ようやく秋の気配を感じるようになりました。秋と言えば、人恋しくなる季節です。そこで今回は、「百人一首」から、男性の恋歌を紹介します。百首全体を出典の部立によって分けると恋歌が43首、四季歌が32首となり、いかに恋歌が多いかわかります。前回までで女性の歌をまとめて採り上げていますので、特に男性の中でも貴顕と呼ばれる貴族が詠んだ恋歌から数首を採り上げて読んでみます。それらには、平安貴族の中でも最上流の人々が表す“雅び”という文化的価値観の粋(すい)が、藤原定家によって示されているように思えます。
☆あわせて読みたい!
平安の世に花開く女性たちの和歌
ビナン(美男)カズラの赤い実
恋歌を詠む貴顕の父と子
〈名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな〉三条右大臣(25番)※1
〈逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし〉中納言朝忠(44番)※2
1の出典は「後撰集」の恋三で、「女につかはしける」の詞書で収められています。「逢坂山」は京の東の入口に当たる逢坂の関のある山で、「逢ふ」を掛けています。「さねかづら」はビナンカズラという蔓草で、「寝(る)」を、また、「来る」はカズラ(蔓草)の縁語の「繰る」を、それぞれ掛けています。逢坂山のさねかづらが、「逢ふ」とか「寝る」とかの言葉を持っているのならば、人に知られないで、蔓を手繰るように、逢いに来る方法がほしい、という内容です。次々にたたみかけるように繰り出される、みごとな技巧に圧倒されながら、読み終えて残るのは人目を忍んで会おうという作者の恋への熱意です。
作者の三条右大臣とは藤原定方。平安時代に藤原氏の力が興隆する源となった冬嗣の曽孫で、従二位右大臣に至りました。職務に精勤実直な人柄だったと伝わりますが、家集「三条右大臣集」を残すのみならず、従兄弟の藤原兼輔等とともに「古今集」から「後撰集」にかけての和歌界の発展を支えた人物でした。身分・地位に加えて、このような力のこもった情熱的な恋歌を詠むことができる作者は、平安貴族の理想像にすら思えます。定家もそう評価をしたのではないかという気がします。
この定方の子である朝忠が詠んだのが2の和歌です。出典は「拾遺集」恋一で、詞書は「天暦御時歌合に」とあり、天徳4(960)年4月30日に催された「天徳内裏歌合」の恋題で出された歌です。恋人に逢うことが一切なかったら、かえって相手も自分も恨むことなどないでしょうに。掛詞などの技巧はなく、思いをそのまま詠んだ雰囲気です。しかし、恋人には逢わない方が良いという主張だと理解することはないと思いますが、いかがでしょう。実は、「……なくは、……まし」という構文は、「古今集」にある在原業平の名歌、
〈世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし〉
と同じで、業平が桜がなかったら春は落ち着いて過ごせるのにと、桜を避けるような逆説を用い、本当は桜に愛着し没頭してしまう春の心を詠んだことに倣ったのが、この歌なのです。単純化すれば、糖分たっぷりの甘いケーキに目のない人が、ウエイトを気にして「ケーキなんかなければ良かったのに」というのと同じです。つまり作者は、恋するとは甘い歓喜の反面、不安や恐れ、疑いや恨みというマイナス感情を増大させることだが、それでも恋人に逢う気持ちはとめられないという、恋の思いの強さを逆説によって効果的に詠んでいるのです。この朝忠詠を基にして、定家も文治3(1187)年11月に家隆とともに詠んだ「閑居百首」の恋の中で、
〈憂く辛き 人をも身をも よし知らじ ただ時の間の 逢ふこともがな〉
と、気が塞ぎ辛い思いの相手も自分も、さあ知るまい、ほんの一時逢いたい、と詠んでいます。
作者の朝忠は、父ほどではありませんが、中納言で従三位の公卿です。「大和物語」や「後撰集」、そして家集「朝忠集」には、実生活に基づきつつ詠んだ多くの恋歌を残し、三十六歌仙の一人です。「天徳内裏歌合」では6首を詠んで5首が勝でした。定方とともに管絃にも優れ、まさに風雅を愛した親子だと知られます。
親子で百人一首に採用された歌をもう一組紹介します。
〈あはれとも 言ふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな〉 謙徳公(45番)※3
〈君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ほゆるかな〉 藤原義孝(50番)※4
3の出典は「拾遺集」恋五です。詞書は「もの言ひ侍りける女の、後につれなく侍りて、さらに逢はず侍りければ」、とあります。付き合っていた女が、時が経って冷たくなり、まったく逢わなくなったので歌を送ったということです。歌は単純率直に、冷たくされた私をかわいそうだと言ってくれる人は思い浮かばず、私はむなしく死んでしまいそうだ、というものです。弱り切った身をあからさまに訴えることで、哀れみからでも相手の心の回復を懇願している趣きです。
