アメリカが個人主義で能力主義というのは本当なのでしょうか(写真:Kazpon/PIXTA)
中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)など、気鋭の論客の各氏が読み解き、議論する「令和の新教養」シリーズ。
中野氏の新刊『奇跡の社会科学』(PHP新書)をめぐって、いかに古典を現代に生かすか、その考え方や方法について徹底討議する。今回はその後編をお届けする(前編はこちら)。
アメリカが多様性を尊重するという神話
中野:かのアイザック・ニュートンは手紙の中で「私がかなたまで見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからです」と書いたと伝えられています。自分の研究の成果は先人たちの業績の蓄積のおかげだという意味です。ニュートンは自然科学における偉人ですが、同じことは政治学や経済学などの社会科学にも当てはまります。
100年前、200年前に書かれた古典を読んでも意味がないと思う人もいるかもしれません。しかし、100年前の経済学者の中には現代の経済学者より優れた人がいました。100年前、200年前の古典を読み返せば、いまでも多くのインスピレーションを得ることができます。社会科学の古典は、いつまでも輝きを失わないのです。
私は『奇跡の社会科学』(PHP新書)で、マックス・ウェーバーからE・H・カーまで8人の偉人たちの古典を取り上げました。みな西洋の人たちです。「西洋の古典に書かれていることは、日本には当てはまらないのではないか」と考える人もいると思います。日本には日本特有の文化があり、西洋とは異なると思っている人は少なくないでしょう。これは日本特殊論と呼ばれる考え方です。
しかし、この議論は本当に正しいでしょうか。たとえば、しばしば日本は同調圧力が強いと言われます。その一方で、アメリカは日本と違って多様な意見を尊重すると信じられています。しかし、実はアメリカ社会にも強烈な同調圧力があります。アメリカには多くの移民が流入し、文化的な多様性を生み出しているように見えますが、実際はアメリカに渡った移民の2世、3世はそのルーツの文化や言語を忘れ、アメリカ文化に適応し、英語を話す傾向が強い。アメリカ社会は「人種のるつぼ」と言われますが、文字通りさまざまな民族の文化を溶かし、アメリカ文化という鋳型に流し込んでしまうのです。
アメリカ文化の特徴はマクドナルドに代表される
また、アメリカ文化の特徴はマクドナルドに代表されるように、徹底した標準化・画一化にあります。ハインツの缶詰、T型フォードからスマートフォンに至るまで、アメリカ人は製品やサービスを徹底的に標準化・画一化するのを得意としています。これは多様性とは正反対の態度です。
中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)
『奇跡の社会科学』で取り上げたアレクシス・ド・トクヴィルは、「アメリカでは、人々の精神はすべて同じモデルに基づいてつくられており、また、そうであればこそ、それらの精神は正確に同じ道を辿っているともいえよう」と記しています。トクヴィルがこう指摘したのは400年前のことです。アメリカ社会が多様性を尊重するというのは神話にすぎないのです。
施さんも『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)で日本特殊論について疑問を呈していますが、この点について改めてご見解をお聞かせください。
施:中野さんのお話にまったく同感です。たとえば、アダム・スミスに『道徳感情論』という本があります。スミスは経済学の父であると同時に社会心理学の父でもあります。スミスはこの本で、人間の自我というものは他人の目を気にするところから生まれると書いています。普段、人々は他人の目を気にしながら生活しているが、都会で暮らすようになると、次第に他人の目を気にしないようになっていく。そうなれば、人間は堕落し、質が落ちてしまうというのがスミスの議論です。
また、スミスの時代のイギリス貴族の間では、ヨーロッパ大陸に旅行することが一種の大人になるための儀式とされていました。これについてもスミスは厳しく批判し、外国に行くと他人の目を気にしなくなるから問題だ、イギリスの貴族教育はなっていないと言っています。
これは日本とかなり共通するところがあると思います。日本人は世間からどう見られるかを非常に気にしており、世間の目で行動が左右されると批判的に論じられますが、その点は西洋も変わらないのです。
