空港は、“出発”と“帰着”の場。
いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。
それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。
成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。

Vol.1 麻衣子の物語
ヒースロー→仁川→成田空港 35時間の旅の終わりに
「はぁ…。本当にこれでよかったのかな」
出発地は、ロンドン・ヒースロー空港。
そこから11時間半をかけて、経由地のソウル・仁川空港に到着した麻衣子は、大きなため息をついた。
今は、ロンドンでの1年間のフラワーアレンジメント留学を終えて、帰国の道中、真っただ中。
だが麻衣子は、いまいち煮え切らない気持ちでいる。
― まだまだ学ぶべきことがたくさんあったのに…逃げるようにロンドンを出てきちゃったな…。
最終目的地である成田空港行きのフライトまで、乗り継ぎ時間は17時間。
十分すぎる待ち時間のせいで、考え事が頭の中をグルグルめぐった。
思考力も体力も、ごっそり削られているのを感じた麻衣子は、早々に空港内のトランジットホテルにチェックイン。
ホテルで一晩過ごすことに決めた。
しかし、心が晴れず、あまりよく眠れなかった。
◆
そして、寝不足で迎えた翌日。
「うーん…やっと着いたぁ!」
成田空港のボーディング・ブリッジを歩きながら軽く伸びをすると、肩がゴリッと鈍い音を立てた。
― さすがにちょっと疲れたかも。次は、検疫と入国審査…と。急ごう!
手元のApple Watchで時刻を確認すると、15時30分。
結局、仁川空港では、搭乗予定のフライトが機材メンテナンスになり、3時間遅延した。
1年ぶりの帰国に、35時間以上も要したことになる。
鞄の中から、出国前に検査したPCRの陰性証明書を取り出して順番を待つ。
噂では何時間もかかると聞いていたため、麻衣子は心配していたが、所要時間はわずか10分足らず。思いのほか、スムーズに事が運んで拍子抜けした。
早く空港をあとにしたいという思いが天に届いたのかもしれない。麻衣子は、緊張の糸が緩むのを感じた。
「ふぅ、よかった。あとはスーツケースね」
たくさんの荷物がまわるターンテーブルの前で、ホッと一息つく。
スマホを開き、友人からのLINEをチェックしながら、リモワのトランクが出てくるのを待った。
ところが、まわりの乗客が次々と荷物をピックアップして去っていく一方で、麻衣子のスーツケースだけが、ちっとも出てこない。
― もしかして…。
嫌な予感がした。
麻衣子は、ターンテーブルの前に20分ほど立ち尽くしていた。
― あのスーツケース、私のと似てる。ずっとまわってるけど…どうしたのかな。
最後の1個になった黒いスーツケースが、誰からもピックアップされていないのだ。
流れていくスーツケースを、目で追っていたときだった。
航空会社の制服を着た女性職員が、スーツケースをターンテーブルから下ろし、脇に置いた。それから、麻衣子のほうに視線を向けると、スッと背筋を伸ばして歩いてくる。
「あちらのお荷物は、お客様のスーツケースではございませんか?」
「似てる…というか、多分同じものです。けど、私のじゃないです」
少し距離を保ったところで立ち止まったのは、感染症対策なのだろう。麻衣子はそう思いながら、職員を見た。
― 細身で、長身。ピシッとまとめられた夜会巻き。いかにも航空会社の職員さんって感じで素敵…。
目から下はマスクで隠れているものの、柔らかい笑顔を向けてくれていることが想像できる。
「失礼いたしました。では、お客様のバゲージクレームタグを見せていただけますか?」
女性職員は、バゲージクレームタグの控えを受け取ると、例の黒いスーツケースにつけられたものと照らし合わせた。
― この人、“HANEDA”さん…っていうんだ。羽田空港のハネダ?ここは、成田なのに。
胸元のネームプレートに書かれた“HANEDA MIKA”という名前が、やけに印象的だ。
そのハネダさんは、無線機のようなもので、何やらやり取りを始める。次の瞬間、険しい顔をしたと思ったら、頭を下げてこう言った。
「お客様、大変申し訳ございません」

