実務家教員は確かに増えているが…(写真:Graphs/PIXTA)

上方落語家の桂文珍さんは、古典落語と新作落語の二刀流で知られる名人。新作落語ではサラリーマン(ビジネスパーソン)を題材にしたネタが多い。「デジタルお父さん」もその一つ。 その一節を紹介すると……。

「ビル・ゲイツも余計なものを作ってくれたもんや。窓際で働いているのにウインドウズはないでしょう」

(体を隣の机まで乗り出して、マウスを操作するしぐさ。)

「矢印が動かんな。(隣を見つめ)あっ、これ、あんたの(マウス)でしたか。いや、ごめんなさい。猫も杓子もマウス。こんがらがってます」

無駄口をたたいていると、もうすぐ(午後)5時に。

「もう5時でっか。残業もなければ、出世もないんです。さっさと帰らんと電車がドット(.)・コム(com.)、なんちゃって。はっはっはっ」

(※文章にするため、落語の口語体とは少し違う表現で記述。一部、発言順も変えた。)

文珍さんの新作落語は現代社会に対する風刺(ユーモア)が真骨頂だが、皮肉ながら笑えない話である。

リストラを断行する企業が増えた

大企業でも役職定年制が一般化している。定年退職前になると、早ければ50代前半には、部長や課長といった役職がとれ、給料が激減する。部下がいなくなるどころか、元部下の下で働く光景もめずらしくなくなってきた。

一方では、「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」(高年齢者雇用安定法)の一部が改正となり、2021年4月1日から施行された。これにより、65歳以上70歳未満の社員への就業確保措置が努力義務となった。努力義務としたせいか、企業側はあまり努力していないようだ。中小企業よりもむしろ大企業のほうが後ろ向きである。

前述の落語のセリフを借りれば、「残業もなければ、出世もないんです」と思いながら適当に働く(働かない)テキトーおじさんが大量に居残ることに企業経営者は不満を口にする。若手社員の目には、ポストと賃金を奪われる目の上のたんこぶ的存在に映っているのだろう。そこで、和製英語として定着した「リストラ」(早期退職制度)を断行する企業が一挙に増えた。

リストラに応じず65歳定年まで会社に残ったとしても、これまでの職務経験を生かしたキャリア人生を継続できるのだろうか。そのような人は比率的少ない。65歳定年とは名ばかりで、60歳が実質上の定年。それ以降は、1年更新の再雇用という雇用形態で、さらに減った賃金で処遇される人がほとんど。仕事も経験が生かせる内容であるとは限らない。

このような処遇と職場環境に満足せず、65歳を前にして退職していく人は少なくない。現状でさえこうなのだから、70歳まで働くとなると、同じ会社に残り続ける人がどれほどいるのだろうか。

同じ会社に残り続けるのではなく、これまで培ってきた能力を生かせる場があれば、心機一転したいと考えるシニアは多いのではないか。身体と頭を使い、人との交流を保ち続けられるという点で、医学的にも仕事は健康管理に役立つとされている。実力を存分に発揮したいと考えながら、押し付けられた仕事をこなすだけの毎日にストレスを感じてしまったのでは本末転倒。心機一転するというのも、健康管理面においても良き一策になるかもしれない。

実務家の大学教員が増えている

とくに、高度な職業経験・技能を持つプロフェッショナルが、同じ会社で不満足な環境に置かれ、惰性で出勤する生活を強いられれば、疑問を抱くことだろう。そのような人たちが、脱会社の選択肢として希望する選択肢の1つが「大学の先生」である。知的欲求を満たせるだけでなく、自身の社会的経験を若い人に伝えられる適職に見えるのかもしれない。

そう思うとしても不思議ではない。「専攻分野におけるおおむね5年以上の実務の経験」「高度の実務の能力」(以上、文部科学省の規定)を有する「実務家教員」は年々増えている。

文部科学省・学校教員統計調査によると、2018年度に新規採用された大学教員1万1494人のうち、15%が実務家教員であった。これに非常勤の講師、客員教授(特任教授は専任である場合が多い)として、教壇に立っている教員を加えると実務家教員の比率はさらに高まる。

この傾向に拍車をかけているのが、既存の職業教育に主眼をおいた専門職大学院に続き、2019年度から発足した学部レベルの専門職大学である。専任教員のうち実務家教員の割合を4割以上、その担当授業科目が標準単位数の1割以上配置していなくてはならないという条件が定められている。

実務のプロフェッショナルをプロフェッショナルな実務家教員に育成する動きも見られるようになってきた。

文部科学省は、「持続的な産学共同人材育成システム構築事業」(2019年度)で、東北大学、名古屋市立大学、社会情報大学院大学、舞鶴工業高等専門学校を全国4拠点の実務家教員育成の代表校に選定した。

この背景には、高校から進学した大学生に実務教育を施すだけでなく、「人生100歳時代」と言われる高齢社会、多くの仕事をAI(人工知能)が代替して人間に時間的余裕が生まれる「Society 5.0」の到来を見据えて、社会人のリカレント教育(学び直し)を拡充しなくてはならない、という文部科学省の思惑もある。

このような流れに沿って実務家教員が増えてくることだろう。そこで気になるのが、ビジネスパーソンが無意識に使う「大学の先生」である。彼らは、表層的イメージに基づいて、「大学の先生」を誤解しているのではないかと心配になってくる。

確かに、大学教授は学内外で「…先生」と呼ばれるので、未経験者は自分が大学時代に見てきた先生を思い浮かべがちである。それは、小中高の先生と同様、教壇に立ち教えている姿である。だから、これまでの培ってきた経験について話せば、「先生稼業」も務まるのではないかと思っている節がある。

