「古典の知恵」は「成熟した大人の知恵」です(写真:nam/PIXTA)

中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)など、気鋭の論客の各氏が読み解き、議論する「令和の新教養」シリーズ。

中野氏の新刊『奇跡の社会科学』(PHP新書)をめぐって、いかに古典を現代に生かすか、その考え方や方法について徹底討議する。今回はその前編をお届けする。

なぜ古典の知恵が無視されるのか

中野:昨今では行き過ぎた新自由主義政策が格差や貧困をもたらしたとして、新自由主義の見直しを求める声が強くなっています。日本でも岸田総理が「新しい資本主義」を掲げ、市場に任せればすべてうまくいくという新自由主義的な考え方がさまざまな弊害を生んだとはっきりと述べ、その転換を訴えています。

しかし、新自由主義政策が今日のような悲惨な状況をもたらすことは、最初からわかっていました。新自由主義にはその名の通り、ご先祖となる(旧)自由主義が存在します。(旧)自由主義は19世紀から20世紀にかけて、イギリス発で世界に広がりました。19世紀のイギリスは産業革命によって生産技術や生産設備、交通手段が飛躍的に進歩しましたが、その一方で多くの労働者たちが劣悪な環境のもとで酷使され、格差や貧困が拡大しました。産業革命による環境破壊も生じました。


中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

こうした自由主義の問題点は、当時の人たちが詳しく論じています。その1つが、カール・ポランニーの『大転換』です。だからこの種の古典を読んでいれば、自由主義がうまくいかなかったように新自由主義もうまくいかないことはすぐにわかるはずなのです。

私は『奇跡の社会科学』(PHP新書)で、マックス・ウェーバーやエドマンド・バーク、アレクシス・ド・トクヴィル、カール・ポランニー、エミール・デュルケームなどの古典を取り上げ、できるだけ平易に解説しました。いま日本で問題になっている貧困・格差や組織改革の失敗、自殺、戦争などは、彼らが生きていた時代にも起こった問題であり、彼らはそれらに対して1つの優れた見解を提示しています。

日本で知識人と呼ばれている人たちは、当然こうした古典を読んでいるはずです。私より詳しい人はたくさんいると思います。ところが、なぜか日本の学者たちの中には新自由主義的な構造改革を推進している人が多い。これはとても不思議なことです。

「知識のブタ積み」

佐藤:この点については、2つの可能性が考えられます。中野さんが本書で批判した堺屋太一を例に取りましょう。彼は1993年の著書『組織の盛衰』で、近代の社会科学では組織に関する研究だけが立ち遅れているという、事実と正反対の主張を展開しました。前提が間違っているのですから、その先の議論もむろん的外れ。

しかるに、これをどう解釈するか。第1の可能性は、堺屋が組織研究をめぐる社会科学の古典を読んでおらず、みごとに無知だったというもの。これなら話は簡単です。ちゃんと勉強すればよろしい。中野さんも「堺屋は社会科学の膨大な研究の蓄積を知ろうともせず、うぬぼれで大言壮語している」という旨を述べました。

だが、本当にそうか。第2の可能性は、堺屋がこれらの古典を読むことは読んでおり、内容も知っているにもかかわらず、いざ自分で組織を論じる段になると、頭の中にある知識をまるで活かせず、素人レベルのメチャクチャな主張を並べ立てたというものです。そして私は、真相はこちらではないかと見ています。

言ってみれば「知識のブタ積み」。ブタ積みとは金融業界で使われる言葉で、市中銀行が法定準備預金額を超えて、日本銀行に預け入れている金を指します。安倍政権以来、日本は異次元金融緩和を続けてきましたが、市中銀行は貸し出しを行わず、法定準備預金をどんどん積み上げていきました。投資をめぐる民間の需要が増えなかったせいです。

つまり金融政策と現実の状況との間に接点をつくれなかったわけですが、これでは緩和の効果が上がらない。市中銀行にとっても、貸し出さねば利息が稼げないため意味がない。「ブタ積み」という表現は、花札(オイチョカブ)で役ができないことを「ブタ」と呼ぶのに由来するそうです。役ができなければ、札があっても意味がありませんからね。

