SNSを使い続けていると、生きづらく感じるのはどうしてなのか。『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)を上梓した評論家の宇野常寛さんは「SNSが抱えている問題を考えたとき、映画『アラビアのロレンス』にヒントを得た。母国を飛び出した主人公の抱える問題は、インターネット社会と同根を有しているからだ」という。著書の狙いを、ニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんが聞いた――。
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■なぜ今、「アラビアのロレンス」なのか

【吉田】『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)を面白く読ませていただきました。批評の本なのに、思わぬギミックが仕掛けてあって驚きました。ネタバレになるから説明は省きますけど、ころっと騙(だま)された感じで。

【宇野】みなさん、けっこう騙されたみたいです(笑)。

宇野常寛『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)

【吉田】『砂漠と異人たち』は4部構成になっていますね。第1部では、コロナ・ショックによってインフォデミックが起こり、SNSがつくり出す相互評価のゲームに人々を閉じ込めたこと、そのゲームで人間は考える力を失ったことなどが語られる。

第2部では、映画『アラビアのロレンス』で知られるトーマス・エドワード・ロレンス(1888〜1935年)の人生が描かれる。相互評価のゲームの外側へ出ることは、現在の生活や世界に退屈したロレンスが砂漠へ赴くことに通じるからですね。宇野さんがいう「アラビアのロレンス問題」です。

そして第3部では、村上春樹と彼の作品について語られる。とくに『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)に描かれた「壁抜け」が問題とされますね。登場人物が井戸の底で石の壁を通り抜け、別の人物の記憶を通じてノモンハン事件が起きた頃の満州にいる。井戸の外部に出るだけでなく、時空を超えるわけです。

■社会の〈外部〉を求めて国を飛び出したロレンス

【吉田】第4部では、戦後最大の思想家といわれた吉本隆明(1924〜2012年)の自己幻想、対幻想、共同幻想という3つの幻想を手がかりに、SNSの相互評価のゲーム、ロレンス問題、村上春樹問題を解き明かしていく。しかも吉本隆明が『共同幻想論』を書いた1960年代との違いを示して、現在の問題にどう取り組めばいいかのヒントを与えている。ミステリーを読むような興奮がありました。

【宇野】いちばん書きたかったのは、ロレンスのことです。僕は高校生の頃に映画で彼に興味をもって、関連する本を読むうちに次第に、この人は〈外部〉を求めてしまう近代人の代表で、それもいちばん徹底してそれを実践した人だと思ったんです。そして、徹底して実践したがゆえに完全に挫折してしまい、ちょっとびっくりするような後半生を送っている。ロレンスを通して人間が〈外部〉を求めることについて考える本を書きたかったんです。

【吉田】ロレンスは学生時代から考古学者の卵として遺跡調査に出かけ、第1次大戦中は軍属としてオスマン帝国からの独立をめざすアラブ反乱(1916〜1918年)の扇動と指導にあたる。彼が砂漠へ向かったのは、近代社会の〈外部〉を求めたということですね。

■ロレンス問題とネットワーク社会は同根を有している

【宇野】僕は『母性のディストピア』(集英社、2017年)を書き終えた頃から、ロレンスと〈外部〉について書くことを具体的に考えはじめました。それは2016年の問題、ブレグジットとトランプという2つの現象があったからですね。これはインターネットが無限の〈外部〉を生み出すものではなくなった、むしろ〈外部〉を消失させてしまったことの象徴だと感じました。

インターネットはもともとは資本主義の外側へ脱出を試みたヒッピーの遺伝子が、シリコンバレーで隔世遺伝して出現した側面があるのだけれど、それが資本主義と悪魔合体して市場を牽引することで、逆に世界を閉じた場所にしてしまった。性急に〈外部〉を求めた結果、かえって世界から〈外部〉を消失させてしまったわけです。

【吉田】皮肉な展開ですね。

【宇野】そういうシリコンバレー的な問題とロレンスの問題はどこかでつながっていると思えたんです。さらにコロナ・ショックで、人間が情報ネットワークに、とくにSNSがつくり出す相互評価のゲームに閉じ込められた。

