学歴化する一方で、日本の学歴が世界では通用しない根本的問題とは(写真:metamorworks/PIXTA)

高学歴化する日本社会。国内の優秀層が増える一方で、大学や企業は、海外のエリート層の獲得に苦慮しています。さらには日本の学歴そのものも、世界では通用しなくなっています。その根本的な原因には、日本が「閉ざされた市場」であると、イギリス・オックスフォード大学教授の苅谷剛彦氏は語ります。新著『思考停止社会ニッポン』を一部抜粋・再構成し、その背景を解説します。

国境や言語、日本的慣行の壁に守られた人的資本市場は、他の先進国と比べれば相対的にグローバルには閉じてきた。

大学入学市場と新卒労働市場への参入者はほとんど日本人に限られる。留学生が増えたと言っても、まだまだ欧米の大学に比べれば桁違いである。

グローバルなレベルで優秀な学生を引きつけることにも成功しているとは言えない。しかも、多くの日本の大学では「留学生枠」が設定され、日本人の入学希望者とは別枠で入学者の選別が行われる。そのような枠を設けない(つまりは自国民と同じレベルでの競争を前提とする)「ワールドクラス」の大学との違いである。

大学では価格競争が生じていない

さらには、この国内の閉ざされた大学入学市場では、価格競争(授業料の多寡)さえほとんど生じていない(国公立と私立との違い、私立大医学部のような例外はあるが)。

グローバルな大学入学市場とはその点でも大きくかけ離れている。ハーバード大学やオックスフォード大学の年間授業料は300万〜500万円(ただし為替の変動による)である。

競争相手と見なされる大学の授業料を見ながら「価格」が設定されている。それに比べ、日本の私立大学が100万円前後、国公立大学はそのおよそ半分。数倍の違いである(ちなみにオックスフォード大学は私立ではなく国立だ)。国公立大学間、私立大学間の価格競争はほとんど生じない。

グローバルな入学者市場から見れば、「お手頃な」価格である。それでもそれが競争力につながるわけではない。教育の質と価格をめぐる(英語圏に有利な、それゆえ不平等な)交換と競争の結果といえる。

これに大学の外部資金獲得市場での競争力の違いを考慮に入れれば、さらに桁違いの収入差になり、それが市場における交渉力の差につながる。その結果、日本の大学入学市場の閉鎖性や相対的な劣位は変更が難しいものとなる。注意してほしいのは、このような市場の閉鎖性がすでにコロナ禍以前に形成され維持されてきたことである。

この閉じた入学市場では、いわゆる受験「競争」がどれほど激しくても、入試での成功と交換されるのは、質の高い教育とは限らない。国内でのみ通用する大学の威信や地位(ステータス)といったシンボリックな財(象徴財)が主な交換財だ。偏差値の高い大学が、イコール教育の質の高い大学とは言えないことが、その何よりの証拠である。

日本の大学の威信は、国境を越えればほとんどグローバルな交渉力を持たない。日本の偏差値トップ大学のグローバルランキングにそれが表れている。ランキングを決める基準自体が、英語圏の大学に有利にできていることも、市場での交渉力の劣位のひとつの指標である。

受験市場で競われるのは、いかに入学試験で高得点を取れるかに限定される。そこで発揮され測定され順位づけられる能力やスキルの中身も、閉じた市場の中でのみ価値を持つものに留まる。

グローバルな労働市場では通用しない

たとえば、グローバルに通用するインターナショナルバカロレア(IB)で問われる能力やスキルとの違いを考えてみればよい。日本の大学入試で問われる知識や能力は、内容の点でも言語の点でも、グローバル市場では交換される価値をほとんど持たない。一度それをグローバルな指標(たとえばIB)に転換しない限りは。

大学入学市場で獲得できるこの象徴財(大学の知名度や威信)は、たしかに日本での卒業後の就職市場では有利に働くだろう。だから受験競争も生じるのだが、この象徴財はグローバルな労働市場では通用しない。

日本の就職市場自体も海外にはほとんど閉ざされていると言ってよい。外国人の雇用と言っても、日本に留学した留学生から優れた人材を採用するに留まる。海外から高度人材を引きつけることはできていない。つまり、グローバルな労働市場にまでウィングを広げてはいないということだ(あっても海外に留学した日本人や、日本語のできる日本学の卒業生に限られる)。

しかも日本の新卒就職市場は、初任給に大きな違いを持たない。むしろ、将来の安定性と入社後の昇進=地位をめぐる(男性に優位な)競争への参入権を獲得する競争と交換の場と見たほうがよい。

キャリアの早い段階から新入社員に能力発揮の機会を提供することを交換財とするわけでもない。開かれた市場のような、キャリアアップの一環として転職を前提とする市場ではないからだ。

こうした「閉ざされた」市場での競争と交換の結果は、開かれた市場の理念型が示すような人的資本の価値を高める循環を生みにくい。

その理由は、第1に、市場への参入が閉ざされていることにある。参入者が日本語のできるほぼ同世代の若者に限られているということだ。第2に、その副産物として、市場での交換の対象が大学や企業の「格」といった象徴財になるからでもある。経済的報酬も付随するが、非正規雇用との大きな格差を除き、その差は大きくない(ただし企業規模やジェンダーによる差は存在する)。そして、この「格」という象徴材も国内で通用する価値に留まる。

