韓国ではどの世代にも「詩」が愛されているそうです(写真:PanKR/PIXTA)

これまでに何度もブームを巻き起こしている韓国ドラマ/映画、そして世界を席捲するBTSをはじめとするK-POPまで、韓国が発信するエンタメやカルチャーはすっかり日本人にもなじみ深いものとなっている。
では、もうひとつのカルチャーの中心である「出版」はどうだろうか。2018年末に日本でも翻訳版が刊行され異例の大ベストセラーとなった『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)など、K文学(K小説)のブームは記憶に新しいが、じつはもうひとつ「韓国といえば…」の表現形態がある。それは「詩」である。
日本では「詩」あるいは「詩集」と言われて、とっさにいくつ思い浮かべることができるだろうか。このたび邦訳版が発売された『愛しなさい、一度も傷ついたことがないかのように』は、人口が日本の約半数の韓国で60万部を突破し、2005年の原書刊行より20年近くにわたって「もっとも売れた詩集」として韓国出版界の歴史に名を残す本である。
韓国ではどの世代にも「詩」が愛されているという。その背景を、韓国語学が専門の辻野裕紀氏に解説してもらった。

芸能界でも続々とファンを生んでいる


先月、韓国の詩集『愛しなさい、一度も傷ついたことがないかのように』(リュ・シファ編、オレドゥウェンミレ刊)の日本語訳(オ・ヨンア訳)が東洋経済新報社より刊行された。原著は2005年に上梓され、15年以上に亙(わた)って、韓国で多くの人々に賞翫(しょうがん)されてきた珠玉の詩集である。BTSのRMやVが読んだことでも話題となり、IU、コン・ユ、カン・ハヌルなど、芸能界にも愛読者が多いという。

本書は、韓国の名詩を集めたものではない。〈癒やし〉と〈気づき〉を底流に据えた古今東西の詩を精選したコンピレーションである。この点において、本書は、韓国文学の日常的読者はもとより、そうでない方々にも広く開かれた、詩の世界一般への門扉と言ってよい。

世界中の名詩が集結

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ラビンドラナート・タゴール、ヘルマン・ヘッセ、オクタビオ・パス、ヴィスワヴァ・シンボルスカ、メアリー・オリバーなど、その名を聞くだけで血沸き肉躍るような有名詩人の佳品から、寡聞にして初見の言詞、さらにはネイティブ・アメリカンの祈祷、作者未詳の詩まで、種々の詩群を収める。石川啄木や吉野弘、イ・ムンジェやリュ・シファなど、日本や韓国の詩人の作品も掲載しており、都合77篇の詩からなっている。

編者は、瞑想などの精神世界をも知悉(ちしつ)する詩人として著聞(ちょぶん)したリュ・シファである。慶熙(キョンヒ)大学校国語国文学科に学び、1980年、『韓国日報』新春文藝詩部門に当選、1980年から1982年にかけて『詩運動』の同人としてあまたの詩を紡いだが、その後、10年近く創作活動を中断、南アジアの国々を跋渉(ばっしょう)しつつ、瞑想関連書籍の翻訳に注力した、類稀(たぐいまれ)なる経歴の文筆家である。そして、1991年には初の詩集『君がそばにいても私は君が恋しい』を発表、爾来(じらい)、卓絶した詩集や散文集、翻訳書を世に問うている。アメリカ、インド、韓国のあいだを移動しながら展開されるリュ・シファの執筆活動には、常に渉覧(しょうらん)と思索の軌跡が触知される。

特に本書は、人生に煩悶(はんもん)する読者に対して、〈癒やし=ヒーリング〉をもたらすような詩を選択的に差し出し、「本当の人生とは何か」「真実とは何か」を反復的に思念させる。多少なりともリュ・シファの著作群と戯れてきた筆者(辻野)としては、リュ・シファらしい撰詩に首肯しつつ、そこから浮かび上がる幽邃(ゆうすい)なる風景に深く感じ入ることとなった。さらに、詩の声に心耳を澄ませ、一篇一篇を齝(にれか)むことで、結ぼれた心が解け、いささか疲弊気味の筆者自身もおもむろに平癒されていくような気がした。

いずれの詩も、決して晦渋(かいじゅう)ではないが、含蓄の深い、滋味掬(きく)すべきものである。衒学(げんがく)性とは対極にある、真率にして至純な作品ばかりで、屈託に満ちた気鬱な心の深部にも沁み渡っていく。もちろん、詩語自体は平明であっても、瞥読(べつどく)してすべてが理解できるわけではなく、一般抽象性と不確定性の高さをその特徴とする詩というジャンルであってみればこそ、読み手の個人史や言語感覚にも照らしつつ、繰り返し読み、熟思する姿勢が要求される。

ことばには〈お守りのことば〉と〈呪いのことば〉がある。そして、〈お守りのことば〉をひとつでも多く心に秘めていれば、人は必ずやタフになれる。筆者はかねてからそう信じてきた。本書には、そうした〈お守り〉となるような、背誦(はいしょう)に価する作品が豊富に収録されており、その詞華群は、もしも向後、言語に絶するような苛烈な事態に際会し、激越な感情に襲われたとき、きっと我々を優しく慰藉(いしゃ)し、力強く援護してくれるにちがいない。

傷ついた心を癒やす詩の力

なぜ詩を読むのか――かかる問いは夙昔(しゅくせき)から頻回に問われてきたが、本書を読むと、そのひとつの解が仄見(ほのみ)えてくる。詩人の荒川洋治は「文学は実学」だと道破し、「この世をふかく、ゆたかに生きたい」という願望を叶えてくれるところに、文学の職能を見出したが(『文学は実学である』、みすず書房)、本書が暗示する答えもそれとやや相通ずる部分がある。