「西洋=個人主義的、日本=集団主義的」なのか
中野:個人主義と集団主義の話もそうですね。次のような議論を聞いたことがある人は多いと思います。「西洋人は個人主義的で、個が確立している。これに対して日本人は集団主義的で、人間関係ばかり気にしていて、個が確立していない。未だにちゃんと近代化していないのだ。日本人は個を確立しなければいけない」。
しかし、これは果たして正しいのでしょうか。私は『奇跡の社会科学』の中でエミール・デュルケームを取り上げました。デュルケームは19世紀末から20世紀初頭のフランスで活躍した社会学者で、ほぼ同時代人であるマックス・ウェーバーと並んで近代社会学の創始者とされています。
デュルケームは『自殺論』という著書で当時のヨーロッパの主要国の自殺について議論し、「人間は個人主義になると自殺に走りやすくなる」「人間には共同体との絆が必要だ」と結論づけます。要するに、「個の確立」などというのは西洋でも幻想にすぎないということです。
古川:中野さんは大学時代にデュルケームの『自殺論』を読んで、「日本人も西洋人のように個を確立すべきだ」という類の議論がおかしいということに気づいたと書かれていますが、私の場合はエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』がそうでした。
だいたい、中高生の頃は、とくに国語の評論文などで、日本は近代化していないだの、個が確立していないだのといった文章をさんざん読まされます。それで、なんとなくそれが「正しい」言説なのだと思い込まされますし、そういうことを言えば知的ぶれるかのように錯覚してしまいます。恥ずかしいことに、私もそうでした。
しかし、大学でフロムの本を読んだら、全然違った。むしろ人間は、近代になって共同体の絆から解き放たれて「自由な個人」になったせいで、不安や孤独にさいなまれるようになった。それが全体主義を生み出したのだとフロムは書いているわけです。もっとも、フロムの場合は、だから孤独に負けない強い個人にならなければいけないという、ひどい結論になってしまうのですが。
日本特殊論がおかしいのではないかと思ったのは、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を読んだときでした。オルテガの言う「大衆」とは、個性がなく、「みんなと同じ」であることに満足し、より優れた人間になろうとする努力をせず、むしろそういう人を寄ってたかって排除しようとする、そういう人間です。
アメリカは個人主義で能力主義というのは本当か
これは、日本特殊論が批判する日本人の特徴そのものです。ところがオルテガは、西洋の近代化こそが、そういう人間を生み出したのだと書いている。日本人の集団主義がどうのこうのという話ではないのですね。だとすると、近代化して個人が自由になったがゆえに生じた問題を、日本人は、日本が近代化しておらず、個人が自由になっていないがゆえの問題であると錯覚していることになる。これは恐ろしいことではないかと思いました。
古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)
ついでにもう1つ、これは身近な事例で恐縮なのですが、今年亡くなった私の義理の父は、工業系の会社に勤めていて、わりと長い間、アメリカの支社で働いていました。私の妻もアメリカで生まれたのですが、幼少期の思い出を聞くと、毎週のように会社の同僚や取引先の人たちのホームパーティなどに出かけていたといいます。
義父はよくこんな話をしていました。アメリカ人はファミリーを何よりも大切にする。だから、仕事でも家族ぐるみの付き合いをすごく大事にする。取引先の人と親しくなったりすると、今度ホームパーティをやるんだが、お前のファミリーも一緒にどうだと、必ず誘われる。それを断るようなやつは、アメリカではまず信頼されないと言うんですね。喜んで出かけていって、家族ぐるみで親しくなっていくことで、信頼関係ができていく。そうすると、仕事も自然に、お互いにとって良いものになっていく。仕事というのは、そういうものなのだということを、自分はアメリカ人から学んだと言うんです。
1980年代のアメリカの話ですよ。個人主義で能力主義というのは、いったいどこの国の話なのかと思いました。
