トヨタ自動車の生産現場には、「よい品(しな)、よい考(かんがえ)」という標語がある。これは一体どういう意味なのか。ノンフィクション作家の野地秩嘉さんによる連載「トヨタがやる仕事、やらない仕事」。第12回は「トヨタが徹底している清掃ルール」――。
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■「すべてをピカピカにする」ことが目的ではない

どこの会社でも掃除をやります。

特に生産現場は職場環境をきれいな状態に保つために気を配っていることと思います。

トヨタの生産現場でもそれは同じ。一般の工場と同じように整理、整頓、清掃、清潔を大切にしています。4つの作業をローマ字読みにした頭文字をとって4Sと言います。

まず、整理とは要らないものを捨てることです。

そして、整頓とは必要な部品、工具などをすぐに取り出せるような状態にしておくこと。そのためには棚を分類し、わかりやすい表示をしたりしています。

清掃とは文字通り、掃除をして、あたりをきれいにすること。

最後に、清潔とはきれいな状態を保つこと。

わたしはトヨタの工場を100回以上、見学しています。国内だけでなく海外の工場も見ています。そこで気づいたのは、「チリひとつ落ちていない」ほど、きれいにしているわけではないことです。

床をピカピカになるまで叱咤(しった)激励したり、トイレの便器まで磨き上げたりすることが会社への忠誠の証しと思い込んでいる時代錯誤の人たちがいます。

しかし、その人たちはわかっていません。会社とは仕事をするところ。掃除はあくまで手段です。

そして、トヨタの4Sの目的は仕事しやすい環境を整えることであり、製品、つまり車を汚さないことにあります。

■「毎日、10回以上、手を洗え」

4Sに関してはふたつのエピソードがあります。

創業者の豊田喜一郎は工場に来ると、常にこう言っていました。

「トヨタはナッパ服精神だ。やれエンジニアだ、工場長だといって、きれいな作業服できれいな手でいたのでは人はついてこない。現場で手を汚せ」

豊田喜一郎は服や工具をきれいに保とうとするのは間違っていると考えていました。油がしみついた服装、汚れた手で働くんだと言い、その代わり、製品を汚さないために「毎日、10回以上、手を洗え」と教えました。しみがついた作業服はトヨタで働く人の誇りなんです。

もうひとつ、エピソードがあります。

【連載】「トヨタがやる仕事、やらない仕事」はこちら

豊田喜一郎のもとで「トヨタ生産方式」を体系化した大野耐一という人がいます。部下が恐れる人で、存在自体がコワいというので有名でした。ただ、大野耐一は無闇(むやみ)に怒鳴りつけたり、叱ったりした人ではありません。

ミスをしたり、間違ったことを言ったりすると、ただ、じっと見つめたそうです。確かに、文句を言われるより、そっちのほうがコワいかもしれません。

■すべてを見ていた大野が放った一言

ある日、ひとりの作業者がタバコを吸いながら、自動車の組み立てラインで働いていました。昭和の話です。寿司屋の職人がタバコを吸いながら寿司を握っていたのが当たり前の時代でした。

作業者を見た上司は慌てて言いました。

「おい、早くタバコを消せ。こんなところをひげのオヤジ(大野耐一)に見られたら、何をされるかわからん」

すると、上司の後ろに大野耐一がいて、すべてを見ていたのです。

上司の顔からは血の気が引いた……。

大野耐一は上司に向かって言いました。

「いいじゃないか。タバコの1本くらい吸わせてやれ。製品(車)を汚すのはよくない。だがな、タバコを吸いながら仕事をするのが俺たちの理想じゃないか」

繰り返して言いますが、掃除そのものは目的ではありません。

製品を汚さないこと、そして、職場環境を整えること、さらに考えながら掃除をすることが目的なのです。

■清潔にしている場所は病院、食堂、もうひとつは?

