「拉致問題の関連本の充実」を求める
旧統一教会の問題にからみ名前が挙がる機会が増えている文部科学省。その陰で、拉致問題をめぐる対応でも話題になっていた。
公立図書館や学校図書館で拉致問題に関する蔵書や展示を充実させるよう求める文書を文科省が各都道府県の教育委員会に送り、図書館関係者などから批判や懸念の声が上がったのである。その「北朝鮮当局による拉致問題に関する図書等の充実に係る御協力等について」と題する「事務連絡」が出されたのは昨年の8月30日だという。
「全日本教職員組合(全教)が9月8日にいち早く文科省に撤回を求める要請文を提出し、教育関係者の間ではその直後から波紋を呼んでいました。これまで、文科省が公立図書館や学校図書館にこのような要請をした例はなく、私も最初は驚いたというのが正直なところです」
そう話すのは、図書館情報学を専門とする沖縄国際大学総合文化学部の山口真也教授だ。
文科省の依頼に対しては、図書館問題研究会も10月9日に撤回を要請。10月11日には日本図書館協会が「図書館の自由に関する宣言」の理念を脅かすものであると懸念を訴え、同宣言への理解を求める声明を発表した。
「図書館の自由に関する宣言」は1954年、全国図書館大会と日本図書館協会総会で採択された(79年改訂)。背景には、戦前・戦中に図書館が国の進める「思想善導」の機関として検閲を通った書籍を重点的に置くなどし、国民の「知る自由」を妨げる役割を担ったことへの反省がある。同宣言には「図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、(中略)収集した資料と整備された施設を国民の利用に供する」と記されている。
「戦時下の図書館が国策に加担してしまった反省に立って『図書館の自由に関する宣言』がつくられ、図書館界はその歴史的経緯を踏まえて戦後を歩んできました。拉致問題の早期解決が望まれることだと理解しつつも、どんなテーマであれ、上下関係のある文科省から特定分野の図書の充実を求める文書が来たことに、違和感を持った図書館関係者は多かったんじゃないでしょうか」
そもそも、文科省が12月の北朝鮮人権侵害問題啓発週間に向けて全国の公立・学校図書館に拉致問題の関連図書の充実を求めたのは、特定失踪者家族会の要請を受けた内閣官房拉致問題対策本部から協力を依頼されたかららしい。
文科省の担当者には、協力を仰ぐ行為が「図書館の自由」を侵すことにつながるという認識はなかったのか。
「図書館が資料を集めて提供することも教育活動の一環です。教育内容に国が直接的に関与することを文科省がデリケートな問題として捉えていれば、内閣官房からの要請をそのまま図書館に流すという考えには至らなかったのではないかと、図書館界では受け止められています」
もしかすると、文部官僚の質の低下は深刻かもしれない。
国に言われるまでもないこと…
文科省は、全教と図書館問題研究会から求められた事務連絡の撤回にも応じていない。
「拉致問題に関して世論の啓発を図ることは、国と地方自治体の責務であると法律で定められています。おそらく、法的根拠に基づいてしたことだというのが文科省の考えなんでしょうね」
特定失踪者家族会と連携する特定失踪者問題調査会の荒木和博代表が、全教が文科省に「子ども、国民の思想を縛るきわめて危険なこと」として撤回を求めたことについて、自身のブログに次のように書いている。
《拉致問題への関心を高めるための取り組みが「危険なこと」などと言うことこそ「危険なこと」/そもそも「図書館の自由」は「図書館職員の自由」ではない/全教はただちに文科省に出した要請文書を撤回するべき》
「私もSNSで同じような意見を目にした記憶があります。こうした受け止め方があるのも当然のことだと思いますので、誤解のないよう説明したいのですが、まず、図書館関係の団体は拉致問題への関心を高める取り組みを『危険なこと』だと考えているわけではありません。
図書館は資料を主体的に収集・提供することを通じて、『知る自由』を保障する役割を担っています。知る自由とは、あらゆる基本的人権を保障するための基盤となる権利とも言われます。
