1974年、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで行われた、世界ヘビー級タイトルマッチは世界約100カ国以上で生中継された。後に、キンシャサの奇跡と呼ばれるモハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの一戦は、どのような試合だったのか。作家の百田尚樹さんが書く――。(第2回)

※本稿は、百田尚樹『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』(新潮文庫)の一部を再編集したものです。

ザイール(現コンゴ)の首都キンシャサで行われた試合で、ジョージ・フォアマン(左)と対戦するモハメド・アリ(右)(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

■なぜモハメド・アリは「英雄」になれたのか

アリは3年半ぶりに世界ヘビー級タイトルマッチに挑むこととなった。

この試合はザイール共和国(現コンゴ民主共和国)で行なわれる初めての世界ヘビー級タイトルマッチであるのみならず、アフリカ大陸で行なわれる初の世界ヘビー級タイトルマッチだった。

アリはそこに意味を持たせようとした。このタイトルマッチは、黒人である自分が、遠い故郷へ戻って、奪われたものを取り返すドラマであると言った。人々はその物語に魅せられた。そして何か信じられないことが起こりそうだと思った。

しかし実際には、このタイトルマッチはザイールのモブツ大統領が、自国と自分の宣伝のために多額のファイトマネーを提供したから行なわれたものだった。それにもう一つ、自国民へのサービスという面もあった。試合の宣伝用ポスターには、「モブツ大統領から、ザイール人民に対する贈物」「さらにまた、黒人の名誉のために」という文字が書かれていた。

モブツ・セセ・セコ氏(写真=Frank Hall/Wikimedia Commons)

■ボクシング・ファンの戦前の予想

この一戦は「ジャングルのランブル(決闘)」(The Rumble in the Jungle)という謳い文句がつけられた。試合が行なわれるキンシャサ(ザイールの首都)はジャングルではなかったが、かつてジョゼフ・コンラッドが書いた『闇の奥』(映画『地獄の黙示録』の原作)の舞台となった地である。タイトルはアフリカ奥地の闇を意味した言葉で(同時に人間の心の闇を暗示したものでもあるが)、その意味でもキンシャサはまさに「アフリカ」を象徴する町だった。

ただ、多くのボクシング・ファンは、いやアリ・ファンでさえ、アリには勝ち目がないと見ていた。アリは勝利するどころか、最終ラウンドのゴングまで立っていられないだろうと思われていた。

ジョージ・フォアマンとの試合は、10年以上にわたってボクシング界の風雲児であった稀代の天才ボクサーが演じ続けたドラマの悲劇的な最終章になるだろうというのが一般の見方だった。中には、アリはフォアマンによって殺されるのではないかと恐れる者もいた。フォアマンのパンチはそう思わせるほどの威力があった。

しかしアリは自分がフォアマンには負けるはずがないと豪語した。

「フォアマンはアマチュアだ。歴戦のプロの俺には敵わない。フォアマンは強打者だが、パンチが当たらなければどうしようもない」

アリは繰り返し、自分にはスピードがある、のろまなフォアマンには捕まえることができないと言った。たしかに全盛期の彼はヘビー級とは思えないフットワークで対戦相手を翻弄してきた。ノーガードで相手のパンチをすべて見切り、体に触れさせさえしなかった。まさしくリング上を「蝶のように」舞った。ただ、カムバック後はかつての華麗なフットワークは失われていた。

もし全盛期のフットワークとスピードを取り戻すことができれば勝機はあると見る評論家もいた。逆に言えば、アリが勝つにはそれしかないということだった。しかし一方で、たとえ全盛期のスピードで挑んでも、フォアマンのパンチを15ラウンドにわたってかわし切るのは難しいのではないかという意見も少なくなかった。

■アリの天才的な自己プロデュース

試合は9月25日に行なわれる予定だったが、アリもフォアマンも熱帯のアフリカでの気候に慣れるために、8月にザイールに入った。アメリカを発つ前、アリは報道陣に向かって、「フォアマンが俺をやっつけると予想するやつらは、アフリカに行ったら、モブツの家来たちに鍋に入れられて、食われてしまうぞ」と、いつもの調子で悪態をついたが、この発言はザイール政府を困惑させた。

