2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第11回・西山雄介(駒澤大―トヨタ自動車)前編


4年時は箱根駅伝で1区を走った駒澤大・西山雄介

 昨年のオレゴン世界選手権、西山雄介(トヨタ自動車)は男子マラソンに日本代表として出場し、13位だった。ただ、その走りは今後への期待感を大きく膨らませてくれるものだった。10月15日、パリ五輪のマラソン男子代表を決めるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)が開催されるが、「パリしか見ていない」と語る西山の熱い視線からは、ただならぬ決意が感じられる──。

【駒澤大時代は先輩も同級生もすごいメンバーだった】

 西山が三重県の陸上強豪校である伊賀白鳳高校から駒澤大に進学したのは、ある先輩の存在が大きかった。

「駒澤大を選んだのは、まず大八木(弘明)監督の存在が大きかったです。一見すると怖めですが、お茶目なところもありますし、熱い指導で選手と向き合ってくれるというので、ぜひ指導を受けてみたいと思いました。もうひとつ決め手になったのは、高校の先輩だった中村匠吾(現富士通)さんと一緒にやりたいと思ったからです。高校の時は、ずっと匠吾さんの背中を追いかけていましたし、大学でもそうしたいという気持ちが強かったので」

 駒澤大入学時、同期には優れた選手が多くいた。とりわけ1年目から駅伝に絡んでいった中谷圭佑(元コモディイイダ)、大塚祥平(現九電工)らは非常にレベルが高く、部内競争は非常に激しかった。

「力のある選手が集まっていたので、負けられない気持ちが強かったですが、切磋琢磨して一緒に成長していきたい気持ちもありました。人間関係は、別に悪い感じはなく、ギスギスした感じもなかったです。大塚とは、普通に仲がよくて、よく一緒に練習していましたし、中谷は競技では絶対に負けられないと思っていたけど仲が悪いとかはなかったですね」

 当時の駒澤大は、先輩たちも非常に強かった。4年には窪田忍(現九電工)、3年には中村匠吾、村山謙太(現旭化成)、2年には其田健也(現JR東日本)がいて、今年、大学駅伝3冠に輝いた駒澤大のように圧倒的な力を誇示していた。

「先輩方は、すごかったですね。もう練習の質とか、レベルが全然違うので、ついていくので精一杯だったんですけど、逆に一緒にやれた時の充実感がすごくありました。それにみなさん、試合や練習に向けてのアプローチが全然違うんです。そういうところを見られたのは、その先の自分のやり方を作り上げていくうえですごく参考になりました」

 感性型の村山、努力型の其田など、個性的な先輩が大勢いるなか、西山に大きな影響を与えたのは、高校時代と同様に中村だった。

「匠吾さんは、とにかくすごくストイックなんです。練習から試合までアプローチが本当に完璧で、狙った試合は絶対に外さないんです。その一連の取り組み方が非常に参考になりました。大八木監督はデータを残す人だったので、そのデータを見ながら練習に取り組んだりもしました。匠吾さんがよく行く治療院やトレーナーを紹介してもらったり、本当にお世話になりました」

【箱根駅伝には4度出場】

 西山は、中村や村山との練習に、最初はついていくのが精一杯だったが、メニューによってはついていけるようになった。夏合宿も無難にこなし、1年目から出雲駅伝、全日本大学駅伝に出場し、ついに箱根駅伝の7区出走を勝ちとった。

「高校の時から3大駅伝にはすべて出たいと思っていました。思い入れが深かったのは、全日本大学駅伝で、コースが中学高校時代に走っていたところだったんです。レースで自分は2区を走ったんですが、当日は家族や地元の友人がたくさん応援に来てくれて、すごくうれしかったですし、楽しかったですね(笑)。箱根は、大八木監督から言われた区間でどれだけ力を発揮できるか、でした。気持ち的にもラクで、強い先輩方がたくさんいたので何とかしてくれる感じがありましたし、先輩たちからは『俺たちがなんとかするから気楽に走れ』と声をかけていただいたり、サポートしてもらっていたので」