例えば、憲法25条で生活保護を受ける権利が保障されていますが、申請方法や制度そのものを知らないとその権利を行使することはできません。こうした権利行使の前提となる情報をワンストップで集めて提供することが、図書館の役割とされています。つまり図書館は、憲法が定める基本的人権を誰もが平等に行使できるように、無料で知りたい情報にアクセスできる場所なんです。
拉致問題は、私たちの生存権を脅かす問題でもあります。図書館は当然、情報を提供しなければなりません。図書館員たちは図書館の自由宣言に則って活動するわけですから、国から言われるまでもなく拉致問題について知る資料は収集し、提供しているはずです」
「図書館の自由に関する宣言」には、「対立する多様な意見のある問題についてはそれぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する」とも書かれている。
「『幅広く』とは、図書館は公正な立場から少数意見も尊重し、多様な資料を集めて提供していかなければならないということを意味します。
拉致問題に関しても、特定失踪者家族会の方たちとは異なる解決策を望む内容の本や、政府が期待するような言論ではない資料、例えば北朝鮮の言い分が書かれたものなども図書館にはないといけないわけです。もし図書館が文科省の要請に応える形になったとしても、利用者に多様な意見の資料を提供していく役割を果たすため、関連する資料を幅広く扱うことになるでしょう。文科省がそこまで考えた上での今回の要請だったのか、やはり疑問が残ります」
非正規職員が8割で「図書館の自由」を守ることはできるのか
地方の図書館や学校図書館は予算や規模によって収蔵能力に限りがある。多様で幅の広い選書は実際に可能なのか。
「小さな図書館では現実的に難しいと思いますが、本の数は少なくても、問題意識を持ってパンフレットや新聞記事のスクラップを集めるなどの工夫はできるのではないでしょうか。
ただし、そのような専門職が求められていながら、図書館は人材が十分な状態ではないと言わざるを得ないのが現状です。図書館界では今、非正規職員の雇用問題が指摘されているんです。
先ほど私は、『国から言われるまでもなく』と言いましたが、現実には主体的に活躍できる専門職が育ちにくい環境になっていることも事実。その点もあわせて考えないといけないと思っています」
山口教授によると、1990年代後半までは図書館の正規職員と非正規職員の割合が7対3だったのが、今は逆転して正規が2、非正規が8になっているという。学校図書館ではパートタイム雇用や週に数日といった雇用形態もあり、非正規職員の問題はさらに深刻とも言われている。
「公立図書館のカウンターに立つ職員の多くは、会計年度任用や業務委託の非正規職員で、数少ない正規職員は奥の事務室で管理業務をこなしています。
文科省から今回のような事務連絡が下りてきた時に、図書館の自由と結びつけて対応を考えられる人的体制が整備されているのか。図書館の自由の理念を貫ける司書が今の環境下で育つのか。ちょっと難しい気がします」
文科省からの要請に対し、現場の司書の声はどうだったのだろう。
「沖縄県立高校の司書の方は、もともと人権週間にあわせて拉致問題を含めた展示をしていたそうで、『依頼されなくても取り組んでいたのに、国の要請に従ったと思われる。逆にやりにくくなった』とおっしゃっていましたね」
文科省の要請は結果的に、現場の邪魔をしたことになる。
「図書館の自由には『権力からの自由』という考え方も含まれています。図書館はあくまで、目の前にいる利用者のニーズや地域の事情などを踏まえて資料の収集や展示の企画を考えていかなくてはいけませんし、図書館と権力はかけ離れたところにあるという意識を持って活動していかなくてはいけない。今回の問題を通して、それを多くの図書館員が改めて確認するとともに、雇用の問題も含めて様々な人たちと一緒に考えていくきっかけになるといいなと思っています」
山口真也(やまぐち・しんや)沖縄国際大学総合文化学部教授。1974年、鹿児島県生まれ。’98年、図書館情報大学大学院修士課程図書館情報学研究科修了。2013年より沖縄国際大学教授、昨年から同大学図書館長を兼任。2014年度より日本図書館協会図書館の自由委員会委員を務める。著書に『図書館ノート』(教育史料出版会)、『情報サービス論(ミネルヴァ書房)』など。
取材・文:斉藤さゆり