人間が本態的に抱える悲哀(パトス)や、不可避的に逢着する不条理、生きる意欲が払底するような煉獄(れんごく)的状況。詩人は、こうした個人的受苦を言語(ロゴス)によって普遍的なものへと昇華させ、読者を現実から真実の領域へと嚮導(きょうどう)してくれる。リュ・シファの言辞を借りれば、詩とは、魂を世界とつなぐ「魂の糧」である。

詩を読むとは、物心両面で恵まれた者の思弁的遊戯ではなく、傷ついた心を恢復(かいふく)させ、廉潔なる魂を守るための、極めて実存的な営為だと断じてよい。詩の力によって、精神の創傷はやがて痂皮化(かひか)し、落屑(らくせつ)していくだろう。詩の読解には、瞑想における調心と似た効能があるようにも思われる。同時に、詩を書くことも、自助的な療治として機能しうる。

駅のホームドアにも、プレゼントにも

人間は不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体である。ゆえに、他者とのつながりを欲望する。これを、ジョルジュ・バタイユは名著『エロティシズム』の中で〈失われた連続性へのノスタルジー〉と称呼した。しかしながら、我々は決して独存しているわけではない。よしんば形影相弔う身であっても、おのおのの魂はより大きな世界に包摂されており、詩人は詩を通して、そうした「人生の秘密」の露頭を見せてくれる。すなわち、詩人とは、現実と真実との界面に佇立(ちょりつ)し、魂の声に形を与える人たちのことである。そして、やや大仰な言い方をすれば、我々は真なる詩に触れることで、ある種の疑似的なヌミノーゼ(ルドルフ・オットー)を体験しうるのではないか。本書を繙読(はんどく)しながら、筆者は終始そんなことを沈思していた。(編集部注:ヌミノーゼ=聖なるものを畏敬すること)

こうした詩集が韓国で長きに亙って愛誦されているのは、韓国社会を考察するうえでも興味深い。「韓国人」は詩が好きな民族であるとよく言われる。書店には必ず詩集のコーナーがあり、詩集を専一的に扱う書肆(しょし)もある。駅のホームドアには詩が書いてあって、詩を眺めながら地下鉄が来るのを待つ。プレゼントとして詩集を進呈することも珍しくなく、陋巷(ろうこう)の喧囂(けんごう)や熱鬧(ねっとう)からは想像もつかぬほど、詩が身近なものとして生活の中に深く根を下ろしている。老若男女が詩集を舒巻(じょかん)する姿は韓国の日常的な光景であり、自ら詩作に淫する者も寡少ではない。

詩人の文月悠光(ふづき・ゆみ)は、「生きてる詩人っているんですね!」と言われたときのエピソードを開陳し、「多くの人々にとって、「詩人」はもの珍しい異端者だ」(『洗礼ダイアリー』、ポプラ社)と述べているが、これは日本における詩人への一般的認識の剴切(がいせつ)なる指摘である。ややもすると「ポエマー」などと嗤笑(ししょう)されてしまう日本と、敬意と憧憬(しょうけい)がさまざまな場面で感ぜられる韓国とでは、詩人に対する態度が対蹠(たいせき)的である。なお、日本には短歌や俳句の文化もあり、若年層を含む一定の愛好者を持つが、それについてはここでは措く。

では、なぜ韓国では詩が愛されるのか。それにはいろいろな理由が考えられ、詳細な分析は本稿の射程を大きく超えるが、韓国の近現代史を顧慮すれば、理由のひとつとして、困難な時代が長らく続いてきたという点が挙げられよう。人々が困じ果てた状況の中には、いつも詩が胚胎した。

例えば、植民地時代には、李相和(イ・サンファ)や尹東柱(ユン・ドンジュ)などの「民族詩人」が筆を執り、軍部独裁政権の時代には、金洙暎(キム・スヨン)や金芝河(キム・ジハ)などの参与文学の詩人たちが注目された。労働詩、農民詩などと称されるジャンルも台頭し、言論統制が峻厳だった1980年代は「詩の時代」とも呼ばれた。時代背景も詩の種類も多様で、粗笨(そほん)に括(くく)ることはできないが、韓国の歴史において、詩が常に人々の内面を代弁し、武器にも癒やしにもなってきたのは確たる事実であろう。

次々と新たな詩が生まれる韓国社会

社会のありようが変容しても、韓国社会において詩が果たしてきた役割は杜絶(とぜつ)することなく、現在まで承継されており、詩趣は異なっても、新たな詩が次々に胎生している。そして、批評家の若松英輔が言うように、詩は、詩人の心にだけ宿るのではない。誰の心にも詩人は棲んでいる(『悲しみの秘義』、ナナロク社)。若松はこれを一般論として述べているが、韓国社会はこうした傾向がより強いのだと思量される。

本稿で紹介した詩集は、韓国の通時的遷移や社会それ自体を投影したものではないが、しかし、詩というものが本来的に蔵する〈癒やし〉と〈気づき〉の側面が前景化したこの詩集が韓国でよく読まれているのは、得心のいくことである。詩を愛する一介の韓国学徒として、本書が日本においても多くの読者を獲得することを強く期待したい。筆者にとっても、本書は枕頭(ちんとう)の書になりそうな予感がする。

最後に、本書の日本語訳が、間然するところのない、信頼に足るものであることを附言(ふげん)しておく。本書がこうした優れた翻訳をもって日本語圏に迎え入れられたことは大変喜ばしいことである。

*編集部の判断で一部の漢字に読み仮名を付した。

(辻野 裕紀 : 九州大学大学院言語文化研究院准教授)