ザイールの外務大臣がアリの関係者に電話して、「我々は人食い人種ではない。アリ氏の発言は我が国のイメージを損なうものである」と抗議する一幕もあった。

アリはキンシャサに入ると、たちまち人々の心をつかんだ。ザイール国民は彼を、アメリカの国家権力に立ち向かった男として、第三世界(アジア、アフリカ、南アメリカなどの発展途上国)のヒーローと見做した。実際は富める国の裕福なプロスポーツ選手であるにもかかわらず、ザイール国民にそうしたイメージを抱かせてしまうのがアリの天才的なところだった。

一方のフォアマンは同じ黒人でありながら、悪役とされた。彼はザイールに愛犬のシェパードを連れて来ていたが、ザイール国民にとって、シェパードはベルギー統治時代の警察犬を思い起こさせる犬で、そのため余計な反感を買った。

試合の8日前、アクシデントが生じた。フォアマンがスパーリング中に、スパーリング・パートナーの肘が目にあたり、まぶたを切ってしまったのだ。そのために試合は5週間後に延期となった。両者はいったん作った体とコンディションを再調整した。

■ファイトマネーは2人合わせて30億円超

1974年10月30日、キンシャサの「5月20日スタジアム」(現・タタ・ラファエル・スタジアム)で、フォアマンの3度目の防衛戦が行なわれた。試合はアメリカに生中継する関係で、夜明け前の午前4時にゴングが鳴らされることになっていた。

普段はサッカーの試合に使われるスタジアムには約6万人もの観客が集まった。アメリカとカナダの450カ所以上でクローズド・サーキット方式によって生中継され、全世界の約100カ国でテレビ中継された。

両者のファイトマネーはそれぞれ500万ドルを超えた。この金額は、ジャック・デンプシー、ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアノが生涯で稼いだ金額よりも多かった。もっとも貨幣価値が違うので、一概に比較はできないが、それでも桁外れの金額であることは間違いない。

ちなみにこれは日本円に直すと、約15億円である(その頃1ドルは約300円)。当時、日本の高額所得者番付の上位にいた松下幸之助(松下電器産業〈現・パナソニック〉相談役)、上原正吉(大正製薬会長)、石橋幹一郎(ブリヂストン会長)の所得が、10億円前後であるから、いかに破格のファイトマネーであるかがわかる。

また当時、日本のスポーツ選手では最高額の年俸を取っていた王貞治は5220万円(推定)である。

■アリの勝利を予想する者はいなかった

当日の体重は、フォアマンが220ポンド(約99.8kg)、アリは216ポンド2分の1(約98.2kg)だった。この時点での両者の戦績はフォアマンが40戦40勝(37KO勝ち)、アリは46戦44勝2敗(31KO勝ち)というものだった。

スタジアムの観客はほぼ全員がアリを応援していた。しかしラスベガスの賭け率は3対1でフォアマンが有利となっていた。イギリスのブックメーカー(賭け屋)でも11対5でフォアマン有利と出ていた。もっともそれさえもアリに甘い数字と見られていた。おそらく熱狂的なアリ・ファンが期待を込めてアリに賭けていたためだろうと思われていた。実際、ボクシングライターや評論家の中に、アリの勝利を予想する者はほとんどいなかった。

アリ・ファンだった筆者も同じだった。当時、18歳で大学浪人中だった筆者は、アリの勝利を願いながらも、あの偉大なアリが無様にリングに沈むかもしれないという恐怖にも似た思いで、NET(現・テレビ朝日)による午後1時からの生放送が始まるのを待っていた(より正確に言えば、筆者の住んでいた関西では「毎日放送」による放映だった)。

■「猪木ボンバイエ」の元ネタ

アリが白いガウンを着てリングに上がると、観衆から「アリ・ボマ・イエ」という声が上がった。これはザイールの言葉で「アリ、あいつをやっつけろ!」という意味だ。この言葉は後にアリのテーマ曲に使われ、さらにアリが日本のプロレスラー、アントニオ猪木に贈り、猪木のテーマ曲「炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」の元となった。

