ドレスをまとった女性たちが、頭上のティアラの煌めきに負けないほど輝く笑顔を見せる。1月23日、「第55回ミス日本コンテスト2023」が開催され、グランプリの吉岡恵麻さん(20)ら5人が「ミス日本」を受賞した。

「『ミス日本コンテスト』は’50年から開催されている伝統あるコンテストです。初代グランプリの山本富士子をはじめ、藤原紀香、西川史子医師、金子恵美元衆議院議員など、歴代受賞者やファイナリストたちは各界で活躍しています」(社会部記者)

コンテスト前夜には都内でイベントが開催され、参加者たちが意気込みを語ったのだが、そのなかでもひときわ会場を沸かせたのが、ミス日本「海の日」に選ばれた稲川夏希さん(21)だ。

稲川さんは慶應義塾大学法学部に在学しており、弁護士や国際弁護士を目指して勉強中。彼女のスピーチで注目を集めたのは、「日本で女性初の首相になること」という大きな夢と、次のような言葉だったという。

「敬宮愛子さまとは12年間同じ学校で学びました。愛子さまのように私も日本の伝統的な文化を守っていきたいです」

稲川さんは初等科入学から女子高等科卒業までの12年間、学習院に通っていた。愛子さまと同級生だったというだけではなく、音楽、スポーツ、ダンスなどで思い出をともにした間柄だったのだ。

このたび本誌は、稲川さんに「ミス日本」に挑戦した理由や同級生・愛子さまとの思い出などをインタビューした。

――いまは弁護士を目指していると伺いました。

「(学習院女子)中等科3年生のとき、自宅近くの図書室もある施設で男の子と親しくなりました。まだ6歳なのに、いつも22時に閉館するまでそこで過ごしていて、晩ごはんはパンやおにぎり、お菓子などコンビニのものを1人で食べていたのです。話を聞いてみると、母子家庭でお母さんが夜に仕事をしていて大変なのだと。

実はそういった子どもが大勢いることを知り、貧困の実態に驚きました。自分も何か役に立てないかと、子ども食堂や、恵まれない人たちに寄付された食料を配布するフードパントリーのお手伝いをするようになったのです。

また女子高等科時代には10人以上の国会議員のもとを訪れて、女性の非正規雇用の問題点などについて政策提言をしたりしました。それらの活動を続けていくうちに、将来は弁護士になって労働環境の改善などに携わりたいと考えるようになったのです。

弱い立場の人たちは弁護人への依頼もままなりません。そういった人たちの味方になりたいです。いまの大学生という立場だけでは、社会問題の解決に貢献するといっても限界があります。コンテストを通じて、広く問題について発信していきたいということが、ミス日本に応募する動機となりました」(稲川さん、以下同)

■管弦楽部やバスケットボールクラブでも愛子さまとご一緒

社会的に困難を抱えた人へ深い関心を持っているということは、稲川さんと愛子さまの共通点のようだ。愛子さまは盲導犬の育成など、障害者支援へのご関心も高く、僻地医療に目を向けていらっしゃることも最近報じられている。

稲川さんが初めて愛子さまをお見かけしたのは15年前、学習院初等科の入学式だったという。

「入学式の日は雨模様だったのですが、昇降口で『あっ愛子さまだ』と……。強く印象に残っているのは、運動会でのお姿。リレーの選手として、(ほかの子よりも)大きく手を振って速く走っていらしたからです」

愛子さまは初等科4年生から管弦楽部、5年生からバスケットボールクラブにも在籍されていたが、両方に稲川さんも所属していた。

「管弦楽部では、愛子さまはチェロ、私はフルートを演奏していました。演奏会などには雅子さまもお見えになっていて、私もお話しさせていただいたことがあります。とてもお優しい方で、私たちが興味を持っていること、得意なことをお聞きになるのです。

私は初等科1年のときからピアノを習っていましたので、雅子さまは『どんな曲を弾いているのですか』『好きな作曲家は誰ですか』などと尋ねてくださいました。ショパンですとお答えしました。私の祖母がショパンを好きで、祖母のためにショパンの曲を弾きたいとピアノを習い始めたのです」