同様、いくら古典を読んだところで、そこから得た知識と、現在の自国の状況との間に接点をつくれなければ、知識は頭の中でブタ積みになって終わる。だから勉強していても、自分で論じる段になるとメチャクチャになるというわけです。

日本の学者は頭でっかち

中野:施さんはどうお考えですか。

:なぜ古典の知恵が無視されるのかということに関して、私もいくつかの可能性があると思っています。

一つは、勉強をしなかったというより、むしろ勉強ばかりしたことで「頭でっかち」になってしまった可能性です。私は大学で知識ばかり先行している人と接する機会が多いので、余計にそう思います。

たとえば、戦後の日本が驚異的な経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国にまでのぼりつめたとき、世界の国々が、日本の成功の秘訣を探りました。そこで見出されたのがいわゆる「日本型経営」や「日本型市場経済」と呼ばれたシステムです。こうしたシステムにはそれぞれ問題点もありましたが、いまから振り返れば、これらが日本に安定をもたらしたことは間違いないと思います。


施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

「日本型経営」や「日本型市場経済」は官僚や知識人たちが何か知識や学問に基づいて構築したものではありません。さまざまな立場の多くの人々が試行錯誤する中で、半ば無意識につくりあげたものです。いわば経験から得た知恵です。

ところが、1980年代ごろから官僚や財界人、知識人などがアメリカに留学して新自由主義に染まり、「日本には改革が必要だ」などと叫んでこうした日本型システムを破壊してしまいました。その結果、日本は勢いを失い、「失われた30年」が到来したのです。

イギリスの日本研究者であるロナルド・ドーアは、「日本型経営」や「日本型市場経済」を称賛してきた方ですが、彼は『幻滅』という本で、日本の官僚たちがアメリカの大学院、それも経営学の大学院などに留学するようになってから日本は劣化したと書いています。ドーアはその数少ない例外として中野さんの名前をあげていますが、彼は書名の通り日本に幻滅してしまったわけです。

もちろん中野さんが『奇跡の社会科学』で取り上げているウェーバーにしてもバークにしても、彼ら自身は大変な勉強家だったと思います。しかし、彼らは頭でっかちになることはなかった。現実と格闘しながら学問をつくりあげていたから、彼らの議論は実践的で、いま読んでも決して古びることはないのだと思います。

それから、もう1つ古典の知恵が軽視されてきた原因を考えれば、最初の点とも関連しますが、重要な古典を読んではいるけども、それを牽強付会に解釈してしまっていることです。

政治学や国際政治学をやっている学者ならたいていトクヴィルを読んでいます。中野さんが『奇跡の社会科学』で強調されているように、トクヴィルは中間団体を重視しました。中間団体とは、政党や組合、教会、業界団体などのことです。中間団体が機能していれば、人々は専制的な中央権力に従属するだけではなく、自分たちの意見や利益を政治に反映しようとすることができます。

日本にも労組や農協、業界団体、村落共同体など、多くの中間団体があります。トクヴィルの議論に基づけば、こうした中間団体は専制的な中央権力を抑止する上でとても重要なので、是が非でも維持しなければならない、となるはずです。

ところが、日本の学者たちは、トクヴィルが言っていた中間団体とは「自由で自律的な市民からなる自発的結社」のことであり、アソシエーションと呼ばれるべきものであって、日本の村落共同体や農協、商工団体などは当てはまらないなどと言うわけです。つまり、中間団体には「良き中間団体」と「悪しき中間団体」があって、日本の村落共同体や農協などは「悪しき中間団体」であり、極端な場合はこれらを解体しても構わないということになるのです。

中野:実に馬鹿げた解釈ですね。それを言うなら、いま問題になっている旧統一教会やその関連団体だって自発的結社と言えてしまいますよ。

:そうですね。要するに、彼らは古典を知識として知っているだけで、それを実践の中できちんと活かすことができていないのです。頭でっかちだから、古典を牽強付会に解釈してしまうのでしょう。