ハネダさんからの丁寧な謝罪に、次の言葉は“ロストバゲージ”に違いないと麻衣子は身構える。
思い当たるのは、昨日到着した経由地の韓国に、入国しなかったこと。
ヒースローから成田まで、スーツケースをダイレクトに預ける「スルーバゲージ」にしていたのだ。
そのせいで、成田行きのフライトに搭載するのを忘れられてしまったのかもしれない―。そう思った。
ところが、彼女の言葉は違った。
「お客様のお荷物は、成田空港に確かに到着しています」
「あぁ、よかった…。それで、どこにあるんですか?」
「ほかのお客様が、間違えて持って行ってしまった可能性があります」
「それってもしかして…。このスーツケースの持ち主が、ってことですか?」
確かに、同じリモワのスーツケースだ。
けれど麻衣子のほうには、花の刺繡付きのネームタグがついているはずだった。同じ学校に通っていたイギリス人の友達が、作ってくれたものだ。
― こんなことって、本当にあるんだ。
麻衣子は、失われたスーツケースのことをぼんやり考えながら、留学を決めたときの自分に思いを馳せる。

コロナが流行し始めた頃。
フラワーアレンジメントが長年の趣味だった麻衣子は、フラワーショップに行くことだけが、唯一の楽しみだった。
花を見ると、心に彩りが添えられるように感じたからだ。
― 仕事以外、何もない毎日だけど、花があるだけで気分が明るくなるんだよね。
そのうちに、花に関することを仕事にしたいと本気で思うようになると、8年勤めた出版社をスパッと辞めた。
今しかないと思ったのだ。ほとんど、勢いだった。
家族や友人の反対を押し切り、コロナ禍にもかかわらずイギリスに渡ったのは、本場で勉強するためだ。
慣れない国での生活は、大変なことも多かった。それでも、学んでいるあいだは、いつも気持ちが高ぶっていた。
― でも…今の私はどうだろう。あのときの情熱は、いつから失われ始めたんだろう。
いよいよ、1年の留学の終わりが見えてきたときだった。
帰国の日が迫ってくると、まだ学びたいことが山ほどあることに、麻衣子は気づき始めていた。
とはいえ、学ぶ身では収入もない。貯金を切り崩して1人で海外生活を続けていくのには、想像の何倍も精神的なタフさが必要だった。
海外から、日本にいる友人に電話をして相談するのは気が引けたし、アラサーなのに結婚を考えるような相手もいない。
そもそもこのご時世だ。異性との出会いも限られる。
孤独だな、と強く思った。
いつまた、コロナで生活が一変するかもわからないという不安もつきまとう。
麻衣子はやりたいことをやっているのに、「このままでいいのだろうか」と頭を悩ませた。
ついには、将来への不安を理由に、逃げるように帰国を決めてしまったのだ。
◆
「お客様。恐れ入りますが、ここで少しお待ちいただけますか?」
麻衣子は、ハネダさんの言葉で現実に引き戻された。
ぼう然とする麻衣子とは反対に、彼女はスイッチが入ったように動きだす。
まだ人が集まっているあたりに向かっていくと、大きな声で黒いスーツケースの持ち主の名前を叫び始めた。
麻衣子も、それらしい人がいないか目を見張る。
5分後―。
ターンテーブルのあたりが、閑散としてきたときだった。
「あの!すみません」
1人の男性が、慌てた様子でハネダさんのもとへやってきた。
その手には、麻衣子のスーツケースが携えられている。
「それ!私のですっ」
すかさず声をあげると、彼女は落ち着いた様子で双方のバゲージクレームタグを確認する。
「では、それぞれのスーツケースをお確かめください」
ハネダさんに促され、麻衣子は久しぶりに対面したスーツケースに手を伸ばしかける。
「あ、ちょっと待って!よかったら、これ使ってください」
男性は、鞄の中からミニサイズのアルコールスプレーを取り出すと、ティッシュと一緒に渡してきた。
「本当にすみませんでした。仕事の電話をしていたら、スーツケースを取り違えてしまったみたいで…」
仕立てのよさそうなネイビーのスーツを着た男性だ。キリッとした眉と涼しげな目元が、目を引く。
― 私と同じ30代前半に見える。ちょっとタイプだな。…ん?待って、この人どこかで。
彼の顔に見覚えがあることに、麻衣子は気がついた。