トヨタでは掃除の方法でさえもカイゼンします。判で押したように毎日、同じ掃除の仕方をするのではなく、少しでもカイゼンして短い時間で切り上げるのがトヨタです。

トヨタでは掃除をすることに精神的な価値を求めてはいません。掃除をしたからといって人間性がよくなるわけではないからです。

掃除の目的は製品を汚さないことですが、環境自体を清潔にしているところもあります。例えば従業員食堂であり、トヨタ記念病院であり、もうひとつは昔、出していた車に使った金型を保管しておく倉庫です。

従業員食堂や病院の環境をきれいに保つのは、それが目的だからでしょう。食堂は環境がきれいでないと食欲がわきません。病院もまた環境が清潔でないと患者は不安になります。どちらもきれいにしておかないと利用者が減り、仕事ができなくなります。

では、かつてリリースしていた車種の金型倉庫をどうしてきれいにしているのでしょうか。

わたしはそこに自動車会社としての矜持を感じます。

トヨタが1970年代、80年代に出していた車に乗っているユーザーは少数でしょうが、今でも愛車として扱っている人がいます。例えばトヨタ2000GT。映画『007は二度死ぬ』でジェームズ・ボンドが乗ったトヨタ2000GTのオープントップカーは世界に2台しかありません。ノーマルの2000GTでも最低価格1億円と言われています。これだけではなく、セリカ、カリーナといったかつての人気車もまだ乗っている人がいます。

■10年に一度しか使わなくても、安全には代えられない

彼らは古い車を大切に乗って、そして、部品が切れると販売店に問い合わせます。すると、販売店はトヨタに連絡をする。トヨタは倉庫から金型を探し出して、部品を作りユーザーに提供するのです。

あまりに古い時代の金型はありません。しかし、残っているものも少なくありません。

なかには10年に一度しか使わない金型だってあるでしょう。それでもトヨタは保管しています。昔、売り出した車に乗っているユーザーがいる以上、安全に走ってもらうことが自動車会社としての義務だからです。

金型が変形したり、汚れたりしてしまえば部品を作ることができません。ですから、ことさらにきれいにしておくのです。

こうしたことは報道されたことはありません。それでも彼らはちゃんと保管しています。おそらく、最近、スタートしたばかりの電気自動車(EV)企業では、金型を保管しておくようなことはしないでしょう。何年も取っておいたからといって儲(もう)かるわけではないからです。

しかし、ユーザーは儲からないけれど、大切に金型を保管している会社を信頼します。「愛車」に乗りたい人は、そういった会社の車を買うのです。

トヨタは長く仕事をしていきたいと思っているから、アフターサービスに完璧を期すのでしょう。

■かつて工場で行われていた「宝物探し」

さて、掃除の話に戻ります。

今はやっていませんが、工場でかつてやっていた「宝物探し」と呼ばれたトレーニングがあります。

トヨタに入社して工場の技術員室に「技術員」として配属された人であれば大多数は経験しているでしょう。技術員とは大卒の社員がやる仕事で、工場における技術的なサポートを行うこと。現場で作業をする作業者を助ける仕事です。

そして、「宝物探し」とは「1本のねじを探してこい」というものでした。

上司は新入社員の技術員に1本のねじを見せます。

「いいか。これと同じねじを探してこい」

新入社員は「なんだ、簡単じゃないか」と思います。

上司は付け加えます。

「ただし。絶対に人に聞いてはいかん。自分の目で見つけろ」

それでも、新入社員は「簡単だ」と思い、工場のなかへ行きます。そこで、愕然とするのです。

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自動車工場で使うねじの種類は10や20ではありません。100や200でもありません。形、長さ、色などが違うから数百種類にもなるのです。それを働いている人に聞かずに、自分の目を頼りに同じ形のねじを探さなくてはなりません。1日では無理です。少なくとも3日から5日はかかります。

■最大の目的は「真剣にモノを見る」こと

なぜ、そんな手間のかかるトレーニングをするのか。ねじを探しているうちに新入社員は3つのことを覚えます。

ひとつは工場の配置です。どこにどんな機械が置いてあるのか。近寄ったら危ない場所はどこか。人に案内されているだけではわからない工場のなかの施設の配置がわかるのです。

ふたつめは作業者と話をすること。ねじの場所を聞くことは許されませんが、そこで大勢の作業者に挨拶をして、「新入社員だ」と伝えることができます。ねじを探しながら、自己紹介をしているようなものです。ねじを探すのに、1週間以上もかかったら、かえって名前を憶(おぼ)えられて得をするかもしれません。

みっつめはいちばん大切です。

「真剣にモノを見る」ことの訓練なのです。ただ見るのと、必死になって、ねじを探すのでは違います。真剣に見つめていると、工場の機械の配置、作業者の手の動かし方、やりにくい作業をやっていないかどうかがわかってきます。

