9月末、鹿島アントラーズのチームアドバイザーとして再び日本を訪れたジーコ。しかし、今回の来日にはもうひとつ目的があった。それは富山県射水(いみず)市の「ジーコ10・サッカースクール」の開校(10月9日)に立ち合うことだ。それにしても、30年近く日本と関わっていながら、なぜこの時なのだろうか。ジーコ本人に直接、その質問をぶつけてみた。


今年5月、富山県射水市を表敬訪問したジーコ photo by KYODO

「本当のことを言うと、私はずっと日本でサッカースクールをやりたいと思っていた。大好きな日本の子供たちに、私が培ってきたサッカーと、理念を伝えたいと思っていた。しかし、日本にはルールがあって、Jリーグに所属するチーム関係者は、そういった個人のサッカースクールはできないことになっている。だからその夢を実現することは、これまで不可能だった。今、私は鹿島アントラーズのアドバイザーだが、正確にはチーム内部の人間ではない。いわば自由の身だ。そんなところに、ちょうどこのサッカースクールの話が舞い込んできたんだ」

 ジーコのサッカースクールはすでに15校以上存在する。リオデジャネイロ西部のレクレイオ・ドス・バンデイランテスを拠点に、ブラジルではサンタカタリーナ、マットグロッソ、パラナ、エスピリトサント、アマゾナス、ミナスジェライスの各州に。そしてアメリカはジョージア州アトランタにある。これらのスクールでは5歳から17歳までの子供たちがサッカーを学んでいるが、学んでいるのはそれだけではない。

「私が目指すのは、最高の選手を育てるだけではなく、最高の人間を育てることだ」

 ジーコはそう言う。

「日本とブラジルではまたやり方が違うだろうが、それでも最終的に目指すところは日本でも同じだ。私が日本に来た時、日本人は私のことをリスペクトしてくれた。だからこそ、私は自分の持つものを伝えることができた。まずは人をリスペクトすることが大事なのだと教えたい。これは決してビジネスではない、日本への恩返しなんだ」 

そこは柳沢敦の故郷でもあった

 日本初のジーコのサッカースクールが開かれる富山県射水市は外国人の多い土地柄だ。パキスタン、ロシア、フィリピン、中国、ブラジル......。スクールの代表を務める湯川ルシレーネさんもブラジル出身の女性で、外国人も多く登録する人材派遣会社を経営している。

「このスクールに通う子供たちは、大きく分けて3つのグループがあると思う。1つは日本人、もうひとつはブラジル人、そしてその他の国籍の子供たちだ。彼らはサッカーへの造詣も、文化の背景も、考え方も違うだろう。しかし、私は彼らを区別することなく指導していくつもりだ。そのことで国籍を超え、肌の色を超え、自分たちはみな同じなのだということをまず感じとってほしい」(ジーコ)

 ところで、なぜ射水市なのだろうか。富山県はジーコとはあまり縁のない場所のように思えるが......。

「県や市がそういったプロジェクトを考えていて、それに賛同した湯川さんが私に話を持ちかけてきたんだ。非常に興味深い話だったが、私はそれまで射水市に行ったことはなく、多少の不安があった。この町でどのくらいサッカーの人気があるのかも知らなかった。

 しかし、さまざまな国の子供がいることに加え、もうひとつ決め手となったのは、この町にあるすばらしいスポーツ施設だ。最新の人工芝を敷いたフィールドが2面あり、夜間照明も備えられている。それに全天候型フットサル場1面。町や県のやる気が感じられた。『ジーコがサッカースクールを開設することになったから、ハイレベルの施設を作ったのか』と聞いてくる人もいるが、そうではない。フットボールセンターは町のためにすでに存在していて、私はそれを利用させてもらうだけだ。初めて実際にセンターを見た時は、嬉しい驚きだったよ。施設はとても近代的で、つけ加えることは何もなかった」

 そういえば射水市は元鹿島アントラーズの柳沢敦の出身地でもある。

「柳沢の故郷であることはあとで知ったが、彼とは特にこのスクールの話はしていない。しかし、これは幸運な偶然だと思った。柳沢を生み出した町ならば、きっとサッカーの土壌はあるはずだし、子供たちも最高の成功例が近くにあることから、きっとモチベーションも上がるだろう」

 最後に、今後の計画について尋ねてみた。

「実はこの射水市のサッカースクールは研究機関の意味も担っている。ここで試行錯誤しながら、日本人に一番合った指導方法を模索し、ゆくゆくは日本各地にサッカースクールを設けたいと思っている。次は沖縄にオープンすることがほぼ決まっている。

 そして私は選手だけでなく、コーチも育てていきたいと思っている。私も、スクールの責任者である息子のティアゴも、常に子供たちを直接指導できるわけではない。私の想いを汲んでくれた日本人コーチたちが、日本中の子供たちにジーコのサッカーと理念を広めてくれていったら嬉しく思う。

 私は日本でまず選手としてプレーし、クラブの監督となり、代表の監督となった。今回子供たちの育成に関わることで、日本と私の関わり合いのラストピースが揃ったような気がしているよ」