日本にもあてはまる、新自由主義改革のもたらした経済格差の拡大、政治的な国民の分断(写真:foly/PIXTA)

グローバル化の問題点は「新しい階級闘争」を生み出した。新自由主義改革のもたらした経済格差の拡大、政治的な国民の分断、ポリティカル・コレクトネスやキャンセルカルチャーの暴走である。

アメリカの政治学者マイケル・リンド氏は、このたび邦訳された『新しい階級闘争:大都市エリートから民主主義を守る』で、各国でグローバル企業や投資家(オーバークラス)と庶民層の間で政治的影響力の差が生じてしまったことがその要因だと指摘している。

私たちはこの状況をいかに読み解くべきか。同書に収録された政治学者の施光恒氏による監訳者解説を一部編集のうえ、お届けする。

アメリカの国民統合のあり方を考察

『新しい階級闘争:大都市エリートから民主主義を守る』は、Michael Lind, The New Class War: Saving Democracy from the Metropolitan Elite(London: Atlantic Books, 2020)の邦訳である。著者のマイケル・リンド(Michael Lind)氏は1962年アメリカテキサス生まれで、現在、テキサス大学オースティン校リンドン・B・ジョンソン公共政策大学院で政治学を講じる教授である。


氏は、イェール大学で国際関係論の修士、テキサス大学のロー・スクールでJD(法務博士)の学位をそれぞれ取得している。その後、ヘリテージ財団などのシンクタンクでアメリカの政策の分析・提言活動に従事し、1991年からは『ナショナル・インタレスト』などのメジャーな雑誌で編集者や論説委員を務めた。1999年には「ニュー・アメリカ財団」(現在は「ニュー・アメリカ」)というシンクタンクを設立し、2017年からは現職である。この経歴からわかるように、リンド氏は現実政治に対する深い知識と実践的関心を有する政治学者だと言えよう。

マイケル・リンド氏の名前を知ったのは、私が長年関心を持っている「リベラル・ナショナリズム」のアメリカにおける提唱者の一人だからである。氏は、1995年に出版した『次なる米国─新しいナショナリズムと第4次米国革命』(The Next American Nation: The New Nationalism and the Fourth American Revolution (New York: Free Press)などで、多様な人種や利害の相違を超えたアメリカの国民統合のあり方についてさまざまな考察を行ってきた。

本書『新しい階級闘争』は、戦後実現した「民主的多元主義」の安定した政治が、1970年代に始まった新自由主義に基づく「上からの革命」の影響を受け、機能不全に陥った結果、今日のアメリカでは国民統合が揺らぎ、分断が深刻化していることを指摘し、また、その分断の解消をどのように図っていくべきかについて論じるものである。

リンド氏の第1の関心はアメリカ社会であるが、本書の議論は日本社会の現状を考えるうえでも大きな示唆を与える。

新自由主義が生み出した国民の分断

各章の概要を示しつつ、本書の内容を紹介したい。

リンド氏は、アメリカをはじめとする現代の欧米諸国で新しい階級闘争が生じていると考える(第1章)。前述したように1970年代から上流階級の高学歴の管理者(経営者)層(エリート層)が主導する「上からの革命」が生じ、新自由主義に基づくグローバル化推進策が徐々にとられるようになったからである。新しい階級闘争は、グローバル化推進策から利益を得る管理者(経営者)エリート層と、そこからほとんど利益を得ることのない庶民層(中間層ならびに労働者層)との間の対立である。こうした対立は、現在では、経済、政治、文化(価値)の各領域に及ぶ。

この対立は、国内における地理的な分断も生んでいる(第2章)。管理者(経営者)エリート層は、ニューヨークやロサンゼルス、あるいはロンドンやパリといった大都市に暮らす場合が多い。その結果、知識や技術、交通の結節点、つまり「ハブ」と呼ばれる大都市と、庶民層が多く暮らす「ハートランド」と称される郊外や地方という地理的分断も顕著となった。

新しい階級闘争を鎮める方策を考察するために、リンド氏は、それ以前の階級闘争の帰趨を振り返る(第3章)。かつての階級闘争は、いわゆる資本家と労働者との闘争だった。古い階級闘争は、2度の世界大戦を経験する中で、国家を仲介役とし、両陣営が妥協策を積み上げていったことが契機となり、これが戦後の福祉制度に引き継がれ、解消に向かった。リンド氏はこれを民主的多元主義(democratic pluralism)の政治と称する。労働組合をはじめ、農協などの協同組合、各種業界団体、政党の地方支部、教会(宗教団体)、ボランティア組織などのさまざまな参加型の中間団体が、国民の多様な層の声を集約し、政府がそれらを拾い上げ、相互調整し、偏りなく行っていく政治である。民主的多元主義を通じて、労働者は資本家に対し拮抗力を持つことができた。

