「この子のためなら、何だってしてみせる…」

公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。

そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。

──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。

これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。

◆これまでのあらすじ

娘の華(2)の幼稚園受験のため、お受験塾「ほうが会」に入会した葉月。模擬面接の結果をきっかけに、夫の大樹との間に亀裂が入ってしまう。

▶前回:幼稚園受験の模擬面接。「ママのごはんは何が好き?」と聞かれて、娘が答えた予想外の回答




Vol.9 新たな決意


「華ちゃん、ママ、いってきます」

「いってらっしゃい、夕飯いらないようだったら20時までには連絡ちょうだいね」

玄関で大樹を見送った後は、いつも通り、リビングのソファで華のおむつをはき替えさせる。

模試の日──大樹に「魔女みたいだ」と指摘された先月のあの日以来、華のトイレトレーニングを強行するのはやめた。

おむつを替えた私はすぐにキッチンへ向かい、白玉粉を準備して、華と一緒に月見団子を作り始める。

今週末は十五夜。季節の行事を大切にするためのイベントの一つだった。

― 結局、大樹と何も話せていないまま9月になっちゃったな。

大樹とギクシャクするのは怖いが、これまでの努力を棄ててしまうのも惜しくて…。本番の秋に差し掛かったというのに、結局、幼受についてはやめるとも続けるとも結論が出ていない。

「こんな中途半端な気持ちで、お受験なんてできるのかな…」

テーブルに飾ったすすきを眺めながら、華にも聞こえないような小さな声で呟いた、その時だった。

不意に届いたLINEを見て、私は思わず目を疑う。

「え…?これ、どういうつもりなの…?」




久しぶりに出向いた有栖川公園は、蒸し暑さが和らぎ、どことなく秋めいた気配が漂っていた。

芝生が敷かれた広場で華が駆け回るのを見ていると、それぞれ別の方向から、同じタイミングで彼女たちがやってくる。

敦子さんと翔子ちゃん。マリエさんとエミリちゃん…。

3組で楽しくホタル狩りをして、そして決裂したのは、もう3ヶ月も前のことだ。それ以来、私たちは一度も集まったことがない。

今日ここに3ヶ月ぶりに集合したのは、マリエさんから突然LINEで呼びかけられたからなのだった。

「わ、わぁ〜、なんだか久しぶり!みんな、元気だった?」

マリエさんと敦子さんのいさかいがまた始まってしまうことを恐れ、私は思わず間抜けな挨拶をしてしまう。

「…ほうが会ではご一緒してたけど、お話するのは久しぶりね」

敦子さんも、複雑な心境なのだろう。ぎこちなさの滲む笑みを浮かべながら、挨拶をする。

そんな、よそよそしい態度の私たちに対してマリエさんが放ったのは、意外なセリフだった。




「ワンピースのこと、ごめんなさい!私が非常識でした」

そう言ってマリエさんは、深々と敦子さんに頭を下げる。

「葉月さんも、ごめんなさい!せっかく楽しくお付き合いさせていただいていたのに、私が台無しにしてしまって。

今日はとにかく二人に謝りたくて、突然呼び出しちゃったの。来てくれてありがとう」

「そんな…全然大丈夫だよ!」

マリエさんからの唐突な謝罪に、私はブンブンと首を横に振った。敦子さんも呆気に取られたような表情を浮かべている。

でも本当に驚いたのは、この後のマリエさんの言葉だった。

「それでね、ご報告なんだけど…。我が家は幼稚園受験、やめることにしたの。だから、ほうが会も8月末で退会した」




「えっ」

私も敦子さんも、思わず声を上げてしまう。けれど、マリエさんは穏やかな微笑みを浮かべながら言葉を続けた。

「実はね、ちょっと前から主人と話してたの。ご挨拶とか、身上書とか…そういう伝統的な世界に、我が家は合わないんじゃないかって。ワンピースの件でも、考えが至らずにご迷惑をかけてしまったし…。

それでね、私は小学校時代はアメリカで過ごしたし、主人も海外大卒でしょ。結局、エミリはインターに行かせようってことになって。

実は今月から、プリスクールに通うことになったんだ。報告が遅くなってごめんね」

そう言うマリエさんの顔は、いつにも増して明るく美しい。

“お受験ママ”という立場では着ることがはばかられる、体のラインがピチッと出たルルレモンのレギンス。お教室通いには似つかわしくない、プラダのキャップ。

カジュアルで気取らないマリエさんのファッションは、彼女のエネルギッシュな魅力を引き立て、何倍も美しく輝かせているように見えた。

「そっかぁ、インターか…。うん、エミリちゃんとマリエさんにぴったりだよ!」

喜ぶ私に続いて、敦子さんも答える。

「そうなのね…。エミリちゃん、ご入学おめでとう。ワンピースのことは、私のほうこそごめんなさい。親族からのプレッシャーに潰されそうだったの。

ねえ、幼稚園が別々でも、また前みたいに仲良くできるわよね?」

マリエさんはケラケラと笑って、別の方へと目を向ける。

「当たり前じゃない!」

その目線の先には、仔犬のように戯れ合いながら仲良く走り回る、翔子ちゃん、エミリちゃん、華の姿があるのだった。

― あぁ、またこうして仲良く遊べる日が来るなんて。本当によかった…!

