29歳―。
それは、節目の30歳を目前に控え、誰もが焦りや葛藤を抱く年齢だ。
仕事や恋愛、結婚など、決断しなければならない場面が増えるにもかかわらず、考えれば考えるほど正解がわからなくなる。
白黒つけられず、グレーの中を彷徨っている彼らが、覚悟を決めて1歩を踏み出すとき、一体何が起こるのか…。
▶前回:「こんな冴えない女と?」元彼が結婚相手に、自分より地味女を選んだことを知った29歳女は…

ジレンマの壁【前編】
「それにしても、文乃。久しぶりに会ったけど、高校のときから全然変わらないね」
文乃(ふみの)の高校時代の同級生である真央が、感心したように言う。
彼女とは高校からの付き合いだが、コロナ禍の自粛期間中は会う機会がなかったため、ほぼ3年ぶりの再会となる。
フレンチバルでワインを飲みながら、会っていなかった空白の時間を埋めるように会話を交わす。
「そんなに変わってないかな…?」
― 確かに、メイクも薄いし髪型も一緒だもんな…。
文乃は銀行員という職種のせいもあり、メイクは清潔感を意識する程度に留めている。
髪型も昔からほぼ変わらず、後ろで結んでいるか結んでいないかの違いしかない。前髪も、“オンザ眉毛”のままだ。
「あ、でもね。ちょっとだけ心境に変化があったんだ」
「え、なになに?」
「留学したいなって思ってるの。フランスに…」
「ああ。そういえば、『フランスに行きたい』ってよく言ってたよね」
子どものころに観た映画『アメリ』に憧れて、フランスという国に心惹かれ、そこから料理や芸術にも関心を持つようになっていった。
真央との再会の場にフレンチバルを選んだのにも、そういう理由がある。
「留学ってことは、しばらく日本を離れるんだよね?仕事はどうするの?」
「仕事は、辞めようかなってる」
「文乃にしては、ずいぶん思い切った決断だね」
「うん!20代のうちに行きたいなって。今は彼氏もいないし、いいタイミングかなと思ってる」
文乃は、いつかはフランス留学の夢を叶えたいという願望を抱き続けていたが、30歳を目前にした今が、その最後のチャンスのような気がしている。
ようやく、その一歩を踏み出す準備を始めたところだった。
「あ、もうこんな時間!?」
久しぶりの再会で話は尽きず、あっという間に時間は過ぎた。
実家暮らしで門限を設けられている文乃は、時間が差し迫ってきたためチェックを入れる。
レシートを運んできたフランス人のギャルソンに、文乃はチラッと視線を送る。
― うわぁ、イケメンだなぁ…。
実は、真央と会話をしながらも、時折彼を目で追っていた。
精悍な顔立ちをした青い瞳の青年が、接客時に見せる柔和な笑顔に人懐っこさを感じ、興味を引かれた。

白いシャツにロング丈のソムリエエプロンの給仕姿もよく似合い、スタイリッシュな雰囲気を引き立てている。
文乃がバッグから財布を取り出そうとしたときに、誤ってキーホルダーを落としてしまった。
男性がサッと屈んで、それを床から拾い上げる。
だが、すぐには返さず手もとで眺め、文乃に尋ねた。
「タンジロウ、好きなんですか?」
ハッキリとした日本語だったか、文乃は言葉の意味が理解できず首をかしげる。
「これ『鬼滅の刃』のキーホルダーですよね?」
「あ、ああ!」
キーホルダーは姪っ子からのもらい物であり、文乃が選んだものではなかった。
子どものころから、親のしつけでアニメはあまり見せてもらえず、今でも知識に疎く会話が続かない。
― ああ…。せっかく話しかけてくれたのに…。
彼と会話するチャンスだったのに、話題をふくらませることができず残念に思う。
だが、会計を済ませたところで、文乃のほうから声をかけてみた。
「日本語、とても上手ですね。日本に来てもう長いんですか?」
男性は笑顔を浮かべ、「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べる。
「4ヶ月前に、フランスから留学に来たばかりです。日本のアニメが好きで、文化にも興味を持つようになりました」
「そうなんですか!私はフランスが大好きで、留学を考えているんです…」
共通点を見つけたようで、俄かに文乃のテンションが上がり、声も弾む。
文乃は、溢れ出るフランスへの強い思いを、身振り手振りを交えながら伝える。
すると、青年はそれを受け止めるように優しい微笑みで返してくれた。
「僕、リュカといいます。よかったらまたお店にいらしてください」
真央とともに出口に案内され、にこやかに送り出された。
短時間ではあったが、憧れの地からやって来た青年と、心を通わせられたような満足感をおぼえる。
― はぁ…。楽しかったなぁ。
大きく息をつくと、冬の冷たい空気が胸に流れ込む。
だが、どうも胸の奥に熱のこもったような感覚があり、息苦しさを感じる。
その感覚が、“ときめき”による感情の高ぶりであることに、文乃はしばらくして気づく。
◆
23時、広尾にある自宅に帰宅した。
「ただいま」
両親に挨拶を済ませると、文乃は足早に自分の部屋に入る。
スマートフォンを取り出し、画面を眺めながら真央の言葉を思い出す。