古典を現在に活かせるか

佐藤:私なりに言い換えれば、それは〈再現の失敗〉という問題です。過去の叡智を現在に活かせないわけですが、これは演劇に即して考えるとわかりやすい。

芝居を上演するというのは、基本的に「過去に書かれた密度の高い言葉を、現在の観客の前で語ってみせること」です。シェイクスピアなら400年以上前に書かれていますし、ギリシャ悲劇なら2400年〜2500年前。ただし役者は、くだんの言葉を「今この瞬間、自分が思いついた」ものであるかのように語らねばならない。

演技とは、過去の言葉を自然な形で現在に再現する技術なのです。イギリス出身の名演出家ピーター・ブルックは、著書『なにもない空間』で、表現(representation)とは文字通り、過去をふたたび現在にすること(re-present)だと述べました。演劇とは時間の否定であり、昨日と今日との間の違いを追放するものなのだと。

知識人たるもの、役者の要素を持たねばならない

人間を「劇的なるもの」と形容したのは福田恆存ですが、古典教養を身につけるとは、そこで得た知識を「リプリゼント」できるようになることでなければなりません。すなわち過去の人々の叡智を、リアルタイムで自分の知恵として再現できる人だけが本物。

その意味で知識人たるもの、役者の要素を持たねばならない。頭でっかちではダメなのです。過去の言葉、それも密度の高い言葉を自然に語るには、感情による裏付けと、身体の正しいバランスが必要になります。「語る自分」に中身があって、初めて言葉の意味が伝わる。

施さんが挙げた2つの例は、下手な演技しかできない役者と同じです。戯曲は暗記したけど人生経験が足りないのが前者で、戯曲が理解できず自己流のデタラメな解釈で押し通すのが後者。どちらも過去の叡智を現在に再現する力を持っていないのです。


佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻を経て、現在『2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている。オンライン読書会もシリーズで開催(写真:佐藤健志) 

中野:確かに、古典を読んだ上で、あえて自分にとって都合のよい解釈をする場合は少なくないですね。

たとえば、新自由主義を先導したフリードリヒ・ハイエクは、バークやトクヴィルを巧みに解釈し直し、新自由主義の先祖であるかのように描いています。

佐藤:欧米、特にヨーロッパの知的エリートたちが、古典を素通りしたまま大学教育や大学院教育を終えるとは考えられません。彼らは間違いなく古典を読んでおり、内容も知識としてはわきまえているに違いない。だから新自由主義的改革をやったところで無残な失敗に終わることもわかっていたはずです。

中野:確かに欧米にはハイエクのような悪質な人たちがいますが、一方で、きちんと古典を踏まえた上で新自由主義を批判している知識人もいます。新自由主義への抵抗という点では、欧米の知識人のほうが日本よりもずっと強力です。欧米のインテリたちの間では、新自由主義に懐疑的でないとまともな知識人と見なされないような風潮さえあります。

私もこの30年間、古典を読み込み、しっかりと理論武装した上で繰り返し新自由主義を批判してきた欧米の知識人たちから、多くのことを学んできました。とはいえ、全体から見れば新自由主義を批判している人たちは少数派でした。

主体性をめぐる逆説

中野:古川さんは教育哲学や道徳教育を専門としていますが、古典の意義をどのように捉えていますか。

古川:中野さんが今回のご著書で明らかにされた「古典の知恵」は、一言で言えば「逆説」だと思います。「自由を求めるほど、かえって全体主義になる」「効率化を求めるほど、かえって非効率になる」「平和を求めるほど、かえって戦争になる」。こういう皮肉な逆説です。

この30年間の日本の新自由主義改革やグローバリズムは、こうした古典の知恵が正しかったことを明らかにしたわけですが、教育の分野でも同じことが言えます。構造改革と並行して、「教育改革」が30年間、延々と続いていますが、そこで言われているのは、俗に「知識偏重」と言われる、過去から受け継がれてきた知識を教えるだけの教育をやめて、グローバルな時代に対応できる自由な「個性」や「主体性」や「思考力」を育成すべきだというようなことです。