実務家教員は必ずしも博士の学位を持っていない

だが、同じ「大学の先生」であっても、専任と非常勤に求められる条件の差は大きい。今さら言うまでもないが、専任ともなれば高い研究能力が求められる。今や、大学院博士課程後期を修了した純粋培養型研究者の多くは博士を取得しており、専任教員として採用される場合は、博士を持っていることが必須条件にもなってきている。

ところが現状を見る限り、実務家教員の場合、必ずしも博士の学位を取得しているとは限らない。とはいえ、社会人大学院などでは、「なぜ、修士論文を指導している教授が博士を持っていないのですか」といった意見が学生から聞かれることもあり、近年では、博士を持つ実務家教員も増えた。

だから、実務家教員と一口に言っても、実態はさまざまである。中には、純粋培養型研究者顔負けの学究生活をしている人もいる。筆者の元同僚は、大手企業で現場、管理部門でリーダーを務めた後、働きながら大学院で学び博士を取得。その後、国立大学の教授、学会の会長も務め、現在は、ある私立大学の学長職にある。

ところで7月7日、大手テレビ局で解説委員を経て、東京の女子大学で教授を務めていた実務家教員が不祥事を起こし、懲戒解雇、逮捕された。この事件が大変話題になり、実務家教員を十把一絡げにして批判するかのような記事も見受けられた。この一件は、実務家教員のイメージを大きく棄損したのではないだろうか。

筆者は出版社勤務(ビジネス誌編集部)を49歳で退職し、神戸大学大学院経営学研究科助(准)教授を振り出しに大学の世界へ。そして、似て非なる「2つの世間(世界)」を経験し、世間が異なると、価値観、作法がこうも違うものかと痛感した。いや、筆者がジャーナリストであっただけに、その他の実務経験者に比べて、余計に違和感を覚えたのだろう。

似て非なる、と表現したのは、同じく調査(≠取材)し、記事(≠論文)を書いていながら、アウトプットに対する評価軸が大きく異なるからである。

「文章」の違い

専門によっても評価軸が異なるので一概には言えないが、ジャーナリストよりも、一般企業のビジネスパーソンや技術者、証券アナリスト、経営コンサルタント、シンクタンク研究員のほうが、大学の世界と親和性が高いようだ。その最大の要因は「文章」である。

ハイエンドなジャーナリストには、研究者並みの知識を備えている人もいる。そのような記者も、一般の人、ひいては中学生でも読めるような読みやすい文章で書くように心がけている。あるジャーナリストが言った。「頼まれても、研究者のように読みにくい文章は書けない」と。一方、ジャーナリスト以外の職業を経験した人たちは、研究者に納得してもらえる難しい文章を書くことに抵抗がない。

実務家が大学に採用してもらうためには、教授会で承認される業績(学術論文・著書など)を提出しなくてはならない。その際、証券アナリストやシンクタンク研究員であれば、アナリスト・レポートやシンクタンク発行の論文集を執筆ずみである。

このような文章を見れば一目瞭然だが、ジャーナリストが書いた記事よりもはるかに、大学の研究者が書いた論文に似ている。それらの中には、内容を深化させ、査読付きの論文として学術誌に掲載されるケースも少なくない。

それに対して、ジャーナリストが書いた文章は、一般の人にとってわかりやすくても、研究者の目から見れば、「単なる記事」であり、業績書類では「その他」の項目に入れられてしまう。採用を審査する教授会では、「このようなエッセイも業績として認めるのですか」といった発言さえ飛び出すこともある。つまり、研究者とジャーナリストは、同じ文章を書く仕事ながら「似て非なる存在」とお互い思っていると言っても過言ではない。

学務と実務も似て非なる

経営学であれば、ケース・スタディ(事例研究)という手法が、研究、教育双方で用いられるが、その技法であるビジネス・ケース・ライティングも、商業雑誌、一般書籍などで良しとされる価値観がまったく通じない場合がある。この点については、拙著『ビジネス・ケース・ライティングの方法論的研究―ジャーナリズムと経営学のフロンティア―』でも詳しく解説している。

ここまで読むと、専任になっても、教育に加えて研究さえしておけばいい、と思われたかもしれない。しかし、そうは問屋が卸さない。現在の大学では、「学務」なる事務作業がどんどん増えている。教務、入試などさまざまな仕事を任されるが、重い役割を担うと研究する時間を確保するのも難しくなる。

筆者は前任校の私立大学で経営学部長を2期4年務めたが、どれほど多くの会議に出席し、諸案件、トラブルに対応したことか。メールをはじめとする雑文書きにも多くの時間を割いた。その総字数を換算すれば、論文が何本か書けたのではないかと思いたくなるほどだ。


近年、小中高の先生がサービス残業に追われているという話題が注目されているが、「大学の先生」もどんどん、小中高の先生と化している。2022年度から「18歳から成人」が法制化されたとはいえ、昨今の大学では、父兄と学生を交えた3者面談なるものまで行われるようになった。相変わらず、成人になっても「うちの子は…」なのだ。おまけに、受験生確保のために、職員だけでなく教員も入試案内を持って高校回りも行っている。

専任になれば、助教、講師、准教授、教授の肩書の違いはあれ、学務を担わされる。この仕事は実務出身者にとっては違和感なくこなせそうに思われるが、実際、取り組んでみると、大学という世界は、ビジネス社会とはかけ離れた「異次元の世間」であることに気づくだろう。学務と実務も似て非なるものなのだ。

シニアだけでなく、若手にも「退職後、大学で教えてみたいのですが」と口にする人が多いが、大学という「世間」は、そんな甘い世界ではない。経験者は語る、である。

(長田 貴仁 : 流通科学大学特任教授、事業構想大学院大学客員教授)