「リュカ君のこと、気になるなら食事にでも誘ってみたら?」
文乃が、「連絡先知らないもん」と返すと、真央は呆れたように首を横に振った。
「きっと店のインスタとかあるでしょう。リュカ君だってフォローしてるだろうし。そこからつながって、DMでも送ればいいじゃない」
実に的確なアドバイスをよこした。
― そんな大胆なことできないよ…。
文乃はベッドの上に仰向けに寝転がる。
天井を見上げながら、もうひとつ、真央の言葉が頭をよぎった。
「文乃って、まったく変わらないよね」
何気ない言葉だったのだろうが、胸に刺さるものがあった。
良い意味として捉えるならば、老けていないということだが、内面的なものを踏まえると、成長していないというマイナスの意味になる。
― でも、真央の言う通りだ…。
今まで見て見ぬふりを続けてきた自分の抱える問題点を指摘されたようで、居心地の悪い気分になる。
文乃はこれまでいくつもの組織に属してきたが、設けられた規則から逸脱するような行動は一切取ってこなかった。
学生時代は校則に従い、就職してからも規則の遵守を貫いた。
実家住まいを続けるなかで、厳しい両親の言いつけを守り、今でも門限に遅れることなく帰宅している。

半年前まで付き合っていた彼氏は束縛するタイプだったが、理不尽な注文にも大方耐えてきた。
どの場所でもある程度の制限を設けられていたが、それを受け入れさえすれば、居心地は決して悪くなかった。
むしろ、身の安全が保障され、快適だと文乃は感じることがあった。
現状に甘んじ、ぬるま湯に浸かり続けてきたため、文乃は、そこから抜け出すのが怖くなることがある。
そんな生き方が、文乃の抱き続けた夢の実現を妨げているのだ。
― だから、留学すると言いつつ、なかなか最後の一歩が踏み切れないんだよな…。
文乃は、再びスマートフォンを手に取った。
― リュカ君と仲良くなって、フランスのこと色々教えてもらおう。これも、夢を叶えるための一歩よね!
自分を変えるキッカケになるかもしれないとの期待も込め、Instagramからリュカを探し、フォローリクエストを送る。
◆

「フミノさん、今日は付き合ってくれて、ありがとうございます」
リュカが、文乃に向かって丁寧に礼を述べる。
実は、文乃が先日、InstagramからリュカとつながりDMを送ったところ、すぐに返事が来たのだ。
何度かやり取りを続けるうちに、彼が文乃を誘った。
『行ってみたい場所があるので、次の週末付き合ってもらえませんか?』
承諾してやって来たのが、ここ。中野にある『中野ブロードウェイ』だった。
古本屋や玩具店をいくつも見て回り、休憩のためカフェに入ったところだ。
「おかげで、欲しかったものが手に入りました」
リュカが青い瞳を輝かせながら、紙袋から中身を取り出す。
アニメにハマるキッカケになった、フランスでも大人気の『ONE PIECE』に登場するキャラクターのフィギュアだった。
「ううん。私も初めてきた場所だけど、すごく楽しかった」
中野ブロードウェイは“サブカルの聖地”とも言われ、アニメ関連に限らずレトロな雰囲気の漂う店舗が軒を連ねている。
店内に入ると文乃でも知っているような懐かしいグッズが数多く並び、童心に返ったような感覚になる。
「せっかくこんなに素晴らしい場所があるのに…。フミノさん、来たことがなかったなんてもったいないですね」
リュカが残念そうに口もとを歪める。
「本当そう。まだまだ知らないこと、いっぱいあるんだね…」
「そうですね。だから、フミノさんの知らないところにも、これからいっぱい行きましょう」
リュカがあっさりと告げた言葉に、文乃は一瞬声を詰まらせる。
いったん飲みものを口にして、恐る恐る尋ねた。
「え…。私で…いいの?」
「もちろん!よろしくお願いします」
「うん!」
文乃は、胸の奥に根付いた恋の芽が、一気に花開いたような喜びをおぼえる。
だが、すぐさま別の感情が胸をよぎる。
文乃が、留学を実行するための一歩だと思って起こした行動が、逆に日本に留まる理由を生んでしまったのだ。
せっかく湧きあがった意欲をくじくような事態に、俄かにジレンマを抱える。
― 留学には、縁がなかったのかな…。
そして、文乃のなかで諦めモードが発動する…。
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