WBC(ワールドベースボールクラシック)優勝の余韻が続く中でサッカー日本代表のウルグアイ戦、コロンビア戦は行われている。それぞれを比較したがる人は多くいる。筆者も例外ではないが、それはひとつ間違うと本質から外れた話になることも事実。乱暴な比較は禁物だ。しかしビューを稼ぐにはもってこいのテーマなので、お構いなしの人も少なからずいる。ウルグアイ戦後の会見でも森保監督に「WBCで話題になった栗山監督の“信じる力”についてどう思うか」なる質問が向けられた。

 不振が続いた昨季の三冠王村上宗隆を最後までスタメンで起用し続けたことを“信じる力”だとし、この采配についての感想を森保監督に求めたわけだが、質問者はサッカー監督に野球監督の采配について意見を求める行為を不自然だと思わないのだろうか。森保監督が自他共に認める野球通として世間に認知されているならともかく、そうでなければ競技性に踏み込むような質問は控えるべきなのだ。森保監督が口にできるのは本来、祝福の言葉しかないはずである。

 森保監督は真面目な性格なのだろう。対応に苦しみながらも律儀に言葉を返していたが、野球という競技をリスペクトするならば、ノーコメントが妥当だろう。

 サッカーを他の競技のコンセプトで語るな。日本の場合、最も認知度が高い競技は野球なので、野球的な視点でサッカーを語るなと言いたくなる瞬間に、普段から多々出くわす。

 それぞれの競技にはそれぞれの特徴がある。野球とサッカーでは守備と攻撃の概念に大きな差がある。信じる力、信じて使い続けることの意味に大きな差が生まれるのは当然だ。不振と一口に言っても中身が違う。

 背景に潜む文化も違う。土台が根本的に異なるそれぞれの競技を、同じ土俵の上で無理に交わらせるなと言いたい。その競技の魅力はなんなのか。その点を掘り起こし、詳らかにすることが、普及発展を考えるライターに課せられた使命だと考える。

 野球には野球の面白さがある。サッカーにはサッカーの面白さがある。バスケットボール、バレーボール、ハンドボール、バレーボール……それぞれ大きな差がある。個人競技と団体競技の違いもある。それぞれをもっと尊重すべきなのだ。

 同じスポーツだからと十把一絡げに括ろうとする人は多くいる。その中心に野球は位置している。スポーツ=野球。スポーツが野球的な視点で語られることが多い理由だ。日本サッカーの進歩の妨げになっている一番の要素だと筆者は考える。

 他の多くの国はそうではない。ナンバーワンスポーツがサッカーである国が圧倒的多数を占める。目にはハッキリと映らないが、日本が抱える大きなハンデだと考える。

 WBCを通して逆に鮮明になったサッカーの魅力もある。WBCとカタールW杯の視聴率を比較すれば、WBCがすべての試合で40%を超えたのに対し、カタールW杯は日本対コスタリカ戦に限られた。カタールW杯が放送された時間帯が深夜あるいは明け方だったこともあるが、WBCに劣ったことは事実である。しかし、だからといってサッカー人気は野球人気を超えられなかったと結論づけるのは早計だ。

 日本戦以外に目を向けると話は変わってくる。外国同士の試合ではサッカーの方が断然上回るはずなのだ。外国同士の試合をネット配信のABEMAで視聴した人も相当数に及んだという。日本代表対侍ジャパンの関係では野球に軍配は挙がった可能性が高いが、サッカーファン対野球ファンの関係ではサッカーが上回った可能性が高い。

 サッカーファンの中には潜在的に外国サッカーに関心がある人が多くいるとの見方もできるが、それ以上にサッカー競技そのものの面白さに起因すると考える。パッと見、面白い。選手の名前など詳しく知らなくても楽しめてしまう。基本的に接戦で番狂わせも起きやすい。延長にならなければ2時間を超えることはないという適当な試合時間も輪を掛ける。

 日本が敗れてからが本当のW杯だと言い出す人さえいる。観戦動機にナショナリズムが占める割合はサッカーの方が野球より低い。筆者も野球は嫌いではないし、WBCにも目を凝らしたクチだが、なんというか、バランス的に優れているのはサッカーになる。

 日本に限った話ではない。全世界的な傾向だ。自国が敗れた瞬間、W杯の観戦を辞める人は少ない。予選で自国が敗れても本大会に目を凝らす人は多くいる。当たり前の話になるが、サッカーと野球とではファンの絶対数が違うので、応援のスタンスも様々だ。一本調子になりにくい。

 カタールW杯に駆けつけた報道陣の中で、日本の敗戦と同時に帰国した人は全体の約3分の2で、決勝戦まで観戦取材し続けた人は3分の1だった。日本代表ファンとサッカーファンの関係も似たような関係にあるのではないか。サッカーの特殊性を象徴する一件であると筆者は見ている。