見た目は普通のフレンチ料理だが、食感にこだわった介護食だという(写真:オルタスジャパン提供)

インクルーシブ(inclusive)とは、「全部ひっくるめる」という意。性別や年齢、障害の有無などが異なる、さまざまな人がありのままで参画できる新たな街づくりや、商品・サービスの開発が注目されています。

そんな「インクルーシブな社会」とはどんな社会でしょうか。医療ジャーナリストで介護福祉士の福原麻希さんが、さまざまな取り組みを行っている人や組織、企業を取材し、その糸口を探っていきます【連載第10回】。

病気や加齢によって、咀嚼(そしゃく:食べ物を嚙むこと)や嚥下(えんげ:飲み込むこと)などが低下していく。

とくに飲み込みがうまくいかないと窒息や誤嚥性肺炎を起こし、死亡することもある。このため、病院や介護施設では、厨房などで調理済みの料理を、1人ひとりの嚥下レベルに合わせた食形態(ミキサー食、ソフト食など)に作り直す。最近は、介護食や嚥下食の既製品も増え、家族の調理負担が軽減されるようにもなった。

介護食が広がった背景とは

介護食や嚥下食が広がってきた背景には、言うまでもなく、食事には体の健康を維持したり、病気から回復させたりする栄養学的な役割があるからだ。その点を重要視した関係者の熱意によって、工夫が重ねられている。今回紹介する歯科医師とシェフもそうだ。

東京医科歯科大学大学院(摂食嚥下リハビリテーション学分野)講師の山口浩平歯科医師(36)は、高齢者や障害のある人の自宅や施設へ訪問歯科診療をしているなかで、とくに「外食や特別な日の食事」に注目する。

「近年、嚥下に配慮した食事を提供する飲食店は増えていますが、それでも店の数はまだまだ少なく、選択肢が乏しい状況です。現在の介護食や嚥下食は調理済みの食事をやわらかく食べやすいように再加工しているため、調理師にとっても食べる人にとっても、見た目や味の点で違和感があると聞いています」

山口歯科医師の上司の戸原玄(はるか)教授(50)が主任を務める研究の ホームページでは、介護食を提供する飲食店リスト「摂食嚥下関連医療資源マップ」(*1)を掲載しているが、28都道府県、77店しか探し出すことができていない。

近年、メーカーが調理済みの料理を特殊なカッターと圧力技術で、見た目も味もほぼ同じで提供できる家電製品を販売するようになり、調理師もそれを使うようになってきた。だが、山口歯科医師はさらに多くの関係者を介護食に巻き込むために、調理師や食べる人の気持ちに立って、こう提案する。

「『食のダイバーシティ』と検索すると、文化・習慣・宗教に基づく多様な料理が出てきますが、食形態の視点は扱いが少なく、まだ浸透していない印象を持ちます。本来のインクルーシブな食事とは、障害の有無にかかわらず、食べたいものを食べたい人と一緒に食べられることです。そこで、調理段階から咀嚼嚥下機能の視点を取り入れた料理を増やしていけないかと考えました」

そんなとき、山口歯科医師はフレンチ創作料理レストランMaison HANZOYA(横浜市 *2)の加藤英二シェフ(52)と出会った。加藤シェフは「スラージュ」と名付けた介護食をフルコースで提供している。スラージュは加藤シェフの造語で、フランス語では「ホッとする」「優しい」、ヒンドゥー語では「太陽」という意味がある。

加藤シェフが介護食を知ったのは、東日本大震災で被災地支援で東北へ通ったときだった。ある歯科医師から「フレンチの調理技法は介護食に活用できるのではないか」と言われた。その歯科医師に誘われ、加藤シェフは専門家とメーカーの介護食作りの経験を積むことで手応えをつかみ、3年後から、自社レストランのメニューに加えるようになった。

フレンチと介護食は相性がいい

加藤シェフは、こう話す。「フランス料理のピュレ、ジュレ、ムースなどの特徴的な調理技術と理論をそのまま活用することで、食べやすさだけでなく、食感、香り、味わいなどのテクスチャーを表現できます。このため、お客様には嚥下障害の有無を問わず同じ料理を提供し、楽しんでいただいています」。

山口歯科医師は加藤シェフとの出会いを通して、摂食嚥下障害のある人にも、特別な日のワクワク、ドキドキした食事の機会を持ってほしいと考えるようになった。食事には栄養学的な側面だけでなく、食べるときの楽しみや驚き、一緒にテーブルを囲む人と心弾ませるコミュニケーションを作り出す側面もあるからだ。

そこで、山口歯科医師は総務省の戦略的情報通信研究開発推進事業(独創的な人向け特別枠)「異能vation」プログラムの「破壊的挑戦部門」に応募した。挑戦課題名は「介護施設で堪能、フレンチフルコース -3Dフードプリンターで実現する食のダイバーシティ-」。山口歯科医師は挑戦者となり、加藤シェフと共同開発したフレンチ料理のフルコースを、介護老人保健施設「菜の花(医療法人幹人会・東京都西多摩郡)」に入所する有志に提供する夕食会を企画することになった。

夕食会当日、施設の食堂は照明を少し落として電球が飾り付けられ、天井には日本庭園と紅葉の風景を映した動画が映し出された。テーブルにはクロスがかけられ、キャンドルには温かい火が灯された。アベマリアのゆったりとした曲が流れるなか、胸にバラのコサージュを着けた参加者がスタッフのエスコートを受けて着席した。


天井には風景が投影され、ちょっと旅行気分も(写真:オカダキサラさん提供)