【吉田】相互評価のネットワークから〈外部〉へ出るにはどうすればいいかと。

■「オンラインイベント症候群」で馬鹿になっていく

【宇野】いま、いちばん簡単に承認を獲得する方法は、集団リンチに遭っている誰かを見つけてその人に自分も石を投げると、敵の敵は味方だという論理で一定数の人から承認される。どこかにダメな奴がいて、そいつを叩くと安全に気持ちよくなれるし、「まとも」な側として認められることを経験的にみんな覚えてしまっているわけです。

この影響は言論ジャーナリズムにも影響していて、成り上がりたい若い者から、いい歳をして鳴かず飛ばずの書き手まで、そうやってアテンションを集めるのが生き残り策になってしまっているし、大手のメディアから独立系のプラットフォームまで、基本的に敵をつくって欠席裁判をしてコメント欄の観客と一緒に盛り上がるいじめショーで食べているわけです。

僕は「オンラインイベント症候群」と呼んでいますが、これをやっているとどんどん話者も観客も、場の空気を読んで叩きやすい人に石を投げる嗅覚以外は使わなくなっていくのでどんどん馬鹿になっていくし、自浄作用が働かないのでデマやハラスメントの温床になってしまう。

その場にいない人間の悪口をいうことでメンバーシップを固め、観客を囲い込むようなビジネスの限界ですね。

■否定ではなく肯定、怒りよりも笑いで問題提起したい

【宇野】じゃあ、自分がどうするかというと、そういうゲームに加担しないのは前提として「語り口」を変えたいと思いました。眉間にシワを寄せて正しさを語る気持ちよさとは、別の感情に訴えてものを考えてもらう回路をつくらないとダメなんじゃないかと思ったんです。

この『砂漠と異人たち』もそうで、書籍というアナクロなメディアで、まとまった分量を半ば強制的に読んでもらえるからこそできるアプローチを試してみたかったんですね。それであの……ネタバレになるとつまらないから言わないですが、仕掛けのある構成を試してみたんです。

【吉田】宇野さんは、脚本家の井上敏樹さんに、語り口についてアドバイスを受けたと言っていましたね。あの話につながっているのかな、と想像しました。

【宇野】……めっちゃするどい。実はいちばん最初に書いたのは、ロレンスを描いた第2部なんです。井上敏樹さんから昔、「自分で読み返したくなる凝った部分を最初に1個書け」と教わりました。そこができたら最後まで書ける、とくに大きな仕事には必要だって。

【吉田】なるほど。第2部「アラビアのロレンス問題」がその凝った部分なんですね。

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■“語り口しかない日本”の代表例だった「いいとも」

【宇野】僕はあの語り口で態度表明がしたかったんです。人間って、ある対象への距離感や進入角度が大切じゃないですか。しかし最近のSNSを見ると、イエスかノーか、肯定か否定か、とわかりやすい態度が真摯(しんし)だとされている。僕はきちんとダメなものはダメだというのは大事だと思うけれど、その語り口はもっと多様化していないと息苦しいと思うんです。だから自分が書く1冊の本で、真摯に笑えないテーマについて書くのだけれど、笑ってもいいんだよという態度を示したかった。そこからスタートしたんです。

【吉田】あの語り口は、距離感や進入角度の表れなんですね。

【宇野】逆に日本社会では、ある時期から「語り口」だけが肥大化しすぎてしまっていて、その弊害もあると思うんです。例えば80年代のテレビシーンの一部がそうで、僕は人生でこれが一回も面白いと思ったことがないのだけれど「笑っていいとも!」(フジテレビ系)の人気コーナーだった「テレフォンショッキング」なんかそうですよね。

■「語り口」が「意味」よりも力をもつ罠

【宇野】タモリは語り口ですべてを表現する達人なのだと思うけれど、僕があの番組を肯定できないのは、メンバーシップの確認になっていたからです。要するにあれって、「昼休みに芸能人の雑談を毎日見ていると、自分も芸能ムラの友達の輪の中にいる」と錯覚できる楽しさをタモリの語り口で実現していたのだと思うんですね。

ただ、僕はああいうものの傲慢さとか、内輪受けのサムさを感じる人が増え始めた世代の走りで、タモリの技術は優れているなと今でも思うけれど、ああいう80年代、90年代的な「テレビっぽいノリ」はちょっとサムすぎて見られないわけです。

