がんで余命間近とわかった人は、どんな最期を迎えるのか。奈良県立医科大学附属病院の四宮敏章教授は「原発不明がんで余命2〜3週間となった37歳の女性は、中学生の娘さんと小学生の息子さんの前で、気力を振り絞って手紙を読み上げた。私はなんと強い人だっただろうかと感動した」という――。

※本稿は、四宮敏章『また、あちらで会いましょう』(かんき出版)の一部を再編集したものです。  

■「亡くなった母と記念写真を撮りたい」

死から始まる希望もあるのかもしれないという思いを強くしてくれた二人の患者さんのエピソードをお話ししたいと思います。

一人は、肝臓がんで亡くなった70代の女性です。娘さんがそばで付き添っていましたが、ずっとつらそうで、よく泣いていました。お母さまが亡くなってとてもおつらいだろうなと思いながら最後の診察と死亡確認を終えて詰所にいると、娘さんが走ってきました。

彼女は満面の笑顔で、一緒に記念写真を撮りたいと言います。

もう亡くなっているのに、記念写真? と不思議に思いながらも患者さんの病室へ戻ると、エンゼルメイクにより化粧を施され、とても美しくなった患者さんの姿がありました。私たちスタッフは亡くなった患者さんとともに写真を撮りました。

娘さんは、エンゼルメイクをされたお母さんがあまりに美しかったので、記念写真を撮ってほしいと思ったそうなのです。でも、あんなにつらそうに毎日看病していた娘さんです。記念写真を撮りたくなる気持ちが私には理解できませんでした。

写真=iStock.com/aldarinho
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/aldarinho

■笑顔で感謝の言葉を伝えて旅立った

「失礼だとは思いますが、なぜ記念写真を撮ろうと思ったのですか?」

思い切って娘さんに尋ねると、彼女はこう答えました。

「母は5年間も肝臓がんと闘ってきました。治療のたびに長い間病院に入院して、よくなったと思ったらまたがんが大きくなって入院。本当につらい日々でした。そんな治療を、母は頑張ってよく耐えたと思います。ホスピスに来て、痛みも取れて笑顔も増えました。そして今日、母は天国へ旅立っていきました。

看護師さんたちにきれいな笑顔にしてもらった母の顔を見たら、なんだかうれしくなったんです。本当にご苦労さま。よく頑張ったね。ありがとう、という気持ちになって。そうしたら先生たちと記念写真が撮りたくなって。この写真は、これから私が生きていく糧になるかもしれないと思ったのです」

そんな気持ちの変化を聞き、私は、以前にお見送りした50代の女性・Sさんを思い出しました。彼女は笑顔で感謝の言葉を伝えて旅立ちました。そのおかげで、私は死は怖いものではないと思えるようになったのです。

人が笑顔で旅立つと感謝が生まれる。そして残された家族には希望が残る。娘さんの話からそんなふうに思えたのです。

■“原発不明がん”37歳で2児の母Mさんのケース

もう一人、37歳のMさんのことが思い出されます。彼女は原発不明がんでした。がんは、肺がんとか大腸がんというように、がんが最初に発見された臓器の名前が頭につくのですが、原発不明がんの場合はもともとの発生場所がわからない。すでにどこかに転移した状態で見つかるため、治療も非常に困難です。彼女の場合は、見つかったときからすでに進行がんで、治療も抗がん剤しか手立てがありませんでした。

まだ30代と若く、ご主人と二人のお子さんがいるMさんは、完治して家族と一緒に暮らす希望を捨てずに抗がん剤治療を2年間頑張りました。しかし残念ながらがんの進行を食い止めることはできず、ホスピスに入院してきました。その時点で肺転移による呼吸困難の症状が少し出ており、余命2〜3カ月と考えられていました。入院してからは症状緩和もうまくいき、ほとんど苦痛なく過ごせていました。

しかし、2カ月が経過したころから、徐々に呼吸困難の症状が悪化、衰弱が進行し、ベッドに寝ている時間が長くなっていきました。

■残された時間を伝えるかどうか悩んだが…

あるとき、彼女は真剣な表情で私に話し始めました。

「私はここで死ぬ覚悟はできています。残された時間で、子どもたちに何かを残したいんです。先生、私、あとどのくらい生きられますか?」

彼女のお子さんは、当時、上が中学生の女の子、下が小学生の男の子でした。

私ははじめ、彼女に残された時間を伝えるかどうか悩みました。この当時の日本では余命告知に対して積極的ではなかったのです。私自身も、患者さんを死と直面させることに躊躇があり、ホスピスの患者さんに余命を告げることは行っていませんでした。

しかしながら彼女の必死な表情に隠しきれず、思わず「2〜3週間くらいだと思います」と、正直に告げてしまいました。すると、Mさんはほっとした表情でこう言いました。「わかりました。私もそれくらいだと思っていました。でも先生が言ってくれて納得できました」

■「これで思い残すことはありません」

その後、彼女は家族に手紙を書き、思い出の品を子どもたちにつくり始めました。

2週間後。Mさんは「手紙ができたので子どもたちに読んで聞かせたい。できれば先生たちも来てほしい」と希望され、私はスタッフと一緒に彼女の病室を訪れました。

部屋には10人近くの彼女の家族が待っていました。本人はかなり息が苦しそうでしたが、気力を振り絞って手紙を読みました。

「お母さんはもうすぐ天国に行きます。これからはお父さんを助けてみんなで力を合わせて頑張ってね。天国ではあなたたちのことを見守っています。私はあなたたちのお母さんで幸せでした。ありがとう」