バスケットボールクラブではこんな出来事もあった。

「1年に2回、慶應幼稚舎との定期戦が行われているのですが、台風が近づいてきて……。私たちにとって、数少ない大事な試合でしたし、何とか定期戦を開催できないですかと、愛子さまといっしょに電話で先生にご相談もしたのですが、結局、天候には勝てませんでした」

12年の間には、そんな悔しいこともあったが、“楽しい思い出”の代表といえば、文化祭で並んでダンスをしたことだった。

女子高等科時代、愛子さまは稲川さんら親しい友人たちといっしょにダンスチームを結成されていた。高等科2年生のときの文化祭「八重桜祭」では“愛子さまも踊られる”という情報が知れわたり、“開演が遅れるほどのパニック”になってしまったことを’18年に本誌は報じている。

「愛子さまは人格的に素晴らしく、お心が真っ白な方だと思います。ダンスも東宮御所でしっかりと準備されてきて、チーム練習で踊る際には、すでに完璧になっていました。踊る姿はとてもかわいらしくてお上手で、本番でも大変な評判だったのです。

翌年の3年生のときには、愛子さまはMCを担当されました。20人のメンバーについて、愛子さまが紹介されたのです。一人ひとりに『どういうことを言ってほしい?』と、聞いて回って、ご自分でみんなの紹介コメントを作っていらしたのです。

ダンス練習は早朝に行っていたのですが、踊らない愛子さまも毎回いらっしゃいました。練習ではMCとして“このタイミングでは、こう言えばいいね!”などと声をかけてくださったので、それもダンサーたちの励みになっていたのです」

愛子さまや友人たちと励まし合った、宝物のような時間だ。

■いまは会えない2人をつなぐハッピーブルーの絆

「ミス日本『海の日』を受賞したばかりで学ぶべきことが多いのですが、日本の輸出入の99.7%が船舶によって行われているそうです。それは海の安全があってのことと伺いました。これからは私たちの生活を支えている海運や海の魅力についてPRしていきたいと思います」

2月には小型船舶操縦士免許2級の試験を受け、その後は海洋関係のイベントや安全啓発活動に参加していくという。弁護士を目指す法学部の学生として、ミス日本として、多忙な日々が続くことになる。稲川さんは「愛子さまとは、一緒に頑張ったという思い出が多いです」と話すが、それも心の支えとなるだろう。

1月18日の歌会始の儀では、《もみぢ葉の散り敷く道を歩みきて浮かぶ横顔友との家路》という愛子さまのお歌が披露された。

「私のことではないですが、女子中高等科からの帰り道のことだと思います。“友人たちとの日々”を覚えていて和歌に詠んでくださったことを本当にうれしく思いました。コロナ禍が始まって以降、友人たちも愛子さまにお会いできない日々が続いていますから……」

愛子さまは学習院大学文学部、稲川さんは慶大法学部と進学先は異なったが、いまも交流は続いている。ハロウィン、クリスマス、誕生日などにはプレゼントを贈りあっているという。

――昨年8月の稲川さんのお誕生日にもお祝いの品をいただいたそうですが、昨年12月1日の愛子さま21歳のお誕生日には、どんなものを贈りましたか?

「上皇后さまが石垣島を訪れた際(’12年)に、石垣焼のペンダントをお求めになったことを報道で知りました。そこで私も石垣焼のペンダントなどを愛子さまにお贈りしました」

“ハッピーブルー”と呼ばれる石垣焼の青色。愛子さまも幸せな気持ちになられたことだろう。

――最後に将来の夢を聞かせてください。

「弁護士としての経験を積み、最終的には政治家になることを目標にしています。かなうならば総理大臣になって、社会的に弱い立場の人を救いたいと思っています。

日本にはまだ女性の首相はいません。私は“初の女性首相になりたい”と話していますが、できれば私より先に誕生してほしいとも願っています。愛子さまはこれからご公務を担われますが、恵まれない人たちを救う活動などで、ご一緒することができれば、これ以上の幸せはありません」