宮崎駿監督はなぜ世界で高い評価を得たのか。ジャーナリストの数土直志さんは「『千と千尋の神隠し』(2001年)が国際映画祭で評価され、知名度を一気に高めた。善悪の明確な対立がないなど、ディズニー映画とはまったく違うアニメの存在に、欧米の映画人は驚いた」という――。(第2回)

※本稿は、数土直志『日本のアニメ監督はいかにして世界へ打って出たのか?』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

写真=AFP/時事通信フォト
東京都内で報道陣の取材に応じる宮崎駿氏=2015年7月13日 - 写真=AFP/時事通信フォト

■もともとは監督を目指してはいなかった宮崎駿

宮崎駿は、なぜ世界でもこれほどまで有名なアニメ監督になったのだろう。いまでこそ誰でも知る巨匠だが、もちろんキャリアのスタートから世界や日本でも広く知られていたわけではない。

そもそも制作会社入社時の役職はアニメーターで、当初は演出・監督を目指していなかった。他にも多くいたアニメの絵を描くのが好きなアニメーターのひとりだった。

■鈴木敏夫がいなければ『ナウシカ』はなかった

宮崎駿の名前が知られ、作家性が注目されるのは『風の谷のナウシカ』以降だ。しかし『ナウシカ』の映画制作も順調だったわけではない。

80年代は漫画原作がなく、当たるかわからないオリジナルの劇場アニメ企画を通すのはハードルが高かったからだ。そこで当時アニメ雑誌『アニメージュ』(徳間書店)の編集者で後にスタジオジブリをともに立ち上げる鈴木敏夫は、そうであれば原作から作ればいいと『アニメージュ』での漫画連載を強く勧めたのだった。それが『風の谷のナウシカ』で、宮崎駿にとっての初の長編漫画である。

1984年に劇場公開した『風の谷のナウシカ』は、こうしてまずアニメ雑誌の連載漫画から始まった。既存の原作はなく、世界観、物語は全て宮崎駿の頭の中から生まれている。

舞台は遥か未来の地球、「火の七日間」と呼ばれる最終戦争により地球は荒廃した大陸と腐海と呼ばれる瘴気(しょうき)を発する菌類の森に覆い尽くされる。高度な文明を失った人類はそうした環境で暮らし、もはや滅亡を待つばかり。その中でも争いを繰り返す人々の前に現れた少女・ナウシカが世界を変えていく。壮大なストーリーだ。

映画は公開後、ヒット作となり好評を博した。オリジナル作品、原作も手がけたことで、クリエイターとしての宮崎駿の名前も知られるようになる。まさに鈴木敏夫の狙いどおりである。

漫画連載は映画公開後も続き、完結は連載スタートから12年後の1994年。2021年までに世界各国で翻訳出版され、累計発行部数は1200万部を超えている。

複雑なテーマが盛り込まれた漫画は、映画だけでない宮崎駿の表現者としての才能を示す。映画とは違う結末、主人公・ナウシカの印象も大きく異なる本作は、漫画分野での宮崎駿の表現の頂点となった。

宮崎駿は2014年に米国コミック業界によるアイズナー賞「コミックの殿堂」に選ばれている。

■天才プロデューサーとの変わった出会い

宮崎駿のキャリアにとって、鈴木敏夫の存在は欠かせない。その出会いは高畑勲の出会いと同じぐらい重要だろう。宮崎駿の生み出したクリエイティブを鈴木があの手この手で世界に広げていく。それは自転車の両輪で、どちらがなくとも回らない。

鈴木敏夫と宮崎駿、高畑勲の出会いはエッセイやトークでしばしば語られている。

最初のきっかけは、鈴木敏夫が1978年に『アニメージュ』創刊号の編集を突然全部任されたことにある。『太陽の王子ホルスの大冒険』という傑作があると聞きつけた鈴木は、それを誌面に取り上げようと監督(演出)だった高畑勲に会って欲しいと電話したのだ。

これに対して高畑はなぜ会えないかの理由を一時間にわたり説明した後、隣にいた宮崎駿に電話を回したのだ。

しかしこちらは逆に取材は構わないが16ページは必要だと無理難題。結局、編集の修羅場の時期でもあり、3人はこの時は会うことがなかった。宮崎駿が鈴木敏夫と実際に会ったのは、1979年の『ルパン三世 カリオストロの城』の制作の時だ。この時も『アニメージュ』の取材だが、今度は宮崎駿は「取材を受けたくない」と言う。