娘さんはたまらず「お母さんみたいな看護師になる」と言って泣き出しました。彼女は看護師だったのです。そして息子さん、ご主人をはじめご家族全員がひとりずつ彼女と話しました。みなさん涙を流しながら「ありがとう」と、感謝の言葉を彼女にかけました。気がついたら私も泣いていました。病室じゅうに、温かな涙と感謝が広がっていました。

「先生これで思い残すことはありません。呼吸が苦しいから鎮静(睡眠導入剤を使って眠ることで苦痛を感じないようにする方法)してください」

私が鎮静を行うと、彼女は穏やかな表情で眠りに入っていきました。

写真=iStock.com/Passakorn_14
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Passakorn_14

彼女が旅立たれたのは、それから2日後のこと。とても安らかな最期でした。

■死と向き合ったからこそ強くなれた

私はMさんを看取り、なんと強い人だっただろうかと感動しました。

しかし、元来強い人ではなかったかもしれません。原発不明がんという難治がんを告げられ、つらい抗がん剤治療を重ね、何度も心が折れそうになったことでしょう。そのたびに気持ちを前に向き直し、歩まれてきました。ホスピスに入院してからは、弱っていく身体と向き合い、つらい症状と向き合い、そして自分の死と向き合い、葛藤の日々だったことでしょう。

そのうえで、自分の想いをしっかりと子どもたちに託すことを決めたのです。死を前にして彼女は母親としての最後の役割を果たせたのではないでしょうか。病気と向き合い、死と向き合った結果が、彼女を強くさせたのでしょう。

また、お子さんたちも母の想いをしっかりと受け止めていました。彼らは、彼女から「希望」をもらったのだと思います。亡くなっていく母親から、これからを生きていく子どもたちへバトンが手渡されたのです。

■痛みや苦しみを取り除くことで「よい死」を迎えられる

ホスピスでは、死が日常的に訪れます。しかしその死は、私が以前思っていた「怖く、悲しく、不条理なもの」ではありませんでした。

ホスピスでの死は「感謝」「笑顔」そして、「希望」なのです。

ホスピスだからできたこと、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ホスピスは、患者さんの痛みや苦しみを取り除くための治療やケアを専門に行うことで、残された時間を安らかに過ごすための場所です。

さらには、患者さんご本人だけでなく、家族の悲しみを精神的に支える役割も担っています。こうした環境が整っているから、感謝と笑顔が生まれ、希望が残るような看取りが可能となる――。

たしかに、ホスピスだから本人も家族も心残りのない「よい死」を迎えることができるというのは事実だと思います。

■ホスピス以外の場所でも緩和ケアは進んでいる

では、ホスピス以外の環境で、幸福ともいえる死を実現することはできないのでしょうか。

四宮敏章『また、あちらで会いましょう』(かんき出版)

私は、できると考えています。

まず、死に至るまでの痛みや苦しみは、医療技術の発達と緩和ケアに対する認識が医療者全体に普及したことによって、一般の病院でもかなりの部分を取り除くことができるようになってきています。

さらに今では住み慣れた自宅で最期の時間を過ごして旅立たれる人たちも多くなっています。身体的な面ばかりではなく、精神的な悩みや苦しみに対するケアも同様です。

また、緩和ケア医療の対象はこれまでがん患者さんがほとんどでしたが、生命の危機に直面する疾患をもつがん以外の患者さんに対しても、緩和ケアが導入されつつあります。こうした現状と展望から、死にともなう痛みや苦しみは最小限に抑えることができるといえます。

■死を悟ったときでは時間も体力も残っていない

人間は、肉体的な痛みや精神的な苦しみが強いと、ものを考えることができません。痛みや苦しみのなかでは、自分の人生をじっくり振り返ったり、家族や大切な人のことを思ったりする余裕がないからです。

でも、症状緩和と心のケアがうまくいっていればどうでしょう。

残された時間のなかで何をしたいか、何をしなければいけないかを考え、もしずっと気になっていたことが残っていたら、その問題にしっかりと向き合い、そのときの自分にできる精一杯のことを行う。家族や大切な人たちに伝え残したい言葉を届ける――。

写真=iStock.com/Chinnapong
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Chinnapong

そうやって人生最後の課題に取り組むことができるのではないでしょうか。そしてそれらをやり終えることができれば、後悔のない幸福な死を迎えられるのではないかと思うのです。

ただここで、見過ごせない問題が残っています。多くの場合、自分に死が近づいていることを知ったときには、こうしておけばよかった、あれもやっておくべきだったという課題に取り組むだけの時間も体力も残されていないということです。厳しいようですが、それが現実です。人生の課題を未解決のまま終えてしまう人もいらっしゃると思います。

私が「死を考えることは、生を考えること」だと言っているのは、こういう側面からでもあります。私たちの人生は有限です。いつ死がやってくるかは誰にもわかりません。だからこそ、人生の真っただなかを生きているいま、死を見つめることが大事なのです。

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四宮 敏章(しのみや・としあき)
奈良県立医科大学附属病院 教授、緩和ケアセンターセンター長
京都大学農学部卒業後、製菓メーカー、製薬会社に勤務。その後、岡山大学医学部を卒業。心療内科医になる。奈良県で初めてのホスピスを立ち上げる。ホスピスで終末期医療に携わり、3000人以上の看取りを経験する。その後、奈良県立医科大学緩和ケアセンター長として、早期からの緩和ケアに携わり、遺族ケアも積極的に行う。現在、緩和ケアを多くの方々に広めるため、YouTubeやnoteで発信を行っている。著書に『また、あちらで会いましょう』(かんき出版)がある。
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(奈良県立医科大学附属病院 教授、緩和ケアセンターセンター長 四宮 敏章)