けれど、そう思いながらも、私の胸にはしこりのようなものが残っている。

― どうしよう。今ここで二人に言ってしまおうか…?


マリエさんは、無理をしている自分たちを素直に認め、エミリちゃんのことを真剣に考えて「幼稚園受験をやめる」という決断をしたのだ。

そんなマリエさんなら、いいアドバイスをくれるかもしれない。

大樹がお受験に真剣に取り組んでくれないこと。

私の余裕がどんどんなくなり、「魔女」とさえ言われるような態度を取ってしまったこと。

早生まれの華に、かわいそうなほど無理をさせているかもしれないこと。

それならいっそのこと、幼稚園受験をやめた方がいいのではと考えていること…。

そんな悩みの数々を、マリエさんと敦子さんになら相談できるかもしれない。そう思った私は、ゴクリと唾を飲み下し、緊張しながら口を開く。

「あの…、実は、ね。我が家も…」

だけど、その時。離れた所を走り回っていた華が、キラキラとした笑顔で駆け寄ってきて、私のスカートを掴んだ。

「ママ、はなちゃんトイレ」

「あ、じゃあおむつ替えに行こっか?」

「ちーがーう!おむつもうしないの!はなちゃんトイレ!」




「あらっ!華ちゃんすごいねー!

葉月さん、このあたりだったらすぐそこの、麻布子ども中高生プラザのお手洗いが綺麗だよ」

「えっ、あ…うん、ありがとう!」

目の前でモジモジと足を踏み鳴らす華に、細かいことを問いかけている時間はなかった。マリエさんにおすすめされるがままに、私は華を中高生プラザへと連れていく。

そして、本当にアッサリと用を足すことができた華に尋ねたのだった。

「華、すごいねぇ。もう、おむついらない?」

「うん、はなちゃん今日からおねえさんパンツ。しょうこちゃんとえみりちゃん、おねえさんパンツでかっこいいから!」

「華…!」

私は、思わず華を抱きしめた。



中高生プラザのトイレで、念の為にいつも一枚持ち歩いていたパンツにはき替えて以降、華は本当におむつをはかなかった。

先ほどベッドに入るまで、ずっと自分の意志でトイレに行き、失敗することもなかったのだ。

私は結局、マリエさんと敦子さんに抱いていた悩みを相談しなかった。

― 私、やっぱり幼稚園受験を続けたい。

子どもが、華が、お友達からの刺激で自分の殻を自分の力で破ったのだ。

― 華のために、幼少期から最高の環境を準備してあげたい。良いお友達、良い園設備、そして、小受に向けての良い道筋を示してあげたい。

今までどこかに迷いのあった私の決意は、いま初めて、確固たる決意になったのだった。




キッチンで大樹の夕食を作る私の胸には、公園から帰る間際、マリエさんがかけてくれた「応援してる」という言葉が熱く燃えている。

― 大樹が帰ったら、今日こそ真剣に話し合おう。華のために幼受を続けたいって、しっかり自分の気持ちを伝えよう。

時刻は、20時半。

遅くなるという連絡もなかったことだし、もうすぐ大樹は帰ってくるはずだ。

けれど、お味噌汁を作るその横で、突如スマホがブーンと震えながら電話の着信を告げた。

― え?まさか、この時間から夕飯いらなくなったとか?

嫌なサプライズを予期して、私は慌ててスマホを手に取る。

電話の着信相手を確認した私は、予期した以上の驚きのあまり、思わず独り言がこぼれた。

「宝川先生からだ…!」

― こんな時間に、一体なにが?華のことで何か問題でも?

パニックになった頭の中を表すように、お味噌汁が沸騰して、吹きこぼれる。

震える手で火を止めながら、私は恐る恐る通話ボタンを押した。




▶前回:幼稚園受験の模擬面接。「ママのごはんは何が好き?」と聞かれて、娘が答えた予想外の回答

▶1話目はこちら:「港区は、小学校受験では遅いのよ」ママ友からの忠告に地方出身の女は…

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夜8時を過ぎてかかってきた、宝川先生からの電話。告げられた驚愕の内容とは