中国は「一つの中国」の原則のもと、台湾を中国の一部として位置付けている。だが、かつて両国の立場はまるで違っていた。ジャーナリストの姫田小夏さんは「先に経済発展を遂げた台湾では、『台湾が中国を統一する』と教えられ育った人が多い」という――。(前編/全2回)
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台北市内の様子 - 筆者撮影

■本心では「独立すべきだ」と考えているが…

「台湾は独立したいの? それとも中国と統一したいの? ――海外の友人からそんな質問を頻繁に受けるようになりました」と、台北市で生活する郭淳美(仮名)さんは話す。「独立すべきだ」というのが郭さんの本心だが、「そんなに単純な話ではない」という。

例えば8月初旬のペロシ米下院議長の台湾訪問は、中国と米国による「米国政府は台湾との政治関係を終了する」(1979年の3つの共同コミュニケ)という約束を、米国が反故(ほご)にしたことに中国が反発したが、ペロシ氏の訪台に「新たな時代の到来を予感」した台湾の人々もいる。これが「独立」への道筋を意味したからだ。

だが、すべての台湾市民が必ずしも独立を所望していないところに、この台湾問題の複雑さがある。

2010年代半ば、台湾で「小確幸(しょうかっこう)」という言葉が流行った。村上春樹氏のエッセイにも出てくる、「目の前の小さな幸せ」という意味のこの造語は、映画や歌を通して台湾の人々の心に根を下ろし、日常的に使われる言葉となった。郭さんもこの言葉に思い入れのある1人だ。「私たちの手で未来をどうすることもできないから、目の前の小さな幸せを大事にするしかない」のだという。

その心理の裏には、“国”や“国籍”をめぐる葛藤のストーリーがある。台湾の人々の目に映る中国との関係を追ってみた。

■「日本人には当たり前」が羨ましい

1960年代に台湾で生まれた張玉英(仮名)さんが初めて来日したのは1977年、14歳のときのことだった。その後、彼女は日本の高校に進学し、日本の社会に溶け込むとともに高度な日本語を身につけた。成人してからは台湾や中国の著名人の通訳をしたり、台湾や中国ビジネスの橋渡しをしたりと、東アジアを舞台に華々しく活躍した。

長年、日本で生活する張さんは、あることについて日本人を羨ましがっていた。それは「日本人には国籍がある」ということだった。「日本人にとって国や国籍がある状態は当たり前ですが、私たち台湾人にはそれがないのです」と、張さんは静かに訴える。

台湾には中華民国という国名や国旗、国歌がある。台湾人は「中華民国」と書かれたパスポートを所持しており、ビザなしで145カ国を訪れることができる(2022年、ヘンリー&パートナーズ社調べ。中華人民共和国のパスポートの場合は80カ国)。

■WHO非加盟でコロナ情報も共有されない

日本人は日本の航空機で台湾を訪れることができ、入国審査ではパスポートに「中華民国」のスタンプが押される。このような事実からすれば、台湾も一つの“国家”として機能しているようにみえるが、国連をはじめとする国際組織は中国の主張する「一つの中国」の原則を支持しているため、独立国として認められていない台湾は「一つの地域」という特殊な扱いとなっている。

確かに、オリンピック・パラリンピックの開幕式では毎回、選手たちは「チャイニーズ・タイペイ」として入場行進をしている。新型コロナウイルスが猛威を振るったときも、WHO(世界保健機関)に加盟できない台湾は、他国が当たり前のように享受できる情報すら共有できなかった。また、各国が「ワクチンの割り当て」をもらう中で、その確保もできず、調達に腐心する局面に立たされた。

■「中国大使館が台湾人を保護してくれるのか?」

張さんは「台湾から一歩外に出ると、台湾の特殊な立ち場が浮き彫りになるのです」と語り、15年ほど前のエピソードをこう振り返った。

「台湾出身で日本に在住する友人の『外国人登録証』の国籍欄には『中国』と書かれていました。友人はアイデンティティに非常にこだわる人で、『国籍欄に中国と記されると、何かあったときは中国大使館に行かなければならないことになる。中国が台湾人を保護してくれるのか分からないのに』と、日本の入国管理局に駆け込んだのです」

交渉の結果、この友人の「外国人登録証」の国籍欄は「台湾」と修正された。ちなみに、出入国在留管理庁によると「過去は『中国(台湾)』と記載されていたが、2010年に外国人登録証が在留カードに切り替わった時点で、『台湾』と記載できるようになった」という。それでも、あくまで「地域」としての扱いだ。

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台湾市民は伝統と信仰を大切にしている - 筆者撮影

■いつか、台湾が中国を統一すると思っていた

今に見る台湾問題は、1945年の日本の敗戦で、日清戦争の勝利により清国から割譲した台湾(1895年の下関条約締結)を放棄したことから始まる。その後、中華民国(国民党の蒋介石政権)は台湾を編入したが、大陸では国民党軍と毛沢東が率いる共産党軍が内戦し、国民党軍が敗れてしまう。国民党軍が台湾に逃げ込み、中華民国が台北に遷都する一方で、中国共産党は1949年に大陸で新中国(中華人民共和国)を建国した。

張さんが来日した当時、故郷に手紙を送る際に封筒に書いたのは「中華民国台湾省」というものだった。これは、蒋介石が率いた国民党が「中国とは中華民国である」と中国全土の領有権を主張し、台湾をそのうちの一つの省として「台湾省」と呼ぶようになったことに由来するものだ(中国もまた「一つの中国」の原則のもと、台湾省を自国の一つの省だと主張している)。

