思いがけない出向人事でも、行った先でどうふるまうかが大事(写真:8x10/PIXTA)

長井誠さんが民芸研究の道に進んだのは50歳を過ぎてから。きっかけは、保険会社の法人営業の部長職から大阪日本民芸館への出向だという。大半の人が気落ちするような出向人事を受けて、どのようにして新しい道を切り開いたのか。
長年、中高年の会社員や定年後に活躍している人たちを取材し続けてきた楠木新氏は、「これまでの取材経験から、50歳以降になって全く経験したことがない異動を契機に新たな自分に出会えるケースが少なくない。中高年になっても諦めないことが大切だ」と言います。その楠木氏が、会社べったりでも、独立・起業でもない、第3の道として「二つの本業」を成功させるヒントを、長井さんに聞いた。

「異動先を聞いて驚きました」


楠木新(以下、楠木):長井さんは生命保険会社の営業の仕事から大阪日本民芸館に異動となったわけですけども、それまではどのような仕事をしていたのですか?

長井誠(以下、長井):直前は、京都支社で法人職域部長を務めていました。いわゆる法人の顧客に対して保険や年金などの営業です。長く経験したので仕事は手の内に入っているし、私自身も好きな仕事でした。企業回りも楽しくて、おかげさまで実績もまずまずでした。

楠木:法人営業の部長職から大阪日本民芸館への出向と言えば、一般的には「左遷人事」と受け取る人も多いでしょう。やはりショックでしたか?

長井:もちろん、異動先を聞いて驚きました。大阪日本民芸館という名前もまったく知らず、そもそも民芸の何たるかもわからず、初代館長の名前も知らないという状態でしたから。

ただ私は、その前にも不動産会社に出向していたことがあって、その間に不動産鑑定士の試験に受かるなど、自分にとって初めての出向は居心地が良かったのです。そのため、大阪日本民芸館への出向も大きく気落ちすることはありませんでした。振り返ると、「15年も営業をやってきたから、そろそろ新しい展開もあっていいかな」という時期だったと思います。

楠木:この時、51歳ですよね。本社で上の役職に上がっていきたいという気持ちはなかったのですか?

長井:本社での出世には、それほどこだわってはいませんでした。むしろ、心残りは不動産鑑定士でしたね。試験には受かっていましたが、実務実習ができなかったために、まだ資格が取れていませんでした。そのため出向するなら不動産関連の会社へ行きたいという気持ちはありました。

楠木:そうですか。法人営業に長年携わってきた長井さんを、「芸術の適性があることを見抜いて大阪日本民芸館に行かせた」ということはないのでしょうね。

長井:それまでは芸術の「げ」の字もなかったですからね。芸術面に興味を持ったのは、学芸員の資格を取るために大学に入学して、そこでいい先生に出会ってからですね。

「大学の費用は全部自腹でした」

楠木:民芸館で学芸員の資格を取るために勉強を始めたということですが、普通は民芸館の運営の責任者でしょう? 資格まで必要なのですか?

長井:民芸館での仕事は現場のマネジメントなのですが、理事長から、「せっかくここに来たんだから、学芸員の資格を取ったらどうだね」と勧められて、「そういうものかな」と勉強を始めました。ただ学芸員の資格を取るためには、美術系の大学に行く必要があるので、通信制の京都芸術大学に入学しました。上司に言われて始めたことなので、「少しは費用を出してくれるのかな」と思っていたら、全部自腹でした(笑)。

楠木:長井さんの前任者は、学芸員の資格を取得していたのですか?

長井:前任者は取得していませんでした。

楠木:まずは、通信教育で必要な項目を受講したわけですね。

長井:ええ。入学したのは芸術学部の歴史遺産コースでした。学芸員の資格を取るためには芸術学とか、博物館の運営に関する単位など15科目ぐらい履修しないといけません。平日に勉強し、土日に試験を受けたりして、なかなか大変でした。

幸い私の指導教官は中村利則先生という、茶室や数寄屋建築研究の第一人者と言われた方でした。最近亡くなられたのですが、本当に丁寧に指導していただきました。

楠木:学芸員の資格はどれぐらいで取れましたか。

長井:本当は2年あれば一通り単位を取れるはずだったんですが、勉強しているうちにいろいろな芸術分野に興味が湧いてきて、資格に必要な単位の2倍ぐらい選択してしまい、結局、丸4年かかりました。レポートをどんどん出して、成績は中の上くらいでしょうか。卒業論文も書きました。

楠木:何がそこまで面白いと思ったのですか? 仕事と関係あることなので、やる気になったということでしょうか?

