、運動不足を気にしていた友人をハイキングに誘いたいなど、相手も喜んだり楽しんだりしてくれることを望んでいます。

誘われたときにうれしいのは、分かち合うための誘いです。自分がさびしいからとだれかを誘うのは、相手から安心などを与えてもらうため。「私にやさしくして」と求めているにすぎません。

これに対して分かち合うための誘いは、相手に何かを与えようとするもの。相手のことを考えて「私と一緒にこれをいかがですか?」と差し出しているんです。

写真=iStock.com/y-studio
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■大切にする相手を限定してしまっていないか

誘われないことにさびしさを感じるのは、もらうことを求めるばかりで、人に与えてこなかったからかもしれません。他人に与えられる人には、与えてくれる友がいるものだからです。

大愚元勝『思いを手放すことば』(KADOKAWA)

お釈迦様は修行者に対して、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」と説いています。愚かな友と群れるぐらいなら、孤独に生きていきなさい、ということです。

ただし、修行中ではない人まで「犀の角」になる必要はありません。孤独は悪くないとわかっていても、つらいものです。職場や地域、趣味のグループなど、人とつながれる場は多くもっておいたほうがよいと思います。こうしたコミュニティをきっかけに、誘ったり誘われたりする関係も生まれるのではないでしょうか。

お釈迦様は性別も民族も関係なく、すべての命を慈しむことを勧めています。私たちは大切にする相手を、家族や恋人、親しい友だちなどに限定してしまいがちです。

でも、それ以外の相手にも「友」という感覚を広げてみてください。大切にする相手が一気に増えますよね。

■ひとりでいるさびしさを感じずにすむ考え方

仏教では、そこからさらに慈しみを広げていきます。動物、昆虫、植物……。生きているものすべてを、同じ重みをもつ命ととらえるんです。命がたまたま人間であったり花であったりするだけのこと。そう思うと、命あるものはすべて仲間だという気持ちが生まれませんか?

こうした気持ちが「慈悲心」です。慈悲心が広がっていくと、足元の草も、空の鳥も、道を横切る野良猫も、すべて仲間だと感じられる。人間の仲間と一緒にいるのはもちろんいいけれど、ひとりでいてもそれほどさびしさを感じずにすむんです。

自分で友だちを限定してしまっていることが、さびしさの原因となっている場合もあります。だれもが年を重ねると、家族と離れたり友人とも会いづらくなったりするもの。自分がひとりぼっちのような悲しさを感じることもあるでしょう。

■「友だち」の枠を外せば出会う人はすべて友だちに

そんなときは、「友だち」の範囲を修正してみてください。自分の周りにはたくさんの人がいる。日本だけでも、約1.2億人もの人がいますよね。

だれもが無意識で、「誘い合って何かを一緒にできるのが友だち」などの思い込みをもっていると思います。でも命あるものはすべて仲間なのですから、思い切って友だちの定義も手放してしまいましょう。すると、何が起こるか? 出会う人すべてが友だちになり、「人も歩けば友だちに当たる」なんてことになるんです。

私の母は行く先々で、出会った人となれなれしくおしゃべりしています。別れた後に、「どなた?」と聞くと、「知らない」。単に、同じ時間にスーパーで買いものをしていただけの人と楽しそうに話し、評判のよい歯科医を紹介してもらっていたりするんです。母を見る限り、「出会った人はみな友だち」と思えれば、さびしさはなくならないまでも、薄れていくのではないかと思います。

命あるものはみな友だち。出会う人はみんな。

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大愚 元勝(たいぐ・げんしょう)
佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表
空手家、セラピスト、社長、作家など複数の顔を持ち「僧にあらず俗にあらず」を体現する異色の僧侶。僧名は大愚(大バカ者=何にもとらわれない自由な境地に達した者の意)。YouTube「大愚和尚の一問一答」はチャンネル登録者数57万人、1.3億回再生された超人気番組。著書に『苦しみの手放し方』(ダイヤモンド社)、『最後にあなたを救う禅語』(扶桑社)、最新刊としてYouTube「大愚和尚の一問一答」のベスト版として書籍化した『人生が確実に変わる 大愚和尚の答え 一問一答公式』(飛鳥新社)がある。
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(佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表 大愚 元勝)