内部昇進が成功者のメインキャリアに

新卒就職市場で勝ち抜き「正社員」になった後の内部労働市場では、競争と交換の対価は地位をめぐる昇進の機会となる。それにともなう能力発揮の機会の獲得も、年数をかけて行われ、その間、組織への忠誠や同調が求められる。外部からの参入者が競争を脅かすことも、大きな報酬格差が生じることもほとんどない。時間をかけた内部昇進が成功者のメインキャリアとなるということだ。

ここまで挙げた市場は、いずれも年齢主義の影響を強く受け、個人にとっての競争相手は「同期」となる。社会学の準拠集団論を適用すれば、比較の対象は閉ざされた市場に参入できる、年齢的にも同質な集団ということだ。つまり国内でも年齢によって閉ざされているということだ。

大企業の幹部の多くが同質的な(男性中心の)集団となるのも、このような閉ざされた人的資本市場の結果に他ならない。それは、主要な経済団体の幹部の顔ぶれを見れば明らかである。いずれも内部昇進の結果である。

これらは同質性を高める選抜が行われた結果だが、こうした市場では異質性は排除され、同質的な集団内での「差異」が問われることとなる。同質的な集団内部での差異だけに、それは微小で微妙なものになる。突出した差異は、「異質」として排除されかねない。

しかも授業料・奨学金、賃金・報酬をめぐる価格競争が生じる市場とは異なり、この市場での交換レートは準拠集団内部での相対的なポジションで決まる。主な対価は人びとの満足感・優越意識となる(ただし、経済面では非正規雇用との間には大きな断絶があり、企業規模による格差も存在する)。

給与や賞与といった経済的な報酬の違いさえ、象徴財に変換される程度の差に留まる(1)。しかもこの象徴財は貨幣のような連続量ではなく、与えられた枠(入学者定員、新規採用枠)に入れるか否かで相対的なポジションが決まる「カテゴリー」だ。企業の業績に即応して増えるものではない。

こうした仕組みは日本人には馴染んでいても、海外からの「高度人材」には通用しにくい。そのことが、優れた海外の人材を引きつけることに失敗する一因にもなっている。その結果、市場の閉鎖性・同質性がいっそう強まることとなる。

戦後は「閉じた市場」での競争が功を奏した

すでに述べたように、閉じた市場における競争と交換は、開かれた市場モデルのような質を高める循環とはなりにくい。人的資本の「質」と相関する賃金や能力発揮の機会のような絶対的な価値の増大・獲得競争にも向かわない。

そこに向かうには、リスク覚悟でこのメインルートからスピンアウトするしかない。起業や、芸術・芸能・スポーツといった「プロ」の世界だ。突出した差異が問われる競争の世界である。

かつて戦後の高度成長時代には、このような閉じた市場での競争が功を奏したと言ってよいだろう。1ドル360円という円安もあり、当時の先進国との国際比較で見ればはるかに低賃金(低い労働コスト)で、質の高い工業製品を生産することによって、製品自体のグローバル市場における競争力が優位なポジションを占めることができたからだ。

比較的教育レベルの高い国民(とりわけ若者)を、その人的資本に比して国際比較的に低い賃金で雇用できたことも、その時代の有利さにつながったのだろう。

国内での人的資本をめぐる閉じた競争も、製造業における生産性を高めることに貢献した。グローバルな競争が、工業製品を通じて行われていた時代の恩恵である。日本の相対的優位性が、国境内部の人的資本の高さによって得られた工業化の時代である。

いや、その閉じた市場の中で発達した、「日本的経営」が日本の競争力の源となったと主張する論者もいる(2)。就職市場も企業内部の昇進市場も、そこで指摘された特徴に重なる。おそらく1980年代までの「戦後経済」の姿でもある。

閉鎖性がますます目立つように


しかし、日本の優位性はさまざまな要因によって喪失していった。それを論じるのはこの記事の目的を超えるが、しばしば指摘されるのは、グローバル化のさらなる展開、アジア諸国のキャッチアップ、製造業から第3次産業中心の産業構造の変化や、日本の「成熟社会」化、技術革新力の枯渇、バブル経済破綻後のデフレマインドの蔓延等々である。

その原因の特定はここではできないが、少なくとも、それ以前に通用していた工業製品を通じたグローバル市場での日本の優位性が損なわれるにつれ、人的資本のグローバルな市場から日本が遠ざかっていたことが、今度はマイナスの方向に働くようになったのだろう。そして、その閉鎖性がますます目立つようになった。

(1) 労働経済学者の尾高煌之助は、「日本的」労使関係の特徴のひとつとして、「企業への貢献に対して、報酬そのものよりも威信(prestige)の配分で報い、それによって勤労意欲をかきたてようとする社内競争と昇進の制度」を挙げている(尾高煌之助「『日本的』労使関係」、岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、1993年、147頁)。

(2) たとえば、J・C・アベグレン『日本の経営から何を学ぶか』(占部都美・森義昭監訳、ダイヤモンド社、1974年)、エズラ・ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(広中和歌子・木本彰子訳、TBSブリタニカ、1979年)など。

(苅谷 剛彦 : 英オックスフォード大学教授)