見覚えはあるが、どうしても思い出せない。
麻衣子は、とりあえず男性からティッシュを受け取る。
アルコールスプレーをティッシュに吹きかけ、スーツケースのキャリーバーをササッとぬぐった。
― これでいいかな。
麻衣子は考え事をしながら、かがめていた体を起こす。その途端、鞄の肩ひもがズレた。手帳やパスポート、無数の紙が床にこぼれ落ちる。
「大丈夫ですか?」
真っ先に拾い上げたのは、ハネダさんだ。例の男性も一緒に、大量に散らばった紙に手を伸ばす。
そのとき、2人の動きがピタリと止まった。
ターンテーブルの脇に散らばったのは、色鮮やかな花々の写真。無機質な床が、一瞬にして花畑に変わった。
ハネダさんと男性、2人はその写真を見つめる。

「へえ…素敵なフラワーアレンジメントですね」
うっとりとした様子で、ハネダさんがつぶやく。
「本当ですか?嬉しい…実はそれ、私が作った作品なんです」
麻衣子は、耳たぶがポッと熱くなるのを感じた。これまで作ったアレンジメントの中でも、特に自慢の作品を褒められたからだ。
「こんなに素敵な作品を作ることができるだなんて、尊敬します」
「ありがとうございます。実は私、1年間イギリスにフラワーアレンジメント留学をしていて。今日、帰ってきたんです」
そう言ったものの、麻衣子のモヤモヤはまだ晴れていない。
― 本当はあと半年。もしくは、3ヶ月でもいいからイギリスで学ぶべきだったかな…。
悔いの残る帰国だ。麻衣子の口からは、自虐的な言葉がついて出る。
「でも、本当にまだまだ。これから、仕事としてやっていけるかもわからないレベルなんです」
2人から写真を受け取ると、つい目線が下がってしまう。
「私は―」
すると、ハネダさんは、温かみのある声で続けた。
「私は、お客様の作品をほんの一瞬…それも写真で見ただけで、心が明るく、温かくなりました」
「…えっ?」
「まるで、イギリスの庭園にいるかのような清々しい気持ちにもなりました。いえ、今も。
たったこれだけの時間で人の心を動かすというのは、お客様が思っている以上にすごいことです。こんなご時世だからこそ、なおさらそう思います」
ハネダさんの言葉を聞いて、今度は麻衣子が、心を動かされるのを感じた。
◆
3人で税関を抜け、日の光が明るく差し込む到着ロビーへと向かう。
「では、気をつけてお帰りください」
ハネダさんは頭を下げると、業務に戻っていった。
「じゃあ、ここで」
男性に向かって、麻衣子がそう言いかけたとき―。
「思い出した!僕たち、ヒースローから仁川まで、通路を挟んで隣の席に座ってましたよね?」
「あっ!」
突如、麻衣子は思い出した。
― この人と、機内で一度だけ言葉を交わしたわ。
麻衣子がうっかり通路に落としてしまった花の画集を、彼が拾ってくれたのだった。
「帰りは、何も落とさないように気をつけてくださいね」
「はい。でも、驚きました。ずっと同じフライトだったんですね」
「ですね。僕、来週にはまた仕事でロンドンに戻ってしまうんですけど…もしスーツケースに何かあったら、連絡ください」
差し出された名刺を受け取り、目をやる。
― 商社…海外赴任なのかな。
どこか所在なげに帰国した自分とは違い、彼は自信に満ちているように見えた。
「それと、さっきの花の写真…すごくキレイでした」
「…ありがとうございます。えっと…、もうちょっと頑張ってみようかなって思えました」
「僕もです。何だか大変な世の中になってしまったけど、同じ時期に同じように海外で踏ん張っている人がいたんだと思うと、励みになりました。お花、頑張ってください」
― 彼も…大変だったんだ。私、自分1人だけが孤独だと思ってた…。
彼の言葉に、背筋がシャンと伸びる。
麻衣子は、到着ロビーを出て、新宿方面行きのリムジンバスに乗り込んだ。
― 本当に長い旅だった…。
そのわりには、さきほどまで感じていた疲れが、どこか軽くなっている気がする。
スマホを鞄にソッとしまい、2人から褒められた写真をながめた。
近いうちに、ふたたびロンドンで暮らそう。
そのためにまずは、日本のフラワーショップに就職して、経験を積もう。
アレンジメント専用のSNSのアカウントを作って、たくさんの人に作品を見てもらうのもいい。
麻衣子は晴れやかな気持ちで、これからのことを思い描いた。
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