「語り口」のほうが「意味」よりも力をもつこの罠は確実にある。だからこそ、僕は「意味」を活かすための「語り口」の多様性をしっかり担保したいと思うんです。

■外部を求めたロレンス、内部で自己確認する村上春樹

【吉田】『砂漠と異人たち』の第3部では、村上春樹にスポットを当てています。80年代から2000年代にかけて、最強の発言権を持った人間の一人が村上春樹だと思うんですね。“反論できなさそうな人ナンバーワン”みたいな感じでした。ロレンス問題は、その村上春樹にもつながるわけですね。

【宇野】要するに、ロレンスが〈外部〉幻想の代表なら、村上春樹は〈外部〉の断念の代表です。ロレンスは〈外部〉に接続して歴史の当事者になろうとして、実際になってしまった。しかしそのことで逆に自分を縛り付けてしまった。

村上春樹はロレンスとは違うかたちで歴史にアプローチする。いわゆる「壁抜け」ですね。歴史を物語としてではなくデータベースとして自由にアクセスする。それが日本軍だろうが、中国軍だろうが、ソビエト軍だろうが人倫に反することを行う存在は「悪」であると。これは要するにイデオロギーに依存しない歴史への、それも倫理的なアクセス方法です。

しかし、たいていこういうふうに文脈を切り離して、切り抜き動画みたいに歴史にアクセスすると、人間は弱いから都合のいいところだけつまんで見てしまう。これが陰謀論の温床になる。オウム真理教なんか、まさにそうだった。だから村上春樹は「強い」主体になろうとするのだけど、それがよりにもよって、女性搾取的な回路を用いた男性的なナルシシズムの確認による自己の強化だったわけです。

【宇野】村上作品にはある種の霊感を備えた女性が登場し、主人公の男性を無条件に肯定して、時にその身体を差し出すなどして異界に触れる力を付与する。言ってみれば、いま情報産業が提供しているサービスによって、ユーザーが得ている全能感に近いものを性的な回路で与えている。

■〈外部〉への憧れ→自己形成→精神に純化した存在へ

【宇野】僕はいまさらフェミニズムの立場から村上春樹を糾弾する気は全然なくて、むしろ村上春樹の自己の強化を行って、歴史にアクセスしてもイデオロギーや陰謀論に流されないようにしよう、という考え方に問題があったと思うんですよね。

【吉田】ロレンス問題とはどう関連するのでしょうか。

【宇野】ロレンスと村上春樹は段階論なんですよ。前期ロレンスは、無邪気に〈外部〉を信じて、自分は歴史の当事者になれると考えた。村上春樹の段階になると〈外部〉で歴史の当事者になることは断念している。代わりに、女性搾取で男性ナルシシズムを強化して、吉本隆明風にいうと、1対1の関係で生まれる「対幻想」に依存した自己形成で、イデオロギーに依存しないように強くなろうとする。

村上春樹の段階から一歩進んだのが後期ロレンスのアプローチです。性搾取で男性性を強化するために誰かを所有することはない。そういう意義は突破し、自分の身体を滅却して精神に純化した存在になろうとしたのが晩年のロレンスですね。若者に鞭打ちを頼んでマゾヒズムを追求したり、スピード狂になってオートバイやモーターボートを乗り回すようになる。そして46歳の時にオートバイ事故で死ぬ。

■なぜランニングを続けると「スピード狂」になるのか

【吉田】身体については、第4部で走る、ランニングというモチーフが出てきますね。

【宇野】これも段階論ですね。まず誰かを蹴落とすのが楽しい、相互評価のゲームとしてのオリンピック的な競技スポーツがある、その次に自己を確認するための筋トレなどに勤しんだり、タイムに拘泥する村上春樹のランのような〈なりたい私になるため〉のナルシシズムスポーツがあり、最後に運動そのものを目的とするライフスタイルスポーツがある。ロレンスのスピード狂は、ライフスタイルスポーツの先鋭化しすぎたかたちで、ではロレンスとは違うかたちで「走る」とはなんだろうか、というのを考えたのが4部です。

写真=iStock.com/choochart choochaikupt
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【吉田】ナルシシズムとSNSの問題はどうつながるのでしょうか。