作者の謙徳公とは、藤原伊尹(これまさ,これただ)です。父は右大臣師輔。兄弟姉妹には、関白太政大臣兼通、摂政関白兼家、村上天皇中宮の安子がいて、伊尹も摂政・太政大臣で正二位という当代貴族の頂点に立つ人物でした。和歌の世界についても、第2勅撰集「後撰集」編纂の総責任者と見られる和歌所の別当でした。歌人としては個性的で、別称で「とよかげ」とも言う伊尹の家集「一条摂政御集」の冒頭は、
く大蔵史生倉橋豊蔭くちをしき下衆なれど、若かりける時、女のもとに言ひやりけることどもを書き集めたるなり…〉
という詞書で始まり、歌集の前半は倉橋豊蔭という身分低い官人の恋の歌物語になっています。これは伊尹が自身を豊蔭という人物に仮構して構成したものと解されています。その冒頭に位置するのが、「あはれとも……」の歌です。引用した詞書の先には歌の詠まれた状況の説明があり、
〈……豊蔭に異ならぬ女なりけれど、年月を経て返り言をせざりければ、負けじと思ひて言ひける〉
とあって、遠慮がいるほどの女ではないが、長く返事をよこさないので、負けないぞと思って歌を送った、とあります。どうやら、本来は女との意地の張り合いのようです。女の返事は、
〈何事も 思ひ知らずは あるべきを またはあはれと 誰か言ふべき〉
とありますが、難しい歌です。注釈書では、「恋のつらさのあれこれを思い知らなかったらあわれに思うこともありましょうが、今更あわれなど誰が申しましょう」とあります。豊蔭の訴えは、にべもなく却下されました。二人の仲には、女にとって苦く「思い知」り、消せないようなことがあったのでしょう。男の歌だけでは見えない女の側からの恋の現実がうっすらと見えてきます。しかしまた、「あはれとも……」を、伊尹の歌として再度見ると、客観的には自分勝手でも、身を滅ぼすような辛い思いに至る恋の一途さという点での魅力は高く評価されます。後鳥羽院が編んだ「時代不同歌合」でもこの歌は選ばれており、定家に示唆を与えた一首だと思われます。
この伊尹の子の義孝が詠んだのが4の和歌です。出典は「後拾遺集」恋二で、詞書は「女のもとより帰りてつかはしける」とあり、恋人に逢った翌朝に送る、当時の恋歌で典型的な後朝(きぬぎぬ)の歌です。あなたに逢ったことが嬉しくて、またすぐにも逢いたいけれど、逢えるなら惜しくないと思った命までも、長くあってほしいと思うようになりました、という歌です。恋の喜びを単純率直に詠み、若々しさ溢れる真実味ある歌です。
義孝は短命で、21歳で疱瘡のために亡くなりました。その死は劇的で、朝に兄・挙賢が亡くなった同日の夕べのことでした。そのため挙賢を前少将、義孝を後少将という呼び名も生じました。美男の貴公子の早世のためか、「大鏡」では義孝について丁寧に記述されています。まず、死を前に義孝は、法華経を読み続けるため必ず蘇生するので通常の葬送をしないようにと母に告げます。にもかかわらず、動転した母は約束を守らなかったため蘇生は叶わなかったが、ある阿闍梨や親しんだ貴族の夢の中に極楽に往生した義孝が現れた、とあります。また、生前の義孝は、宮中でも他の若い貴族達のように女房達と親しむようなことはなく、法華経を歩きながらでも読み、西に向かっては額を何度もついていた、そうした姿の美しさと尊さを言葉を尽くして讃えています。
このように、義孝が若く純粋な心の持ち主なればこそ、信仰にひたむきであり、恋をしても一点の陰りもない素直な詠風を示したと思われます。そして、その短命であったことが、この歌の「…命さへ長くもがな…」との思いに結びついて、読者を強く惹きつけてやまないのでしょう。定家もそうした読者の一人と考えて良いと思います。
二組の上流貴族親子の恋の歌を見てきました。彼らは生活上ではまったく憂いなどない立場ですが、恋に関しては思いの外に苦戦し、そこから恋を歌一首にかけて詠みました。これらの表現には俗な夾雑物がなく、率直な主張に高い共感性も得られる和歌です。
父の影を負った貴公子の恋歌
同じ上流貴族ですが、父の歌はなく、子のみの歌を2首見てみましょう。どちらも父の穏やかならざる影を負った息子のようにも見えます。
〈逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりける〉 権中納言敦忠(43番)※5
〈今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな〉 左京大夫道雅(63番)※6
まず、5の出典は「拾遺集」恋二で、詞書は「題しらず」です。しかし、この集の基となった「拾遺抄」にもあり、直前の別人の歌に「はじめて女のもとにまかりて、又の朝につかはしける」とあるので、これは、初めて恋人と一夜を明かした翌朝に詠んだ後朝の歌とも推測されます。また、後に編まれた家集「敦忠集」では直前に、
〈いかにして かく思ふてふ ことをだに 人づてならで 君に語らむ〉