1967年のモハメド・アリ(写真=Ira Rosenberg/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

遅れて赤いガウンを着たフォアマンがリングに上がると、スタジアムの方々からブーイングが聞こえた。チャンピオンにとっては完全にアウェーのスタジアムだった。両者がリング中央で向かい合ってレフェリーが試合前の注意を与えている間、アリはフォアマンに向かって何やら喋り続けていたが、フォアマンはいつものように無表情のまま無言でアリを睨みつけた。

■アリが仕掛けた「危険な賭け」

第1ラウンドのゴングが鳴ると、アリは軽やかなフットワークでフォアマンの突進をかわしながら、ジャブから右ストレートを打った。全盛期のフットワークを思わせる動きは観客を沸かせた。

序盤はフットワークを使い、ジャブを突いてフォアマンを疲れさせ、中盤以降に勝負をかけるというのが、アリ陣営の作戦だった。アリの速いショートパンチが何度もフォアマンの顔面を捉えたが、いずれも軽いパンチだった。

フォアマンは強烈な左フックを打つが、アリは間一髪でかわした。アリは、好調の滑り出しと思わせたが、2分過ぎに足が止まった。フォアマンはアリをロープに詰め、重いパンチを叩き込んだ。アリはガードしてパンチを防いだ。

第2ラウンドもアリはフットワークを使わず、開始早々にフォアマンにロープに追い込まれた。アリのセコンドは「ロープから離れろ!」と怒鳴ったが、アリは自らロープを背負って戦った。フォアマンは左右のフックをアリのボディから顔面に打ち込んだ。しかしアリも打たれっぱなしではなかった。フォアマンのパンチが途切れた隙を狙って、ショートストレートを放った。

だがヘビー級史上最強のパンチの持ち主と言われるフォアマンに対して、ロープを背にして迎え撃つという戦い方は自殺行為だった。フォアマンのパンチは一発でもまともに食らえばダウン必至である。

しかしアリはかたくなに戦い方を変えなかった。後にアリ自身もトレーナーも語っているように、この作戦は事前に計画していたものではなかった。第1ラウンドにフォアマンとグローブを交じえた瞬間、アリ自身が瞬間的に決断したことだった。アリはフォアマンにパンチを出させて疲れさせようと考えたのだ。だが、それは危険な賭けだった。

ジョージ・フォアマン(左)と対戦するアリ(右)(写真=PD-AR-Photo/Wikimedia Commons)

■アフリカの気候が戦い方を変えた

第3ラウンドと第4ラウンドも、第2ラウンドと同じ経過を辿った。アリは顎と頭には致命的な一撃は食らわなかったものの、ボディに強烈なパンチを何発も受けた。

アリが頭部に致命的な打撃を受けなかったのは、ロープのせいであったとも言われる。前日に作られたリングはアフリカの強い日差しを受けて、ロープのテンションが緩くなっていたのだ。そのためアリがフォアマンのパンチを避けるために体をのけぞらせることができた。後に、アリのトレーナーのアンジェロ・ダンディーが事前にロープを緩ませていたという噂が立ったが、それは事実無根である。

アフリカの強い日差しは、実はキャンバスにも影響を与えていた。キャンバスの下には通常エンサフロアと呼ばれるラバーが敷き詰められている。これはダウンしたボクサーが頭部をリングに打ちつけた時の衝撃を和らげるためのものだが、このラバーが熱でふわふわになってしまっていたのだ。

柔らかいリングは、フットワークを使うボクサーにとっては大いに不利になる。素早く動けないばかりか、疲労も蓄積する。アリが第1ラウンド2分過ぎにフットワークを使うのをやめ、ロープを背にして戦うことを判断したのは、長年培った経験からきたものかもしれない。アリは後にこの作戦を「ロープ・ア・ドープ」(ドープ=麻薬という意味)と名付けた。

