元南海の藤田学氏、1979年開幕戦で襲われたアクシデント

 怪我が野球人生を暗転させた。元南海投手の藤田学氏にとってプロ6年目の1979年は試練の年になった。開幕投手を務めながら、その試合中に内転筋を痛めて、まさかのリタイアだ。しかも、その後もよくなかった。同じ故障経験を持つ中日・星野仙一投手からアドバイスをもらいながらそれを守らず、自分の考えを優先させて失敗。4年目、5年目に連続16勝をマークして調子に乗っていた右腕は、一気に鼻をへし折られた。

 1979年4月7日、西宮球場での阪急との開幕戦。先発の藤田氏は初回の投球中、内転筋に違和感が発生したという。「(5番打者の)島谷(金二)さんにシュートを投げた時にピチッとなった。2死一、二塁のピンチは切り抜けたと思う。チェンジになってベンチに帰って、痛かったけど、それでもテープを巻いて3回までは投げた。その3回に3点取られて、交代。ボールも全然いかなかったのは覚えています」。

 歩くことはできたが、足を広げると痛かった。走るのも痛かった。藤田氏の投球フォームの特徴として、7足半の歩幅があったが、それができなくなった。「その歩幅があって、しかも腕が遅れて出てくるから、余計、打者はタイミングが取りづらかったと思いますけど、伸ばすと痛いから、それからは6足半にするしかなかった」と悔しそうに話す。「私の場合、7足半が普通のバランス、6足半になると、上体だけの手投げになっていた」とも明かした。

 これにはもうひとつ、失敗があった。「監督の広瀬(叔功)さんに(中日投手の)星野さんの電話番号を教えてやるから、電話して聞けって言われたので、電話しました。星野さんも内転筋を痛めた経験があったからで、いろいろ教えてくれました。慌てずにゆっくり治せとも言われたんですが、なにしろ言うことを聞かない子だったので……」。自分の力を過信し、ちょっと痛くなくなったらすぐ投げた。その結果「2回目をやってしまった」という。

「星野さんの言うことを聞いていたら、もう少し投げられたかも」

 これが響いて本来の7足半の投球フォームを取り戻したくてもできなくなり、1979年は2勝、1980年は3勝止まり。1981年に13勝をマークして復活したが、その時も手応えはなかったという。「6足半になって粘りがなくなっていましたからね。トレーニングやランニング量は少なくなっていましたし、たまたまって感じでした」。実際、1982年以降、成績は下り坂。1986年に戦力外通告を受け、現役を引退した。プロ通算成績は72勝65敗1セーブだった。

「今、考えてみれば、星野さんの言うことを聞いていたら、もう少し投げられたかもしれない。ただ歩幅を狭くしただけでなく、自分にもっと変わろうって気があれば、6足半で自分の体に合った腕の位置とか、いろんなことを変えることができたのに、とも思います。今は内転筋を鍛える方法とかもいろいろあるじゃないですか。ああいうのが昔あったらって思う時もありますね」と藤田氏は話すが、その一方で、こうも口にした。

「怪我をしたことが人間的には良かったと思います。それがあったから周りの人の温かさや親切さというのが分かってきた。ひとりじゃないっていうようなことがね。たぶん、それまではえらそうだったと思います。あのままだったら、それがもっとひどくなったかもしれないですね」

 現役を終えた藤田氏は指導者として力を発揮する。1999年には王ダイエーの1軍投手コーチとして日本一も経験したが、その当時の工藤公康投手のことは印象深いという。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)