そのために、「宝物探し」研修をやるのです。

■「誰かが交換するだろう」という考えはない

繰り返しますが、わたしはこれまでに100回以上もトヨタの工場を見学しています。一度の見学で2時間はかかります。それでも内部の様子に詳しいとは思っていません。まして、1本のねじを探すなんてことはできないと思います。

そして、宝物探し研修を聞いた時、納得したことがありました。これまで、トヨタの工場を見学して、一度たりとも蛍光灯が切れているのを見たことがないのです。

自動車工場はひとつの建屋で数百人が働いています。照明の数も相当なものです。最近はLEDになりましたから照明の寿命は長くなっています。それでも広い工場ですから、一灯くらい切れていいはずです。しかし、たったの一度も、天井灯が切れているのを見たことがないのです。

ある時、訊(たず)ねてみました。答えはこうでした。

「朝、来た時に照明をつける。ひとつでも切れていたら交換する。それだけのこと」

確かにその通りなんです。誰でも、どこの会社でもできることなのです。しかし、「誰かが交換するだろう」と考えて、自分は蛍光灯を換えない。

それが普通の会社です。トヨタはそんなことはしません。見つけた人がその場で、その瞬間に交換する。いちばんシンプルな解決法です。

■床に落ちたものは絶対に使わない理由

ねじの話ではもうひとつ象徴的なことがあります。

それは、トヨタの工場では床に落ちているものは絶対に使わないのです。

掃除をしている時に、ねじが1本、落ちていたとします。見た目も中身も新品です。それでも絶対に使いません。落ちて衝撃を受けていて、ひょっとしたら強度に問題があるかもしれないからです。使用するのが不安な部品は使わない。これは鉄則です。

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ねじだけに限らず落ちている部品は絶対に使わないのです。

そして、落ちているのを拾ったら、そこから考えます。

「どうして落ちていたのか?」
「どこから落ちたのか?」

真因を追究します。

部品棚に穴が開いていて落ちたのかもしれないし、自動搬送機械が揺れたのかもしれません。真因を追究し、対策を施すのです。部品を拾って終わりにするのではなく、二度と落ちないようにすることがトヨタが掃除を通してやることなのです。

■社長が来ても持ち場を離れたりしない

現在の社長、豊田章男さんは時間が空くと河合満おやじ(トヨタの肩書。元副社長であり、現場の長老)とふたりで工場にやってきます。工場のなかを見て回って、休憩している若い作業者と缶コーヒーを飲んだりしています。

仕事をしている作業者たちは社長が来たからといって持ち場を離れたり、挨拶したりはしません。社長とおやじが「おはよう」といっても、こくんとうなずくくらいです。それに対して、社長もおやじも怒ることはありません。仕事優先だからです。社長や幹部にいいところを見せようとは思っていません。これは見学者に対しても同じです。

おやじとわたしが工場へ入っていったとしても、作業者たちはいつもと同じように仕事をしています。

歩行帯ですれ違った時、「おお、おやじか?」と珍しく笑いかける若者がいたと思えば、「あとでコーヒーおごってくれ」と言って手を振ります。

働く素振りをしている者はいないのがトヨタの現場です。みんな、ちゃんと働いています。なるべく早く切り上げて家へ帰ろうと思ってさくっと働いています。

■なぜ、トヨタの工場には標語が少ないか

そんなトヨタの工場で見かける標語はひとつだけ。

「よい品、よい考」

頑張ろう、目標必達のようなわざとらしい言葉、押しつけがましい内容のことは標語にしません。

上司も「頑張れ」とか「一生懸命やれ」とは言いません。叱責(しっせき)もしません。

「結果を出せ」
「プロなんだから、プロの仕事をしろ」

これだけです。

そんなトヨタの現場で、いいなあと感じたのは社長とおやじが工場から出ていく時の姿です。

ふたりは缶コーヒーを飲んで、話した後、工場を後にするのですが、建屋から出ると、くるりと振り向いて、帽子を脱いで頭を下げます。そして、何事もなかったかのように本社の事務室へ歩いて戻ります。

何気ない動作ですが、それは工場と機械と働く人たちをリスペクトしているから自然にできることなのでしょう。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)