鈴木敏夫は一週間スタジオに通い詰めて、ずっと隣に座り続けた。そして一週間後、宮崎ははじめて鈴木に絵コンテを見せ、その後、宮崎駿と鈴木敏夫の信頼関係は、40年以上続くことになる。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/smolaw11

■理想主義者と現実主義者

宮崎駿と鈴木敏夫の関係は、はたから見るととても不思議だ。宮崎はこうしたエピソードからも窺える気難しさが感じられるし、数々の発言からかなりの理想主義にも見える。

一方の鈴木敏夫は『アニメージュ』の編集者の前は、大衆誌『アサヒ芸能』にいたこともある。社会の表も裏も知り尽くしたとのイメージだ。そもそも映画のプロデューサーはお金を集め、人を説得して動かすが、正攻法だけでなく時には策略も巡らすはずだ。

宮崎の鈴木に対する信頼はどこから生まれるのか。かつて宮崎駿は理想主義について、「理想を失わない現実主義者にならないといけないんです。理想のない現実主義者ならいくらでもいるんです」と語った。

宮崎駿は現実主義の部分を、鈴木敏夫に預けることで、自らの理想を貫く道を選択しているのではないだろうか。

資金調達や制作費の回収、スタジオの雑事から離れることで、自らの理想にまい進する。それが宮崎駿の現実主義で、ちょっと拡張して表現するなら「聖なる宮崎駿」「俗としての鈴木敏夫」と一対になる。

対照的なふたりだからこそ、信頼関係もまた生まれたのではないか。「宮崎駿」「高畑勲」を発見し、日本のみならず世界に通ずると信じて次々に話題を作りだす。鈴木敏夫はプロデュース、プロモーションの天才だ。この3人の関係性が築かれたことで、世界の宮崎駿、スタジオジブリは初めて可能になったのである。

■当初は海外を意識していなかった「スタジオジブリ」

『風の谷のナウシカ』の制作後、宮崎駿のキャリアは大きな転換を迎える。1985年のスタジオジブリの設立だ。『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトを発展的に解散、これを母体に高畑勲と宮崎駿のクリエイティブを実現するスタジオを目指した。

ここで大きな役割を果たしたのが、鈴木敏夫である。スタジオジブリの設立には、鈴木敏夫の出身会社である徳間書店が出資した。そして鈴木敏夫の役割が本格的にプロデューサーに変わっていったのもこの時期である。

制作スタジオはトップクラフトを母体に引き継いだ。1972年に東映動画出身の原徹が設立したトップクラフトは、もともと北米のスタジオから制作受注を受ける海外合作に特化していた。しかしトップクラフトの流れを汲むものの、むしろ当初スタジオジブリは海外をあまり意識も、重視した形跡もない。ここでは海外受注のスタジオから国内長編映画のための転換が目指されていた。

スタジオジブリの海外評価とは裏腹に、2000年代初頭でさえスタジオが積極的に海外に向けてアクションすることは少なかったのである。

■ベルリン国際映画祭で一躍名を上げる

『魔女の宅急便』、『もののけ姫』の大ヒットもあり、90年代には国内での宮崎駿の知名度と人気は一般層にまで到達する。一般メディアでも作品の批評や分析が載るなど、評価はすでに固まりつつあった。

しかし世界における宮崎駿のキャリアの転換は、ベルリン国際映画祭だろう。『千と千尋の神隠し』が日本映画として39年ぶりに金熊賞に輝いたのだ。アニメーション映画の受賞は初だ。

写真=iStock.com/Cineberg
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世界には権威が高いとされる国際映画祭がいくつかあり、ベルリンの他にフランスのカンヌ、イタリアのヴェネチア、カナダのトロントなどが知られている。しかしその中でもベルリンとカンヌは飛びぬけた存在である。

このふたつの映画祭のコンペティションで賞を獲ることは多くの映画人の夢でもある。金熊賞はその中でグランプリにあたる。その受賞はサプライズと共に受けとめられ、宮崎駿の存在は、日本だけでなく世界でも一気に知られるようになる。