中野:1980年代にはロバート・ベラーの『心の習慣』が出版され、その後もロバート・パットナムの『孤独なボウリング』など、アメリカのファミリーが崩れ、個人主義が蔓延してきたことに警鐘を鳴らす本がどんどん出されました。それを日本人はせっせと翻訳しているのに、いまだにステレオタイプの日本特殊論から抜け出せていないわけです。非常に根の深い問題です。
古い自民党政治の重要性
施:最近出版されたマイケル・リンドの『新しい階級闘争』(東洋経済新報社)も参考になると思います。この本は私が監訳したのですが、戦後のアメリカでは政治や官僚などがさまざまな中間団体の利益を丁寧に調整することで、安定した経済成長と福祉を両立させてきました。リンドはこれを民主的多元主義と呼んでいます。
施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)
一般に、中間団体とは労働組合や商工会、農協、地域団体などのことを指します。リンドはその地域で大きな政治力を持つボス的存在の人物の重要性も語っています。ボスはその地域の利権の保全やその配分に大きな役割を果たし、ブローカーのように振る舞います。インテリは、こうした地域のボス的存在を前近代的な村社会の遺物だと受け取り、非常に嫌います。しかし、彼らが地域の利権を守り、調整を担ってきたことで、その地域が広く潤ってきたことも確かです。
ところが、新自由主義改革が強行されたことで、地域のボスたちの影響力は低下しました。その代わり台頭してきたのがグローバルエリートです。これにより、経済格差が拡大し、グローバル企業や投資家(オーバークラス)と庶民層の間で政治的影響力に大きな差が生じてしまったのです。そのため、リンドは地域を疲弊させるグローバルエリートより、地域のボスのほうがよほどマシだと言っています。
リンドの言っていることは、日本で言えば古い自民党政治のことです。日本でも古い自民党政治は利権政治だとして、新自由主義的構造改革の標的にされました。しかし、日本でこの30年間批判されてきたものこそ、リンドは重要だと指摘しているのです。
佐藤:『奇跡の社会科学』で紹介されている著作は、どれも西洋のものですし、ほとんどが19世紀以後に書かれている。「近代西洋の叡智は普遍的なもの」という、一種の知的グローバリズムの立場を取っているのではと思う読者もいるかもしれません。
「東洋の自分の知恵」として表現すること
しかしここで再び提起したいのが、前編で触れた「再現(representation)」というポイント。古典の叡智を身につけるとは、それを「現在の自分の知恵」として表現できるようになることだったわけですが、ならば西洋の叡智を自国の歴史や伝統の文脈に溶かし込み、「東洋の自分の知恵」として表現することもできるはずでしょう。
これも芸術を通じて考えるとわかりやすい。黒澤明監督には『蜘蛛巣城』や『乱』といった作品があります。どちらも時代劇で、伝統的な日本人を描いているかに見えるものの、原作はシェイクスピアの『マクベス』と『リア王』です。黒澤はドストエフスキーの『白痴』を映画化したときも、舞台を敗戦後の札幌に置き換えました。
佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻を経て、現在『2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている。オンライン読書会もシリーズで開催(写真:佐藤健志)
その意味で「原作に忠実な映画化」ではないのですが、作品の評価は高い。ロシアが生んだ天才監督アンドレイ・タルコフスキーなど、『蜘蛛巣城』と『白痴』こそ、シェイクスピアとドストエフスキーの映画化で最良のものとまで語りました。文化を超えた再現を成し遂げたがゆえに、原作の核心に迫る表現になったのです。
あるいは、こんなエピソードもある。かの劇団四季は旗揚げ当初、ジャン・ジロドゥとジャン・アヌイというフランスの劇作家の芝居をずっとやっていました。当時、ジロドゥはすでに他界していましたが、アヌイは現役で活躍中。
で、創立10年を迎えたころ、四季のリーダーたちがパリに行ってアヌイに会い、舞台写真を見せた。するとアヌイは不思議そうな顔で「どうして役者がみんな洋服を着ているのか?」と聞いたそうです。「あなたの作品ですから、フランス人に扮しているのです」と答えたら、「これは上流階級の家庭を描いた芝居だ。日本の上流階級は、家ではよく和服を着ると聞いている。なぜ和服を着てやらないのだ」。発言はどれも大意ですが、日本の劇団がやる以上は、日本の話に仕立て直して当たり前と、ほかならぬ作者が考えていた。のちに四季が、キリストの最期を描いたミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター』を歌舞伎風の演出でやったりしたのは、この経験を踏まえたものでしょう。
