大阪名物として知られる「串カツ」。大阪に串カツをもたらしたある男性の物語を紹介します(写真: ペイレスイメージズ 2/PIXTA)

大阪名物として知られる「串カツ」。小説『法善寺横丁』で有名な作家、1904(明治37)年大阪生まれの長谷川幸延によると、現在「串カツ」と呼ばれている食物は、昭和初期の大阪では違う名前で呼ばれていました。

頭に数字の2をつけた「二カツ」と呼ばれていたのです。

“二カツ──。一串二銭の串カツである。縦六センチ、横四センチぐらいかナ。お稲荷さんの幟(のぼり)みたい。が、立派に牛肉である。それ一本が二銭なのである。”

“なにしろ、二銭である。これはいかにも大阪的な食べ物であり、売り出し方であった。しかも、それは、大阪駅前の、あの雑然たる食べ物街から生まれたのだという。私はそのころすでにミナミの中の一人だったが、梅田生まれの二カツと聞いて、また別な感慨にうたれた。”(『たべもの世相史・大阪』)

梅田に近い曽根崎に生まれた長谷川にとって、 二カツ(串カツ)が梅田発祥であるという説は、愛郷心をくすぐるものがあったようです。

ニカツ発祥の店「ニカツ東京屋」

その二カツ発祥の店と思われるのが、1926(昭和元)年創業の「二カツ東京屋」。創業者の名前は松下義信氏。

彼が屋台を引き始めた昭和元年の大阪の人々にとって、串に刺したカツレツ「二カツ」は見慣れない食物。最初の頃は、まったく売れずに苦労したそうです。

“ええ、とても困りましたよ、二銭の串洋食と云つても、その頃はまだ理解されてゐませんでしたからね。あれは犬の肉だとか、猫の肉だとか云つて食つて呉れなかつたものです。働けど働けど、益々生活は困る一方です。”(東京屋松下義信氏を語る 穐村要作 『食通 1936(昭和11)年7月号』)

しかしながら、松下氏の努力は次第に実り、大阪の人々は串カツという新しい食物に慣れていったのです。

1928(昭和3)年には詩人の金子光晴と作家の正岡容が、淀川の川べりの屋台で串カツを食べています。

“大淀川の川べりの鉄橋の下の屋台店に私をつれていって、一串二銭のカツレツをおごってくれた。正岡は、その串をさかなに焼酎をのんだ。なんとなくたよりない味の串の肉は、犬の肉だということであった。”(金子光晴『どくろ杯』)

「二カツ東京屋」は次第に繁盛し、創業6年後の1932(昭和7)年には、十三に立派な店舗を設けるまでになりました。二カツ=串カツは見事に、大阪に定着したのです。


大阪に串カツをもたらした男、松下義信氏と十三の「二カツ東京屋」(雑誌『食通 1936(昭和11)年7月号』P66より)

「二カツ東京屋」の名前の由来

梅田発祥との噂のあった二カツ=串カツ。しかしながら串カツは、梅田発祥でも大阪発祥でもなかったのです。

大阪の串カツ元祖「二カツ東京屋」の名前の由来は、松下氏の出身地東京に由来するもの。松下氏は大正時代初期に東京から大阪に移住し、当時東京で流行していた串カツを持ち込んだのです。

“深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、はじめて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです。”(『江東ふるさと文庫6』)

1903(明治36)年東京深川生まれの岡島啓造氏は、彼が子どもの頃、すなわち明治時代末から遅くとも大正時代初め頃に、串カツを食べていました。

東京では串カツのことをフライ(肉フライ、串フライ)と呼んでいました。

“大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです。”(『古老がつづる下谷・浅草の明治 大正 昭和1』)

これは1902(明治35)年東京浅草生まれの久我義男氏の証言。“ソースが共同でドブンとつけてたべる”ので、当然のことながらソース二度漬け禁止。

“伝法院の西側の庭の塀”は、現在でいうところの浅草ホッピー通り。関東大震災(1923年)前のホッピー通りには、串カツ(フライ)屋台がズラッと並んでいました。

高橋北堂『小資本にして一躍成金たる金儲』は、1917(大正6)年に大阪の成々堂書店から出版された金儲けマニュアル本。

その中で、儲かる新商売として串カツ(フライ)屋が紹介されています。

“次は即ち牛肉のフライ屋で之は東京では到る處に見受けるが、大阪にては未だ之を見ぬ”

大正初期に東京において流行していた「牛肉のフライ屋」は、この時点ではまだ大阪に伝わっていなかったのです。

“此商売は前にも述べた如く、大阪京都には未だ始めて居るものがない。依っていずれの地にても適するから、関西に於て開始したならば、珍らしくて中々流行すること請合だ”

東京の串カツ(フライ)は、昭和元年に松下氏が大阪へ「二カツ」として伝えましたが、京都には大正時代に「一銭洋食」として伝わりました。これについては拙著(近代食文化研究会『串かつの戦前史』)を参照してください。

ソース共用、二度漬け禁止ルールが生まれた理由

さて、そもそも洋食であるカツレツを、なぜ串に刺して売ったのでしょうか? そしてなぜ、ソースは共用で二度漬け禁止なのでしょうか?


(吉岡鳥平『甘い世の中』、国会図書館蔵)

これは1921(大正10)年の創作落語「犬の肉」の挿絵に描かれた、東京の串カツ(フライ)屋台の絵です。

屋台に並んでいるのは洋酒の瓶。現在と変わらず、当時の串カツも酒のつまみとして売られていたのです。

ご覧のとおり、屋台にはカウンターもテーブルもありません。食べ終わった串を置くだけの小さなスペースしかないのです。

皿やコップを置く場所がないので、客は片手に酒の入ったコップを、もう一方の手に串カツを握って、立ったまま飲み食いします。

片手が酒のコップでふさがっているために、もう一方の片手だけで立食いできるように、串カツは串に刺さっているのです。

そして片手に酒のコップ、片手に串カツを持っていると、両手がふさがっているのでソース容器を持つことができません。そこで、大きな皿にソースを注ぎ、串全体をソースに浸して食べたのです。

当然、ソースは二度漬け禁止です。串カツもソース二度漬け禁止のルールも、屋台での立ち飲み・立ち食いのために生まれたものなのです。

実はこの串カツ、明治時代の東京で生まれた屋台料理である焼鳥の伝統から生まれたもの。

なぜ焼鳥は一口大に切った肉を串に刺して焼くのか。それは屋台において、コップ酒片手にもう一方の片手で食べられるように串に刺したのです。この焼鳥のビジネスモデルを応用したのが、串カツです。

ソース共用、二度漬け禁止ルールも、江戸時代の東京(江戸)で生まれた屋台料理、握り寿司や天ぷらの伝統から生まれたもの。

東京の握り寿司屋台では、大きな丼に醤油を入れ、そこに手で持った寿司を漬けて食べました。

天ぷら屋台では、箸でつまんだ天ぷらを共用の丼の天つゆに漬けて食べました。

東京の屋台文化から生まれたものだった

いずれも二度漬け禁止。東京人にとってソース共用二度漬け禁止はおなじみのルールだったのです。

また、串カツが生まれた明治時代末の東京では、洋食の屋台というものが存在し、カツレツを立ち食いすることができました。


(大道飲食店(二)一品西洋料理 『実業世界太平洋 1903(明治36年)13号』より)

焼鳥、握り寿司、天ぷら、洋食。串カツは、東京の屋台文化から生まれた料理だったのです。

(近代食文化研究会 : 食文化史研究家)