■フォアマンのパンチに威力がない

第5ラウンド、フォアマンは勝負に出た。アリをロープに詰めて渾身のパンチをボディに何発も打ち込んだ。普通の人間なら肋骨どころか背骨さえ折れるほどのパンチだが、アリは凄まじい精神力で耐え抜いた。そして終盤、打ち疲れたフォアマンに鋭いジャブと右ストレートのカウンターを見舞った。フォアマンの足が一瞬よろけた。

第6ラウンドも第7ラウンドも同じ経過を辿ったが、フォアマンのスピードが鈍ってきた。アリをロープに詰めて打ち込むパンチも序盤ほどの威力がなかった。疲れが出始めていたのだ。

フォアマンがこれほど長いラウンドを戦うのは久しぶりだった。フレージャーからタイトルを奪った試合も、その後の2度の防衛戦も、いずれも第2ラウンドまでに相手をKOしていて、3年以上も3ラウンド前後の戦いしかしていなかった。それで、この試合も序盤に決めてしまおうとスタミナのことを考えずに試合を進めたのかもしれない。

■運命の第8ラウンド

第8ラウンド、アリは前進するフォアマンに対してカウンターの左ジャブを何発も当てた。フォアマンはかまわずアリをロープに詰めると、重いパンチを打ち込んだ。アリも被弾したが、フォアマンのパンチには一撃でKOできるほどの威力は失われていた。

中盤過ぎ、フォアマンはアリをロープに詰めて、猛攻する。1分以上にわたってしゃにむにパンチを打ち込むが、アリの防御テクニックの前に有効打を与えることができなかった。

ラウンドの残り時間20秒となった時、アリはフォアマンに左ジャブから右ストレートを決めた。チャンピオンは一瞬バランスを崩した。アリは素早くロープから出て体を入れ替えると、左右のショート連打でフォアマンをふらつかせ、最後に右ストレートを顎に打ち込んだ。フォアマンはリング上で宇宙遊泳のように体を泳がせ、仰向けに倒れた。

スタジアム中に地響きのような大歓声が起こった。フォアマンは懸命に立ち上がろうとするが、レフェリーは無情にもテンカウントを数えた。それを見てアリは高々と両手を上げた。有り得ないことが起こった瞬間だった――。

■なぜ「キンシャサの奇跡」と呼ばれるのか

後に「キンシャサの奇跡」と呼ばれるこの試合は、世界ヘビー級の歴史に残るだけではなく、20世紀に行なわれたあらゆるスポーツイベントの中でも特筆すべきものになった。

世界ヘビー級の長い歴史において、タイトルを失ったチャンピオンが王座に返り咲いたのはフロイド・パターソン以来2人目だったが、パターソンの場合はダイレクト・リターンマッチで1年後に取り戻したのに対して、アリの場合は7年の歳月をかけたものだった。

百田尚樹『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』(新潮文庫)

トップでいられる期間の短いプロボクシングの世界において、全盛期を過ぎたボクサーが最強のチャンピオンからタイトルを奪回するなど、それまでのボクシング界の常識では考えられないものだった。7年の歳月はアリからアスリートとしての力を奪っていた。しかしアリは超人的な意志と努力によって、ついにタイトルを奪い返したのだ。世界はまさしく「奇跡」を目の当たりにした。

タイトル奪回までの闘いは恐ろしく過酷なものだった。その闘いはリングの上だけではなく、国家と大衆を相手にしたものだった。そしてアリはこの2つの闘いに勝利した。自らの信念を曲げることなく堂々と主張を貫き、裁判闘争によって無罪を勝ち取ったばかりか、ついには彼を罵倒し非難していた大衆さえも味方につけたのだ。

この長い闘いによって、モハメド・アリはフォーク・ヒーロー(民衆の英雄)となった。

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百田 尚樹(ひゃくた・なおき)
作家
1956年、大阪府生まれ。同志社大学中退。放送作家として人気番組「探偵! ナイトスクープ」などを構成する。2006年『永遠の0』で作家デビュー。13年『海賊とよばれた男』で第10回本屋大賞を受賞。
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(作家 百田 尚樹)