 西山のルーキーシーズン、チームはすでに出雲、全日本のタイトルを獲得、箱根駅伝制覇に3冠達成がかかっていた。非常にプレッシャーがかかるなかでの7区だったが、先輩たちの声にリラックスできた。同時に前日の往路で中谷が4区区間賞を獲得しており、「負けられない」と強く思った。走り出すと沿道での声援が、これまでの大会や駅伝とはまったく別次元のもので、何度も背中を押してもらった。そんななか、西山は7区3位という快走を見せたが、総合では2位に終わり、3冠達成は実現しなかった。

 それから西山は、3年続けて7区を走ることになった。そして、最終学年となった4年の箱根駅伝は、1区に指名された。

「大八木監督から1区と言われた時はうれしかったですね。高校の時はずっと1区だったので、大学でも1区を走りたいという気持ちをずっと持っていました。集団で、駆け引きしながら走るというのは、1区しかないおもしろさですし、そこに魅力を感じていたので」

 念願の1区は区間賞とはならなかったが、懸命の走りで襷をつないだ。この1区が箱根において一番印象に残るレースだったという。

「最後の箱根もメンバーに選んでもらって、しかも自分の走りたい1区でした。それだけに、ここで結果を出してチームに貢献したい、また4年間すべての駅伝において、期待に応える走りができていなかったので、最後の箱根こそはしっかり走りたいと思っていました。しかしながら、結果は6位に終わってしまい......。すごく残念でしたが、それで終わりではなく、この悔しい気持ちを抱えて実業団で頑張りたいとすぐに思ったことをすごく印象深くおぼえています」

【箱根駅伝や駒澤大時代に得たもの】 

 西山は、最後の箱根を含めて1年時から4年まで全11本の駅伝を走った。出雲は3年時、5区区間賞を獲得、全日本は2年時に6区2位、箱根は2年時7区2位が最高位だった。区間二桁は3年時の全日本3区10位のみで、西山が「外さない選手」と言われているのは、駅伝での強さから生じていると言えよう。

 箱根を含めて、駅伝での経験はその後の陸上人生にどのように活かされたのだろうか。

「箱根に限らずですけど、それぞれの駅伝やトラックのレースも含めた大会を経験できたこと、それに至るプロセスを得られたことが自分の財産になっています。やっぱり大会に合わせて練習を進め、コンディションを合わせていくのは簡単ではない。そのプロセスを何度も経験できたことが今の自分の陸上につながっています。箱根で言えば、ハーフの距離の練習ができたのは実業団に行ってマラソンに移行する際の下地作りになったので、それを経験できたことはよかったです」

 駒澤大時代、駅伝などの実戦経験から得るものが大きかったが、実業団での競技生活に今も活きている大事なことは大八木監督から学んだ。

「"自分の体を知り、状態を把握しろ"というのは大八木監督から口酸っぱく言われました。たとえばこういう練習をしたら、こういうダメージが残る、そのダメージを抜くためにはどうすべきか。あえて負荷をかけて抜いていくとか、常に考えながら練習をしなさいということです」

 大学時代は、出された練習メニューをこなすだけでいいと思考を停止させ、それをただ飲み込んでいくスタイルの選手が多い。だが、実業団では手取り足取り教えてくれるわけではない。全体のメニュープラス、自分で考えていかないと自己の成長は成り立たなくなる。

「実業団に入ってから考えるんじゃ遅いと思うんです。自分は大学の時に、考えて練習することを習慣づけられたので、実業団に行っても戸惑うことはなかった。実業団に入ってからは、より細かくなりましたね。レースなどで悪かった時はもちろん、よかった時もなぜよかったのか、追及し、分析するようになりました。その原点になったのが、大八木監督に言われた "自分の体を知る"ということだったんです」

 西山にとって、箱根の実戦経験と同様に、実業団で生きていくためのスキルを学べたことが収穫になった。それが今、西山の最大の武器になっている。

後編に続く>>「テレビで見るだけではわからない」と痛感した世界との差