欧米の思想でも、自国の文脈に合わせて再現できれば、それは日本の思想なのです。逆に日本の思想も、欧米の文脈に合わせて再現できれば、欧米の思想になる。黒澤明の時代劇『用心棒』は、セルジオ・レオーネ監督により『荒野の用心棒』という西部劇に仕立て直されました。文化の違いに応じて内容をアレンジする力、これが重要なのです。
リアリズムが理解できない日本
中野:今日の日本において特に重要なのは、国際政治学におけるリアリズムを理解することだと思います。E・H・カーは『危機の二十年』の中で、国際政治学の思想潮流をユートピアニズムとリアリズムにわけました。ユートピアニズムとは簡単に言えば、事実よりも目的あるいは願望が先行するような思考様式です。今日で言えば、リベラリズムです。それに対して、リアリズムは、国際秩序を成り立たせているのは軍事力や経済力といったパワーのバランスであるとする理論です。
第1次世界大戦後、西洋はユートピアニズム(リベラリズム)に基づいて国際秩序を形成しようとしました。しかし、各国の力関係や利害対立という現実を無視した国際秩序がうまくいくはずがありません。結局、国際連盟は機能不全に陥り、現状に不満を抱くドイツやイタリアによる挑戦を受け、第2次世界大戦が引き起こされることになりました。
日本はこのリアリズムを理解できていません。イラク戦争が起こったとき、日本ではアメリカに追従することがリアリズムだと言われていました。しかし、アメリカのリアリストたちは、イラクを民主化するなどというリベラリズムは非現実的かつ危険であり、イラク戦争はアメリカを疲弊させるだけだと反対していた。現在のウクライナ戦争でも、アメリカのリアリストたちは、そもそも、ウクライナをNATO(北大西洋条約機構)に加盟させて西側陣営につかせようとするリベラリズムの戦略を批判してきました。そんなことをしたらパワー・バランスが崩れ、ロシアを刺激して戦争になるおそれがあるからです。そして実際、その通りになって、ウクライナ戦争が起きてしまいました。カーの『危機の二十年』という古典の叡智を、現代人は、未だに活かしきれていないというわけです。
古川:そもそも「リアリズム(現実主義)」という言葉の意味を正しく理解していない日本人が多すぎると思います。たとえば先日、フランスのエマニュエル・トッド氏が日本のテレビ番組に出て、橋下徹氏と木村太郎氏の3人で討論していたのですが、見事に会話がかみ合っていませんでした。
トッド氏が、「現実主義的に、日本は対米依存の安全保障を見直すべきだ」と主張するのに対して、日本の両氏は口をそろえて、「現実的に、日本は憲法9条があるから安全保障はアメリカに頼らざるをえない。したがって日米同盟の強化以外に選択肢はない」と言う。「現実的に」という言葉の意味が、まったく食い違っているわけです。
リアリズム=現状追認という勘違い
施:日本では現状追認をリアリズムと勘違いしているわけですね。
佐藤:日本が自らの価値判断と国家戦略に基づき、主体性をもってウクライナを支援すると言うのならいいでしょう。ところが政府のやっていることは、「国際世論」は反ロシアだから日本もウクライナ支援に加わるという、ただそれだけです。
だいたい、本当に国際世論は反ロシアで固まっているのか。そもそもこの点が怪しい。中国やインドは明らかに米欧諸国と距離を置いているではありませんか。
日本で言うリアリズムとは、物事を主体的に考えるのをやめ、ひたすらアメリカに付き従うという意味です。つまりは思考停止の状態で事大主義にひたること。
戦後の日本ではリベラルが、観念的な平和主義というユートピアニズムに執着した結果、みごとに信用を失墜させ、保守に塩を送ることになった。他方、保守は現実的に考えてアメリカに従うべきだという立場だったものの、そこからどう脱却するかについて考えがなく、後になればなるほど事大主義に堕していった。こちらも観念的なユートピアニズムに陥ったのです。その意味では、今や保守もリベラルに塩を送っている。
中野:保守もリベラルもお互いに塩を送り合い、両方ともしょっぱい存在になってしまったということですね(笑)。この現実をしっかり踏まえる必要があります。
(構成 中村友哉)
(「令和の新教養」研究会)
外部リンク東洋経済オンライン