張さんは「すでに中国は大陸を実効支配していましたが、『いつかは国民党が中国共産党に替わって大陸を統治し、祖国は一つになるだろう』という淡い思いを抱いていました」と振り返る。

1970年代は台湾にとって厳しい時代の始まりだった。国際社会が新中国を支持するようになったのだ。1971年10月、第26回国連総会は「中華人民共和国が国連における中国の唯一の代表」とする「アルバニア決議」を採択し、中華民国は国連から追放された。翌72年、日本は中国と国交を正常化させると、台湾は日本を非難し断交した。さらに1979年には、米中が国交を樹立させ米台が断交。その結果、台湾はアジアの孤児となっていった。

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古い建物が温存されている台北市内 - 筆者撮影

■目の当たりにした「遅れて貧しい」中国の姿

1977年まで台湾にいた張さんは、国民党政権のもとで教育を受けた。当時、「歴史」の授業で学んだのは「中国の歴史」だった。台湾には先住民に始まる歴史があるが、大陸からの漢人の移入も進んだ。17世紀以降には儒教が伝わり、科挙の受験者も増加した。

「当時、私は中学生でしたが、祖国の歴史を学ぶことは当然だと思っていました」と張さんは回想するが、そこには“中国人としてのルーツ”もあった。

張さんがそう思う背景にはもう一つ、「遅れて貧しい中国像」があった。1960年代から急速な経済発展を遂げた当時の台湾の人々からすれば、人民公社を中心とした中国の人々の生活はあまりに貧しかった。国民党が統一して建て直せば、中国の同胞の生活は上向く――。当時の台湾の人々は中国をこのように見つめていたという。中国は、文化大革命(1966〜76年)で大混乱に陥っていた。

■“統一”よりも“独立”を望むように

1980年代に入ると、台湾は「アジアの四小龍」(台湾、香港、韓国、シンガポール)の一つとしてさらに飛躍的な発展を遂げた。さらに1990年代になると、台湾は独裁体制から活力ある民主主義へと変貌を遂げ、台湾独自のアイデンティティが芽生えるようになっていた。一方で中国は、まだ“眠れる獅子”の状態にあった。

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コロナ前は商売も活況を呈していた - 筆者撮影

1988年、国民党の李登輝氏が台湾人として初の中華民国の総統に就いた。李登輝氏は「中国と台湾は国と国との対等な関係だ」とする「二国論」を発表すると、中国は李氏を「台湾独立分子」だとして批判した。

この頃、台湾では、中国共産党が大陸を実効支配しているという現実を直視する機運が強まり、「中華民国による統一の夢」は徐々に薄れていた。一方で、「『台湾省』と呼べば、中国に中央政府があることを認めることになる」という理由から「台湾省」と呼ぶことに抵抗を持つ台湾市民も出てきた。

■中国と“切っても切れない関係”になっていく

2000年代に入ると、「台湾アイデンティティ」がさらに強まった。2000年に国民党を破り当選した民進党の陳水扁政権(2000〜2008年)は、「台湾は中華民国ではなく台湾そのもの」だと主張し、“台湾としての国家”を目指すようになった。

こうした台湾の動きに、中国はもちろん黙っていなかった。胡錦濤国家主席の時代(2003〜2013年)、中国は台湾を承認する国々と外交関係を次々と樹立し、台湾の国際機関への参加を阻むなど“台湾への妨害”を繰り返した。

それでも民間経済の交流はますます盛んになった。台湾資本は大陸に進出し、多くの台湾系工場が中国を舞台に成長を遂げた。中国は台湾の技術を、台湾は安い労働力を求めて互いに絆を深めた。実利を重んじる台湾の商人たちにとって「政治は後回し」だった。

2000年代初頭、筆者が住んでいた上海にも多くの台湾資本が上陸した。飲料や菓子、カップラーメンなど主に食品市場を席巻し、上海市民の生活を豊かにした。日本で学んだ台湾人パティシエが上海の一等地で店舗を開くなど、東アジアの経済に一体感が感じられた時代だった。この間、台湾人と中国人のカップルも誕生した。この頃に生まれた子どもたちはすでに成人し、中台を結ぶ第2世代として活躍する時代に入った。

当時、「中国の成長力と台湾の技術力が組めば世界を制覇できる」といった声さえ聞かれた。しかし、「さあ、これから」――というところで立ち込めたのは、視界不良の暗雲だった。中国と台湾の蜜月も長くは続かなかった。(後編につづく)

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姫田 小夏(ひめだ・こなつ)
フリージャーナリスト
東京都出身。フリージャーナリスト。アジア・ビズ・フォーラム主宰。上海財経大学公共経済管理学院・公共経営修士(MPA)。1990年代初頭から中国との往来を開始。上海と北京で日本人向けビジネス情報誌を創刊し、10年にわたり初代編集長を務める。約15年を上海で過ごしたのち帰国、現在は日中のビジネス環境の変化や中国とアジア周辺国の関わりを独自の視点で取材、著書に『インバウンドの罠』(時事出版)『バングラデシュ成長企業』(共著、カナリアコミュニケーションズ)など、近著に『ポストコロナと中国の世界観』(集広舎)がある。3匹の猫の里親。
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(フリージャーナリスト 姫田 小夏)