ところが、その新しい教育を受けた世代が、大人になって、旧い教育を受けた世代から何と言われているかというと、「いまの若い人たちは主体性がない」と(笑)。「主体性を育む教育」を受けたはずの世代が、かわいそうに、上司に指示されないと何もできない「指示待ち人間」などと呼ばれて馬鹿にされてしまっているのです。

最近も『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』(東洋経済新報社、2022年)という本が話題になりました。「目立つ」ことや「浮く」ことを恐れて、集団のなかに埋没したがる。自分で決めることを嫌がって、何でも人に決めてもらいたいと思う。いまの大学生や若い社員は、ここまで徹底的に「個性」や「主体性」を根扱ぎにされているということが、驚きをもって受けとめられています。


古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

もちろん、すべてが教育の結果というわけではありません。しかし、それでも、「個性」だの「主体性」だのを謳った「教育改革」を30年間、やり続けた結果がこれだという皮肉な逆説は、いいかげん反省すべきでしょう。それなのに、学者やマスコミは、こぞって「日本人に主体性がないのは、日本の教育が知識偏重だからだ。だから改革が必要だ」などと言っている。「改革」をしたからこそ、こうなったのではないかということは、考えようともしないのです。私自身は、教育はあくまでも過去の知識の教授に徹したほうが、かえって子どもの主体性や思考力を育めるはずだと思うのですが、誰も共感してくれません。

佐藤:おっしゃる通りです。例によってピーター・ブルックが良いことを言っていますよ。子どもに絵の具箱を与え、ただ好きにやらせたらどうなるか。「全部の色を混ぜあわせて、結果は必ず泥んこのカーキ色に決まっている」。ブルックは安直な即興演劇を批判してこう述べたのですが、主体性を活かすには、まず規律によって基盤をつくってやらねばなりません。でないと〈自由の限界〉があっという間にやってきます。

古川:最初に中野さんから問題提起のあった、古典を読んでいるはずなのに新自由主義改革を推進してしまう人が多いのはなぜかという問いについて、私の考えはこうです。

「古典の知恵」というのは、いわば「成熟した大人の知恵」のようなものです。中高生の頃は、「古いしがらみから解放されれば自由になれる」とか「軍隊をなくせば平和になる」などと考えがちですが、大人になると、人間や社会というものはもっと複雑で、そう単純に思いどおりにはならないということがわかってきます。

「頭でっかちなバカ」にならないために

自分の経験を少し反省するだけでもわかるはずですし、ましてや人類の経験、つまり歴史を学んでみると、「自由で平等な共和国をつくろうとしたら、テロになった」とか、「愛と平和に満ちた神の国をつくろうとしたら、血みどろの宗教戦争になった」とか、そういう皮肉な逆説にあふれているということがわかってくるわけです。


社会科学や哲学の優れた古典は、どうしてそういう皮肉なことが起こるのかということを、理論的に解き明かしています。しかし、それを読んでわかるためには、そもそも人間や社会とはそういうものなのだということを、あらかじめ経験的にわかっていなければならないのかもしれません。「わかるためには、あらかじめわかっていなければならない」という、ソクラテスの逆説ですね。

古典を読んでも理解しない人がいるというのは、そういうことなのだと思います。「ウェーバーはこう言っている」ということを、知識として「知って」いても、それが何を意味しているのかは「わかって」いない。頭では知っていても、身体ではわかっていない。「腑に落ちて」いないのです。

「古典は身体で読む」というのが、実は日本の伝統的な素読の学習論の根底にあった考え方です。最初は、意味もわからず丸暗記する。それがだんだん、経験を通じて「ああ、これはこういう意味だったのか」と、腑に落ちてくる。そうやって、だんだんと古典の知恵が身体化されていくわけです。

そういう学びの伝統を見直すことも大事ではないかと思います。身体で読まず、頭でしか読まないと、オルテガが「最も恐ろしい人間」と言った「頭でっかちなバカ」になってしまうのではないでしょうか。

(構成 中村友哉)

*後編へ続く

(「令和の新教養」研究会)