サプライズな受賞で注目度が上がり作品が広く知られるようになったベルリン国際映画祭は、宮崎駿の世界での評価の起点となった。

宮崎駿の活躍は、その後に続く日本のアニメ監督の世界進出でも大きな役割を果たした。映画祭から名を上げることで、海外で認知を上げるルートが確立され、知名度のある監督が次々に登場する。そうしたルートを開拓した宮崎駿は日本のアニメ監督の海外評価を築いた先駆者でもある。

■ディズニーとの決定的違い

宮崎駿が評価されるのはなぜなのか? 宮崎駿のこれほど高い評価は、そもそもどこから生まれているのだろうか。作品の何が国境を超えて人々の心に響くのだろう。

ひとつは物語やテーマの複雑さにある。『千と千尋の神隠し』には善悪の明確な対立は設定されず、『もののけ姫』では正義の所在も結末も曖昧だ。ディズニーなどのハリウッド作品は「良き人間であれ」といった教訓的なテーマがストレートに打ちだされる傾向がある。

しかし、宮崎駿の長編アニメは芸術性と強いエンターテイメント性を兼ね備え、観客として成人も想定している。当時の欧米ではこれが驚きだった。新しいアニメーションの発見だ。

スタジオジブリが劇場映画にこだわってきたことも評価につながっている。海外では映画監督の評価は「まず劇場映画」という風潮はいまでも強い。映画祭が重要な場所になる理由だ。日本では珍しいテレビシリーズは手がけずに長編作品にほぼ特化するスタジオジブリの形態が、宮崎駿を映画監督として評価するなかで有利にもした。

■手描きのアニメが減った時代

さらに海外の監督、プロデューサーやスタジオとのつながりもある。

長く続くジョン・ラセターや英国の老舗のコマ撮りアニメーション専門スタジオのアードマン・アニメーションズとの信頼関係。欧米のアニメーション界でイノベーターとされ深くリスペクトされる人々からの絶賛は、宮崎駿の人気と評価に大きな力を発揮した。

彼らの絶賛には、手描きによるアニメーション制作も大きな要素になっている。スタジオジブリの評価の高まりは、世界で手描きアニメーションが急激に姿を消していった時期と重なる。失われると思われた技術が、スタジオジブリでは咲き誇っていたのだ。

■アカデミー賞には出席しないワケ

世界で高い評価を受ける宮崎駿とスタジオジブリだが、ジブリ自身は長い間世界を目指していなかった。

数土直志『日本のアニメ監督はいかにして世界へ打って出たのか?』(星海社新書)

海外各国でのビジネスパートナーも、利益よりは信頼関係が第一に選ばれている。海外プロモーションもパートナー任せで、自らが作品を積極的に売り込むことはほとんどない。商品ライセンスやイベントなども、もっと大きな展開も可能だったはずだ。

『千と千尋の神隠し』も含めて3度あった米国アカデミー賞のノミネートで、宮崎駿が一度も授賞式に出席しないのはその象徴である。自分から出るのでなく、外から引っ張られ海外に広がっていく。2000年代初頭まであった他の多くの日本アニメに共通する特徴だ。

むしろ宮崎駿や高畑勲の情熱は世界の傑作アニメーションを日本に紹介することに向けられた。2001年に東京都三鷹市にオープンした三鷹の森ジブリ美術館では「ユーリー・ノルシュテイン展」「ピクサー展」「アードマン展」が企画されている。

さらに三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーでもフランスやロシア、北米の傑作を配給、上映してきた。一方で海外の作品、作家、スタジオを積極的に紹介する活動やグローバルな視点が、ジブリと海外のつながりを深め、世界に押し上げたこともまた確かだろう。

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数土 直志(すど・ただし)
ジャーナリスト
メキシコ生まれ、横浜育ち。アニメーションを中心に映像ビジネスに関する報道・研究を手掛ける。証券会社を経て2004年に情報サイト「アニメ!アニメ!」を設立。09年にはアニメビジネス情報の「アニメ!アニメ!ビズ」を立ち上げ編集長を務める。16年に「アニメ!アニメ!」を離れて独立。主な著書に『誰がこれからのアニメをつくるのか? 中国資本とネット配信が起こす静かな革命』(星海社新書)など。
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(ジャーナリスト 数土 直志)