前菜がテーブルに運ばれたときには、まだ「何が起きるのだろう」と、参加者は緊張している様子だった。が、とろみをつけたノンアルコールのロゼシャンパンがグラスに注がれると、みな、表情をほころばせた。


玉木理事長がノンアルコールのロゼシャンパンをグラスに注ぐと、男性は「久しぶりだな」とうれしそうにつぶやいた(写真:筆者撮影)

参加した6人は、嚥下障害のない人が2人、嚥下障害があるためきざみ食(食材を包丁で細かく刻んだ料理)を食べている人が3人、ペースト食(おもゆ粥状で、スプーンですくって食べる料理)を食べているが1人だった。認知症の症状が進行している人もいた。

小甘鯛の料理「とろけるよう」

料理のメニューは、前菜が「フォアグラのポワレ フルーツコーンのトリュフ風味」、魚料理が「小甘鯛の冷温調理 甲殻類のエキューム」、肉料理が「牛頬肉の赤ワイン煮 トリュフとジャガイモのピュレ添え」、デザートが「白桃のムースとラベンダーのアイス添え」。

テーブルに料理が1品ずつ運ばれると、参加者からは「うわー、すごい!」「お料理がキレイ」と歓声が上がった。小甘鯛は片手でスーッとスプーンを差せるほど柔らかく、「とろけるよう」「すごく、おいしいですね」と、会話がいっそう盛り上がった。


フレンチのコースを楽しむ女性(写真:筆者撮影)

加藤シェフは、数日間かけてレストランで仕込んだ料理を、施設の厨房で盛り付けた。

牛頬肉の赤ワイン煮は2週間前から調味液に漬け込み、圧力鍋に1時間かけたあと、さらに赤ワインとフォンドヴォー(仔牛の骨のだし)と自家製ベーコンを加えたなかで30分間煮込んだ。デザートの白桃のムースとラベンダーのアイスクリームには、口の中でパチパチと弾ける食感を楽しんでもらいたいと、あえてペタセタキャンディ粒(キャンディと炭酸のお菓子)を加えた。

加藤シェフはこう話す。「最近は、予約時にお客様から『アレルギーがありまして』など、食材に関するご要望をいただくことがあります。咀嚼や嚥下についても『不安がある』『とろみ剤を持っていってもいいか』などが自然に言える、店側からもお客様にその点を確認する、そういう流れができるといいですね」。

当日は3Dフードプリンターでシュークリームのシュー生地や、ラングドシャのクッキー生地を幾何学模様に絞り込んで焼いた飾りを作り、盛り付けに華やかさを添えた。3Dフードプリンターではペースト状の食材を機械にセットし、3次元データに基づいてプリンターを動かしながら層を積み上げて造形する。

3Dフードプリンターをどのように活用すればいいか。この道具の特性をつかむために、山口歯科医師と加藤シェフは何度も試作品を作って検討した。3Dフードプリンターで造形物を作るためには時間がかかり、食材が変色する可能性がある。このため、今回は料理を引き立て、食べる方に楽しんでいただける「飾り」を作ることにしたという。


3Dフードプリンターで生地を幾何学模様に。このデザインは前菜の飾りになった(写真:オカダキサラさん提供)

試作の結果、3Dフードプリンターにセットする食材の製造工程に手間がかかるため、施設の厨房で準備することには難しさが残った。その点について、山口歯科医師は 「メーカーが食材の既製品を販売してくだされば利便性が高まるのですが」とも、社会に提案する。

認知症の人にこそ食感を

山口歯科医師と加藤シェフの挑戦に会場となる施設を提供し、入居者に参加を呼びかけたのは、玉木一弘理事長(併設の福生クリニック院長兼任、68歳)だった 。90年代から施設で介護サービスを提供し、西多摩地域の医療・介護専門職に摂食嚥下機能障害(摂食とは食べ物を目で見て、食べる行為を意識すること)に関する研究や勉強会を繰り返してきた。玉木理事長はこう説明する。

「私たち人間は、もともと個食・孤食(1人で食事をすること)でなく、大勢で五感を使って、ワイワイとて食べ物を分け合いながらテーブルを囲んできました。また、離乳食のときから家族の声とともに食べる体験を通して、食事の概念を作り出して記憶してきました。咀嚼や嚥下には、こうした記憶による食事の概念が必要になります」

認知症になると五感の記憶、例えば「(目の前の)この食べ物は何だろう」「どんなにおいの食べ物だったか」「舌触りはどうだったか」「どのように食べればいいだろう」といったことが失われやすく、食事が進まなくなる。口元にスプーンを持っていっても、口を開けないことがある。玉木理事長が続ける。


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「とくに、嚥下食は見た目や舌触り、味が五感の記憶と合致しなくなります。このため、嚥下時の安全性を確保したうえで、できるだけ常食に近い食形態で提供したほうが、認知症の方は食べ物を認識しやすくなります。そこで、これらの感覚を呼び起こす機会としたいため、山口歯科医師の夕食会の企画に賛同しました」

「食べる」機能が低下して困りごとが出てきても、こうして「障害の社会モデル(障害は個人でなく、社会環境にあること。連載第1回記事参照)」によって、日常生活でのバリアをなくすことはできる。それは、今回のような人々のさまざまな挑戦によって、社会が大きく変わっていく。


*1 「高齢者の摂食嚥下・栄養に関する地域包括的ケアについての研究」ホームページはこちら
*2 Maison HANZOYA スラージュはこちら

(福原 麻希 : 医療ジャーナリスト)