カップ麺節約か否か。ネットではこうしたテーマの論争が定期的に繰り広げられている。文筆家の御田寺圭さんは「先日も、コンビニでフルプライス(231円)のカップヌードルを節約のために購入したというツイッターが炎上した。貧しい人はスーパーで袋麺を買う、といった批判が多かったが、そう怒っている人が理解していないことがある」という――。
撮影=プレジデントオンライン編集部

■定番化したネットの大論争「カップ麺は節約か否か」

インターネットやSNSで定期的に大きな論争になるテーマがある。「コンビニでカップ麺を買うのは節約にあたるか否か」である。

つい先月のツイッターでも、貧困問題に取り組む方がこのテーマを口にしたところ、激しい批判が起きて「炎上」状態となり、そのまま大激論となった。

節約するため、昼食にカップヌードルを買ったところ、価格が231円で3度も金額表示を見た、という内容のツイートに対して人びとから“貧しさ”の現実に即していないといった主旨の批判や非難の声が相次いでいた。

「そもそもカップ麺は高級品だ」
「貧しい人はカップ麺ではなく安い袋麺を買う」
「レジ行く前に値札見るだろう」
「コンビニよりスーパーの方がカップ麺を買うにしてもいくらか安い」
「普段から節約する人からすればありえない感覚」
「貧乏人の解像度が低い」

こうした厳しい意見がずらりと並んでいた。「私は貧乏だが、コンビニでカップ麺など買わずこうしている」といった個人的な生活術とその実践も添えられながら。

しかしながら、コンビニでカップ麺を買うことを節約として考えることについて、「貧乏人のことを知らない」とか「貧困のことを理解していない」とは私はまったく思わなかった。語弊を恐れずにいえば「貧乏人の解像度が低い」のは、どちらかといえばこの投稿者に怒りのコメントを寄せている人のほうなのではないかとさえ感じた。

というのも、スーパーではなくコンビニを積極的に利用し、200円以上するカップ麺を買っている貧困層は架空の存在ではなく、ごく普通に存在するからだ。

撮影=プレジデントオンライン編集部

「コンビニでカップ麺を買う貧困層」という、一見すると矛盾した消費行動をとる人びとがいる理由、それはかれらが「スーパーで特売の袋麺をまとめて買うほうがお得(合理的)である」といったコンセプトをそもそも持っていないからである。

■貧困とは「情報量の差」ではなく「文化」である

スーパーの方がコンビニより安い。ついでに言えばカップ麺より袋麺の方が安い。間違いなくそのとおりだ。正論である。

だが、そうしたお得な情報を持っておらず、あるいは行動する意思がそもそもないからこそ貧困に陥っている人は少なからずいる。そうした人は、スーパーとの値段を比較することなく住まいの近くにあるコンビニを訪れて「節約のつもりで」「値札をとくに気にせず」カップ麺を購入してしまう。

貧乏なら弁当や総菜を買うよりも自炊すれば安上がりなのもそうだろう。だが、貧しい人はもとより「調理をする」という習慣が生まれ育った家庭にはなく、十分な訓練を受けていないことが多い。また適切な材料を適切な量で買いそろえることができず、足りなかったり、使いきれず食材を腐らせてしまったりすることもよくある。一念発起して慣れない料理に挑戦し、多大な手間と労力をかけた結果として「まずいメシ」が完成してしまうと、調理を習慣づけるモチベーションを失う。

また部屋が狭く、調理スペースや調理器具、家電製品の用意でも乏しく大きな制約を受ける。冷凍室や野菜室のない一部屋タイプの冷蔵庫では「食材を保存する」という用途自体が失われてしまうこともある(往々にして飲料や酒類を冷やすためだけのものになってしまう)。そうなると結局、コンビニの弁当や総菜、そしてカップ麺などが消去法的に選ばれる。

写真=iStock.com/AH86
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お米を買うにしても、5kgや10kgの大袋(1000〜3000円くらい)を買う方が得なのは明白だ。だが、貧困層には数千円の「まとまったお金」をいちどに支払う経済的余裕がなかったりするし、もっといえば「まとまったお金を払って大きいのをひとつ買っておけば、チマチマと小出し小出しでモノを買うよりも中長期的にはお得である」という“トータルコスト”の概念がなかったりもする。よって、1kgや500gの小さな米袋を買ったり、レンジで調理するレトルト米を食事ごとにいちいち買ったりして、最終的に損をしてしまうのだ。

節約術を習得するのも、特売情報をキャッチするのも、料理スキルを磨くのも、中長期的な損得計算をするのも、これらはいずれも貧乏なら当たり前にやらなければならないものでも、当然やってしかるべきものでもない。それぞれ特別な訓練や慣習によって習得される「文化(カルチャー)」に近い。そうしたカルチャーを持っていない者は、お金がないのに「無駄遣い」な選択をせざるを得ず、ますます貧困に陥っていく。