長井:そうですね。仕事との相乗効果はありました。例えば、展示に関係する科目の試験では「自分で企画を作ってみなさい」という課題もあって、大学の学びが仕事で役立ったこともありました。とはいえ、民芸館には学芸員たちがいたので、私はおとなしくマネジメントをしていましたが。

楠木:資格をとってからも、勉強を続けたのですね。

長井:4年間学ぶと勢いがついて、大学を卒業してすぐに修士課程に申し込みました。修士課程も通信制があって、2年かけて修士論文を書いて、修士号を取りました。

楠木:修士号を取得したのは何歳の時ですか?

長井:58歳の時です。

楠木:そろそろ定年も間近な時期ですね。長く民芸館にいて、「本社に戻りたい」とか考えませんでしたか?

長井:実際には、民芸館での仕事が楽しくなって、先のことはあまり考えずに仕事していました。新しい試みを取り込んだり、経営面の課題もあって非常に忙しかったのです。

民芸館ではスタッフとの人間関係も良かったと思います。学芸員もそうですが、売店のスタッフとも仲良くやっていました。60歳の定年退職日には、スタッフが全員集まってくれて感謝状をもらいました。思わず涙が出てきて、「ここに来て良かったな」と思いました。

楠木:60歳以降の雇用延長は考えなかったのですか。

長井:雇用延長するつもりはまったくありませんでした。ただ不動産鑑定士の資格がそのままになっていたことが気になっていて、人事部に「不動産鑑定士の実務経験ができるところなら希望したい」と話したのですが、「そういう職場はありません」と言われました。60歳で定年退職して、その後三友システムアプレイザルという不動産鑑定会社でアルバイトを始め、実務経験を積むことにしました。それと同時に、民芸研究のために大学の博士課程に入りました。

「63歳の時に博士号を取りました」

楠木:新しい会社でアルバイトをしつつ不動産鑑定士の実務修習をして、さらに大学で勉強も続けたのですね。

長井:博士課程は民芸館時代の最後の年に申し込み、南山大学に移られた民芸運動の研究者、濱田琢司(はまだたくじ)先生を追いかけて大阪から名古屋に通いました。通学が大変で、名古屋まで新幹線で行って、そこから地下鉄で1時間もかかりました。お金もかかりますし、不動産鑑定の仕事はアルバイトだから収入はそれほどありません。退職金が目減りするので、妻には睨まれましたね。

楠木:博士号の取得までには、どれくらいの期間かかったのですか?

長井:63歳の時に博士号を取りました。私の場合、ずっと民芸運動の創始者である柳宗悦(やなぎむねよし)が研究対象でした。博士論文のテーマは修士の時に思いついたもので、当時、柳宗悦の4700通の書簡に全部当たりましたが、そのとき「彼は経営者としても超一流だったのではないか」と気がつき、これをテーマにしました。

楠木:その後に『経営者 柳宗悦』(水声社)という著書も出されてますね。4700通もの書簡って、ホンマに全部読んだのですか?

長井:ホンマに読みました(笑)。

楠木:はじめは上司に言われて始めた勉強だったものが、やってみたら面白くなったわけですね?

長井:柳宗悦と民芸にはまりました。民芸は普段使いの器に美を見出すもので、それは今まで自分にない感覚で、大きな喜びを感じることができました。柳宗悦の考え方、思想、佇まいにしびれましたね。楠木さんが新著『自分が喜ぶように、働けばいい。』で書かれていた「山本リンダ状態(「どうにもとまらない」)」というやつですよ。

「研究を進めて論文発表をしていきたい」

楠木:会社員の異動というと、みんな「出世にどう影響するか」を計算しがちです。でも、行った先でどのようにふるまうかが大事なのですね。

長井:私の場合、1回目の出向で不動産鑑定士の試験に合格したことも、今につながっています。退職後に不動産鑑定士の資格を64歳で取りまして、今は週に4日、不動産鑑定士の仕事をしています。こちらもおもしろいですよ。

それと去年から京都芸術大学大学院で非常勤講師もやっています。通信制の大学で、レポートの添削が中心ですが、いろいろな分野の芸術に触れることができて、非常に刺激的です。民芸研究では今後は「柳宗悦と博覧会」というテーマで研究を進めて、論文発表や情報発信をしていきたいと考えています。

楠木:65歳を越えて、「これをやります」と宣言している人はあまりいないと思います。すばらしいですね。本日は、ありがとうございました。

(構成:久保田正志)

(楠木 新 : 人事コンサルタント)