【宇野】この「走る」というのはもちろん比喩だし、本文にもそう書いてあるのだけど、そういうのを全部無視して、宇野は身体回帰してけしからんと書いている人がいた。この人を安直だな、と言うのは簡単なのですが、僕はSNSのプラットフォームがそれくらい人間をバカにしてしまっていると思うんです。

吉本隆明は人間が社会をとらえるときの要素を「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の3つに区分しましたけれど、それってSNSそのものなんですよ。「自己幻想」はプロフィール、「対幻想」はメッセンジャー、「共同幻想」はタイムラインに相当しているわけです。

【吉田】なるほど。

■SNSは器官のひとつ、社会的身体機能でもある

【宇野】これってどういうことかというと、SNSのプラットフォーム上の社会的な身体は、この三幻想を追求する3つの器官しか持たないってことなんです。言い換えれば、それは承認の交換しかできない身体です。例えば僕と乙武洋匡さんの身体はかなり違うけれど、FacebookやTwitterのアカウントの機能は同じです。要するに、SNSは承認の交換しかできないゾンビみたいな社会的な身体に世界人類を画一化しているわけです。

SNSは人間を承認の交換の器官だけにすることで、吉本隆明の言う〈関係の絶対性〉に完全に閉じ込めてしまう。人間は承認を交換してナルシシズムを確認するためだけの生物になってしまう。SNSは器官の問題、社会的身体機能の問題として捉えることができるんですね。

【吉田】ナルシストたちは、SNSだけがあればいいんだ。

【宇野】ナルシストのSNSは分かりやすいじゃないですか。写真の選び方、プロフィールの書き方、投稿の内容はだいたい同じだし、「こういうコメントをつけるとすごくよろこぶ」って分かるでしょ。

■承認欲求の中毒になると、人間は不幸になる

【宇野】ナルシシズムはそれ自体が悪ではなくて、人間が生きていくうえで自己確認は必要なものです。極悪なものとして糾弾する必要はないと思うのだけれど、情報技術に支援されて承認の交換があまりにも簡単にできるようになり、その快楽の中毒になることが、人間を幸福にするとは思えないということですね。

【宇野】たまに皇居周辺を走ると、ガチ勢の村上春樹っぽいおじさんたちがたくさんいて、やっぱり僕とは違うなあ、と思うんですよね。もちろん、いろんな走り方があっていいのだけど、僕はもうちょっと走ること自体を楽しみたい。

ロレンスがハマったのはオートバイを駆る身体拡張の快楽で、村上春樹のそれは男性的な自己確認のためのランニングだと思います。ただ、僕が好きなのは、単に走る快楽そのものの追求で、もっといえば走ることでその土地を味わっている。この3段階は、『砂漠と異人たち』の構成を考えているときに意識しました。要は、1人で物事に向き合うってことなんです。

■だから「遅いインターネット」という選択肢を提示したい

【吉田】それができない人たちがいっぱいいるから、丁寧にガイドしてあげてもよかったようにも思いますね。

【宇野】それは教えられても意味はないですよ。自分なりの距離感と進入角度を見つけるのが大事だって話なんですから。もし、これ以上踏みこむならそれは主体論ではなく、環境論でやりたいですね。いま『群像』(講談社)で連載している「庭の話」は、ではどうすれば僕たちが「遅く」走ることのできる環境、つまり「庭」ができるのか、ということを考えています。これは完全に『遅いインターネット』(NewsPicks Book)の続編で、今度はサイバースペースだけではなく、実空間、とりわけコモンズの話をしています。

「遅く走る」ような主体を僕はこの本で提唱しているわけですが、「遅いインターネット」とその延長にある「庭」という環境のモデルも一緒に提示することが僕の役割だと思っています。

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宇野 常寛(うの・つねひろ)
評論家、『PLANETS』編集長
1978年生まれ。著書に『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』、近著に『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)などがある。立教大学兼任講師。
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吉田 尚記(よしだ・ひさのり)
ニッポン放送アナウンサー
1975年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。2012年に第49回ギャラクシー賞DJパーソナリティ賞受賞。「マンガ大賞」発起人。著書に『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(太田出版)、『あなたの不安を解消する方法がここに書いてあります。』(河出書房新社)など。
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(評論家、『PLANETS』編集長 宇野 常寛、ニッポン放送アナウンサー 吉田 尚記 構成=伊田欣司)