しかし、こうした暫定協定は長続きしなかった。上からの新自由主義革命が生じたからである(第4章)。各種の妥協策が覆され、各層の利害が調整されなくなった。そして、管理者(経営者)エリート層の利益が、経済、政治、文化の各領域でもっぱら推進される不公正な社会へとアメリカをはじめとする欧米社会は変質してしまった。

それに対し、庶民層からの反発が生じている。これをリンド氏は、「下からのポピュリストの反革命」と称する(第5章)。2016年の国民投票による英国のEU離脱の決定、アメリカのトランプ前大統領の選出、2018年秋からのフランスの黄色いベスト運動、そのほかの欧州のポピュリスト政党の躍進などが表面に現れた顕著な例である。リンド氏は、庶民層に深い共感の念を抱いているが、ポピュリスト運動を必ずしも支持しない。ポピュリスト運動は、エリート層による社会の寡頭制支配やそれに伴う国民の分断という「病理」から発する「症状」の1つだとみなす。寡頭制支配を行うエリート層に対し、脅威を感じさせたり、その身勝手さに対する警告を発したりする機能は持つとしても、「病理」そのものへの根本的「治療」にはならないからである。

エリート層の認識と「対症療法」的措置

エリート層は、庶民層のポピュリスト運動が発する警告を真剣に受け取ろうとしない(第6章)。むしろ、庶民はロシアの諜報活動に踊らされているだけだといった陰謀論をつくり出してしまう。あるいは、ポピュリストの政治家や政党の支持者を、「権威主義的パーソナリティー」などの精神病理を抱える者だとエリート層は認識してしまう。ポピュリズム運動をかつてのナチズムと同様、社会不適合者による非合理な運動だとみなすのである。それによって、エリート層は、自分たちがつくり出した社会の不公正さから目を背けようとする。

現代社会の不公正さを認識するとしても、エリート層は「根治療法」ではなく、新自由主義の枠内におけるいわば「対症療法」をとろうとする(第7章)。リカレント教育(再教育)などの教育政策、ベーシックインカムなどの再分配政策、反独占政策といったものである。リンド氏は、これらを評価しない。根本的問題である権力関係の不均等を正面から見つめ、その改善を真摯に図るものではないからである。

リンド氏は、問題の解決のためには、やはり庶民層の利益や見解を代弁し、政治に反映させる拮抗力が必要だと論じる(第8章)。庶民層の声を政治に届けるには、人々が団結しなければならない。やはり労働組合などさまざまな中間団体を再生し、新しい民主的多元主義を現代においてつくり出さなければならない。

そのためには、新自由主義に基づく現在のグローバル化推進策を改める必要性を訴える(第9章)。資本の国際的移動や、外国人労働者や移民といった人の移動に対する各国政府の規制や管理を強化する必要があるというのである。そうしなければ、労働組合などの各種の中間団体が機能せず、民主的多元主義に基づく公正な政治を行うことは不可能だからである。

本書は、現代の欧米社会や日本社会を見つめ、評価するうえで大いに役立つ。日本の読者にとくに有益だと思われる3点について触れたい。

第1に指摘したいのは、グローバル化と自由民主主義の相性の悪さを明らかにしている点である。日本では「グローバル化」はまだまだ前向きで良い印象を与える言葉である。しかし、本書が論じるように、新自由主義に基づくグローバル化政策は、自由民主主義の政治の基盤を掘り崩してしまう。

この点については、さまざまな論者が明らかにしてきた。例えば、本書第9章でも触れているが、労働経済学者のダニ・ロドリックは、グローバル化に伴う資本の国際的移動の自由化・活発化が各国の経済政策に及ぼす影響について指摘した(柴山桂太・大川良文訳『グローバリゼーション・パラドクス』白水社、2013年、第9章)。

各国の一般庶民が政治の主役ではなくなってしまう

グローバル化とは一般に、ヒト、モノ、カネ(資本)、サービスの国境を越える移動が自由化・活発化することを意味するが、これが生じると、必然的に、グローバルな企業関係者や投資家(本書でいうところの管理者<経営者>エリート)の力が増す。彼らは「人件費を下げられるよう非正規労働者を雇用しやすくする改革を行え。さもなければ生産拠点をこの国から移す」「法人税を引き下げる税制改革を実行しないと貴国にはもう投資しない」などと各国政府に圧力をかけられるようになるからである。各国政府は、自国から資本が流出すること、あるいは海外からの投資が自国を忌避することを恐れ、グローバルな企業関係者や投資家の要求に敏感にならざるをえない。そのため、各国のルールや制度はグローバルな企業や投資家に有利なものへと「改革」される。だが、その半面、各国の一般庶民の声は相対的に政治に届きにくくなる。庶民層が各国政治の主役ではなくなってしまうのである。そして彼らの生活は不安定化し、貧困化が進む。