私は決して「コンビニでカップ麺を買うような貧困層」を見下しているわけではない。これは知識や技能というより文化や慣習の問題であるのだ。

■「貧すれば鈍する」は真実

貧困は、そこから脱するためにお得な情報や節約を習慣づける文化を学ぼうとしない「愚かさ」ゆえに生じてしまうという指摘は一理ある。

しかし、貧困がそれ以上に根深い問題であるのは、その因果の矢印を逆転させた理路もはっきり存在していることだ。

ようするに「愚かだから(合理的判断ができず)貧しくなる」だけでなく「貧しいから(合理的判断ができず)愚かになる」という機序も明確に存在して、貧困層をますます貧しくしてしまうのである。

怠惰でもなければ愚かさでもなく「貧しい生活によって生じる心理的ストレス」が人びとから経済的に合理的な判断能力を低下させ、みずから貧困のループを作ってしまう(※1)。「貧すれば鈍する」とは昔の人はよくいったものだ。

写真=iStock.com/egadolfo
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貧困層は文字どおり経済的な余裕がないので、貧困状態にある人はたとえほんのわずかな出費でも生活が立ちいかなくなることへの不安に絶えずにさらされている。そのような心理的ストレスの強い高リスクな状況下におかれると、人は脳内の認知的リソースのほとんどを「生活を無事にやりくりするリスクマネジメント」に割かなければならなくなる。ほかのことを考えられなくなって、非合理的な判断に奔ってしまう。

ようするに、語弊を恐れずに言えば、貧困層がしばしば非合理的な行動――たとえば、スーパーでなくコンビニに行って特売でもないフルプライスのカップ麺やレトルト米を節約しているつもりで値札もろくに確認せず購入してしまうような行動――をとってしまうのは、かれらが逼迫(ひっぱく)した生活を送っていることによって脳内の認知的リソースの余裕がなくなり、その結果として「バカになってしまっている」からだ。

低所得者が家計や生活のやりくりのことを考えると認知機能が低下してしまうことが実証されている一方、高所得者が同じことをしても認知機能は低下しないことも明らかになっている。つまるところ、高所得者は賢いから高所得者であるだけではなく、高所得であるという状態そのものが認知的リソースの余裕を生み「より賢明で合理的な判断」を生活上でも安定的に維持しやすくして、大切な財産を無駄遣いから守り、所得をさらにブーストさせているということだ。

貧しさそれ自体が頭をわるくし、豊かさそれ自体が頭をよくする――結果として貧困層と富裕層の経済的・文化的・認知的格差はさらに開いていく。

■「上質な暮らし」がさらに豊かさを呼び寄せる

貧しさによって日常生活において心理的ストレスの強い状況で生活している人びとは、そうしたストレスの小さな人びとと比べて、余暇時間を与えられると得てして享楽的で非生産的な遊びにだけ費やしてしまう傾向が強くなってしまうことも明らかになっている(※2)。

貧困層は、日常生活で断続的に味わわされる強い心理的ストレスをどうにか発散させるために、短期的に強い快楽を得られるような行為――たとえばギャンブルや飲酒など――に没頭せざるを得なくなるのである。

貧しい人びととは対照的に、高所得層はそうした生活防衛によって要求される心理的ストレスやコストが小さいため、余暇時間には読書やセミナーなどの自己研鑽あるいは美術・芸術鑑賞といった文化的・教養的活動に回すことができ、それが結果的にかれらのビジネススキルの上昇やインスピレーションの向上に貢献している。

手持ちのカネの多寡よって生じる「生活をやりくりするしんどさ」の格差は、それ自体が「認知的格差」に直結し、貧しい人をますます貧困に絡めとられるような行動に駆り立て、富める人をますます豊かで上質な暮らしにつながる行動を促進する。

■「ネット言論」がとらえきれないこと

昨今のインターネットやSNSの「貧しさ」についての議論は往々にして「節約術を実践しスーパーで買い物をして自炊ができるくらいには文化的訓練を受けているが、しかし現在は(なんらかの不運によって)金がない人」――ようするに「高学歴・高文化な貧乏人(おそらくは自分たち自身のこと)」を前提にして語られがちである。

御田寺圭『ただしさに殺されないために』(大和書房)

カップ麺の高さや袋麺を特売で買うことの賢明さや合理性を説くのはごもっともだが、それは貧しさの原因というより結果だ。

貧困それ自体が「愚かさ」の根源であること、そして「愚かさ」によって作り出された慣習や環境がさらに貧困を深刻化させ、深刻化した貧困がさらにその人の「愚かさ」を加速させている――という負のループ構造があることこそ、より多くの人に知られなければならないだろう。

なぜ社会に再分配が必要か。それは「不平等だから」「ズルいから」というより、「貧すれば鈍する」という“呪い”にかかっている人の絶対数を減らし、社会全体の活力や生産性、そしてなによりひとりの人間が人生で味わう充実感や幸福感の総和を高めていかなければならないからこそでもある。

(※1)NOAH SMITH "Personal stress, not laziness, perpetuates the poverty rut" (The Japan Times) Feb 24, 2020
(※2)Bartos, Vojtech and Bauer, Michal and Chytilová, Julie and Levely, Ian, "Effects of Poverty on Impatience: Preferences or Inattention?" (September 1, 2018). CERGE-EI Working Paper Series No. 623

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)