という、後の6に似た、何とかして、このように思うということだけでも人づてでなくあなたに伝えたいという切ない恋の歌があって、その詞書が、「御櫛笥殿の別当に忍びて通ふに、親聞きつけて制すと聞きて」とあり、一連とも見られます。「御櫛笥殿(みくしげどの) の別当」とは、天皇の装束を用意する所で長となった人で、敦忠には叔父である仲平の娘で、従妹の明子かと言われています。彼女との仲は叔父に恋を阻まれ、それを苦にしてこの歌が詠まれたとされています。「いかにして…」も「後撰集」恋五に入り、他に「大和物語」にも、その折の歌が見えます。
敦忠は和歌管絃に優れた美貌の貴公子で、恋も多く伝わり、相手として他には醍醐天皇皇女で斎宮の雅子内親王と右近がよく知られます。右近の、
〈忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな〉
は、「百人一首」の38番ですが、「百人秀歌」では、「逢ひ見ての…」の直前に位置し、「拾遺集」恋四及び、「大和物語」八四段にもあって、敦忠との関係で詠まれたものとされています。あなたに忘れられる私のことは構わないのです。ただ二人の仲を誓いながら離れて行くあなたの命が神罰を受けることが惜しいのです、と敦忠との恋の破局が知られる内容です。
敦忠の父は、菅原道真の太宰府左遷の首謀者とされる左大臣藤原時平です。母親は在原棟梁の娘という人物で大変な美人だったらしく、元は時平の叔父・国経の妻だったのを時平が強奪したとされ、このことは、谷崎潤一郎の名作「少将滋幹の母」にも描かれています。道真左遷後の朝廷では内裏に落雷して公達の幾人もが死んだり、疫病が流行したりと様々な不幸が連続し、多くの貴族、そして醍醐天皇まで死を早め、それらのすべては道真の怨霊のせいとされました。時平自身も短命で39歳で没しますが、敦忠も「我は命短き族なり」(大鏡)と言って、父に同じ39歳で亡くなります。
敦忠の歌を定家は特に好んだのか、28歳だった文治5(1189)年3月の「重奉和早率百首」で、
〈逢ひ見ての 後の心を まづ知れば つれなしとだに えこそ恨みね〉
と、本歌取りして詠んでいます。恋する人に逢ってからの辛い思いが先にわかるから、相手がそっけないなどと恨み言すら言えません、という内容です。
最後の6は、このコラムで7回目に三条院を中心に紹介した時にも引用した歌です。出典は「後拾遺集」恋三です。詞書が長いので要点を訳せば、斎宮を終えた人に忍んで通っていることを父・三条天皇がお聞きになって番人を付けたので、通えなくなって詠んだということです。女は三条天皇皇女当子内親王です。今となっては、恋しさを断ち切りますとだけでも、人を介してでなく直に本人に言うすべがほしいです、というものです。
道雅は、中関白藤原道隆の孫です。道隆の長女・定子は一条天皇の中宮となり、妹も東宮に入内します。ちょうどその頃が中関白家の全盛ですが、急転直下、その直後道隆が亡くなり、長男の伊周は叔父・道長との政争に敗れ、中関白家は没落します。伊周は、まだ十代の我が子・道雅に、他の貴族の家人になるような恥をさらすことのないように遺言して、37歳で没します。道雅は家柄こそ高貴でも実体なく、心のすさみを想像させるように荒三位と呼ばれます。その道雅とやはり道長に敗れた三条院の皇女との恋ですが、病床の院の怒りは大きく、当子内親王は出家して4年後に23歳の若さで亡くなります。道雅にとっても痛恨の恋の終わりでした。
定家は「千五百番歌合」で、道雅の歌を本にして、次のように詠んで勝を得ています。
〈忘れねよ これは限りの とばかりを 人づてならぬ 思ひ出も憂し〉
忘れて下さい、これが最後ですとだけも人を介さず言えない思い出も辛い、という内容で、定家にとっての道雅の歌へのオマージュとも思えます。
敦忠の歌と道雅の歌は、どちらも恋人の父親に仲を阻まれて悲恋に陥って詠まれたという共通点があります。あるいは、これらの歌は単なる恋歌というより、それぞれの家系を背負い、恋を阻んだものとして、その時代の抗えない大きな権力まで想像させて、それが二人への哀れをいっそう誘うようにも思います。
今回紹介した和歌の作者は身分の高い貴族達で、紀貫之や藤原定家などの専門歌人という人ではありません。日常的生活の中で折に触れ和歌を詠み、その延長の範囲で伊尹のような虚構的創作に向かう場合もあったと考えるべきでしょう。それは言わば生活が、あるいは人生が美的な和歌を詠ませたとも言えます。優雅な上流貴族の生活の中の和歌の有り様こそが王朝文化の華やかで豊かな実りであり、それらを強く哀惜する心が「百人一首」に入れたのだろうと考えられます。
《参照文献》
百人一首の作者たち 目崎徳衛 著(角川書店)
百人一首研究必携 吉海直人 編(桜楓社)
百人一首の新考察 吉海直人 著(世界思想社)
後撰和歌集・拾遺和歌集・後拾遺和歌集 新日本古典文学大系(岩波書店)
大和物語・栄花物語・大鏡 新編日本古典文学全集(小学館)
一条摂政御集注釈 平安文学輪読会(塙書房)
外部リンクtenki.jp