これに加え、リンド氏が本書で強調するのは、前述のとおり、民主的多元主義の基盤が掘り崩されてしまうことである。庶民層が政治に声を届けるには、各人が組織化され、各種の中間団体が形成されていなければならない。戦後の欧米諸国では(リンド氏は触れていないが後述のとおり日本も同様)、労働組合や協同組合などの各種中間団体を通じて庶民の声が政治に反映され、資本家に対する拮抗力を獲得し、比較的公平な政治が行われた。また、経済的格差も小さかった。

しかし、グローバル化により、資本の国際移転、仕事の国境を越えた外部委託(アウトソーシング)、外国人労働者や移民の大規模受け入れなどが可能になると、労働組合などはあまり機能しなくなる。政治的影響力のバランスが崩れ、不公正な政治が行われるようになる。

ネイションの境界を溶かすグローバル化の下では、自由民主主義の維持は非常に困難である。やはりネイションを軸とした秩序、つまり多数の国民国家からなる世界である必要がある。そして、各国は、民主的多元主義のシステムを内部に発展させ、国民各層の利害のバランスをとりつつ、ヒト、モノ、カネ、サービスの国境を越える移動を適切に規制・調整していく。現行の新自由主義的グローバリズムの秩序ではなく、このような民主的多元主義を可能にする国際秩序をつくり出す必要がある。

寡頭制vs. ポピュリズム

第2に、本書は現在の欧米の主流派の政治、およびそれに対する反発としてのポピュリズムの政治を見つめる新たな視角を提供する点で有益である。

日本のマスコミや評論家は、欧米の主流派マスコミの情報をもとにして世界を見ていることが大半である。それゆえ、どうしても一面的な見方に陥ってしまう。ブレグジットやトランプ前大統領の選出など現代のポピュリズムに対する見方もそうだ。ポピュリズム現象とは、グローバル化に乗り遅れた時代遅れの不適合者が騒いでいるにすぎないという見方をとりがちだ。

他方、ネット世論では逆に、その反動からかポピュリズム運動を全面的に肯定してしまう議論がしばしばみられる。トランプ氏を英雄視してしまうような議論だ。

本書は、第3の視点を提供する。現在の主流派の政治は、管理者(経営者)エリートによる寡頭制支配にほかならないと見る。庶民層の怒りは正当だとする。だが、ポピュリスト運動は組織化されていないため不安定である。持続的ではないし、建設的でもない。国民各層の意見を十分に取り込むこともできていない。

リンド氏によれば、現在の病理の改善のためには、あらためて労働組合などの中間集団をきちんと組織し、国民各層の多様な見解や利害が公正に政治に反映される社会を再生する必要がある。

3番目は、戦後日本社会を理解する有益な視点を提供するという点である。リンド氏は、民主的多元主義や新自由主義を論じる際に、日本についてほとんど触れていない。だが、リンド氏の議論は日本にも当てはまるところが多い。

「一億総中流」ののち、中間層の暮らしは不安定化

戦後の日本は、高度経済成長を経て、比較的平等かつ安定的な発展を享受した。1990年代前半までに「日本型市場経済」「日本型経営」と称される特徴的な経済の仕組みをつくり出し、「一億総中流」と称される社会を実現した。中間層が主役の「ミドルブロー」の大衆文化も栄えた。しかし、1990年代後半以降は、欧米にならった新自由主義の経済運営を取り入れ、構造改革を繰り返し、現在では中間層の暮らしは不安定化し、劣化している。

かつての戦後日本社会が安定した経済を享受できたのは、本書でいうところの民主的多元主義を日本なりに作り上げたからだと理解できる。リンド氏は、前述のとおり、欧米諸国において資本家層と労働者層の妥協が生じたきっかけは2度の世界大戦の経験だと論じる。それが第2次大戦後の福祉国家的システムにつながっていったと考える。

日本についても、このように見る論者がいる。例えば、英国の日本研究者ロナルド・ドーアである(『幻滅─外国人社会学者が見た戦後日本70年』藤原書店、2014年、144─146頁など)。あるいは批判的な視点からではあるが、野口悠紀雄氏の「1940年体制」論も同様の見方をとると言える(『1940年体制─さらば戦時経済』東洋経済新報社、1995年)。

つまり日本も、リンド氏が本書で描いたような道筋をたどったと理解することができる。第2次大戦を戦い抜くために政府が経済の統制・調整に乗り出し、資本家と労働者、および資本家相互の妥協を作り出した。この体制が戦後の社会民主主義的な「日本型市場経済」につながった。一種の民主的多元主義の形態だと言えよう。

エズラ・ヴォーゲルは『ジャパンアズナンバーワン─アメリカへの教訓』(広中和歌子・大本彰子訳、TBSブリタニカ、1979年)を著したが、このなかで描かれているのは、まさに民主的多元主義がうまく機能している日本の姿である。ヴォーゲルは、日本ではさまざまな中間団体の活動がさかんであり、アメリカよりも日本のほうが民主的であるとまで述べた。「政治に多様な利益を反映させ、それらの利益を達成する統治能力があることが民主主義の定義であるならば、日本はアメリカよりも民主主義がずっと効果的に実現されている国家であるといえよう」(122頁)。

ヴォーゲルは、当時の戦後日本社会では、政府が、多様な中間団体の利益に配慮し、資本家と労働者、さまざまな業界間、大都市と地方、地域間を巧みに調整していると指摘した。「利益の分配の側面から見ると、日本ではフェア・シェア(公正な分配)がなされているといえる」(同頁)。リンド氏のいうところの民主的多元主義の一形態が日本で根付き、欧米諸国に比べても安定的に機能し、「一億総中流」と称された社会をつくり出したのである。

ヴォーゲルは、日本の民主主義が壊れるとしたら、その要因となるのは「軍国主義の脅威」などではなく「集団の団結力の拡散」だと指摘し、警鐘を鳴らしていた(156頁)。中間団体を作る機能が損なわれ、国民がばらばらになってしまい、各層の利益が公正に反映されなくなることを恐れたのである。

ヴォーゲルの懸念は1990年代後半以降、的中した。日本の場合は、「上からの新自由主義革命」が国内で生じたというよりも、ドーアなども指摘するとおり、アメリカなど欧米諸国の新自由主義化に無批判に追従したことが主な要因だと言えよう。ヴォーゲルが称賛した日本型民主的多元主義の道を捨て、「グローバル標準」を旗印とし、新自由主義的構造改革を推し進めた。

本来なら左派やリベラル派は、新自由主義化に対抗する中心的勢力になるべきであったが、日本ではそうはならなかった。いくつかの要因が指摘できるだろうが、「1940年体制」論の影響もその1つである。民主的多元主義の日本版だともいえる「日本型市場経済」は、戦時経済の名残であり否定すべきものだ、集団主義的で遅れたものだという議論が高まった。こうした議論に影響され、左派やリベラル派でさえ新自由主義的改革を肯定的に受け取ってしまった。

リンド氏が本書で指摘しているのは、欧米諸国で戦後、国民福祉と安定した経済成長を可能にしたのは日本と同様、戦争の経験に端を発する、民主的多元主義と称すべき政府主導の調整型の社会システムだということだ。つまり、「1940年体制」は日本だけではなかったのである。またリンド氏は、庶民各層の声を政治に十分に反映させる公正な社会の実現には、こうした社会システムの構築しかありえないと論じている。

これらは、現代の日本にとって、新自由主義以前の「日本型市場経済」や「日本型経営」といったかつての調整型の社会システムの再評価を迫るものだと言えるであろう。

民主的多元主義の可能性

以上のように、本書は、新自由主義的政策の進展に伴い、管理者(経営者)エリート層と庶民層との間の力のバランスが崩れ、経済、政治、文化の各局面で諸種の不公正な事態が生じていることを明らかにする。現状に対する解決策として本書が期待するのは、現代の文脈における民主的多元主義の政治の再生である。そして、これを可能ならしめるために、現行の新自由主義に基づくグローバル化推進路線の転換が必要だと本書は論じる。

もちろん、これまでの路線を改め、現在の複雑な状況のなかで、民主的多元主義の政治を再構築することは多大な困難を伴う。しかし、各国において国民各層の声を公正に反映する政治を可能にするほかの方法がありうるだろうか。本書はこのように問いかける。新自由主義的な改革に明け暮れてきた欧米諸国や日本に新しい視点を与え、自由民主主義の意味や条件を考えさせる貴重な1冊だと言える。

(施 光恒 : 政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授)