牛島和彦インタビュー(中編)

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中日、ロッテで14年間プレーした牛島和彦氏

魔球フォーク、誕生秘話

── 牛島さんは1979年ドラフト1位で、浪商高校から中日ドラゴンズに入団しました。入団当初、プロでやっていく自信、手応えはありましたか?

牛島 全然レベルも違うし、手応えはなかったですよ。キャンプ初日に肉離れしたら、いきなり星野(仙一)さんに、「荷物まとめて、大阪に帰れ!」って怒鳴られましたから(笑)。体調が戻ってブルペンに入ったら、両隣が小松辰雄さんと鈴木孝政さん。どちらも速球派のピッチャーでしょ。それにパームボールを投げる藤沢(公也)さんもいたし、アンダースローの三沢(淳)さんもいて、「こんなん絶対無理や」って思っていました。

── 牛島さんと言えば、フォークボールが決め球でしたけれど、これはプロ入り後にマスターしたそうですね。

牛島 プロ入りの時はストレート、カーブ、そして落ちないフォークを投げていました(笑)。僕の場合、指が短いから挟むとうまく抜けないんです。1年目のキャンプで「フォークの神様」の杉下茂さんにフォークを教わったんですけど、そもそも手の大きさが全然違う。ちょっと、僕には合わなかったですね。

── のちの「落ちるフォーク」はどのように習得したのですか?

牛島 一時期は本気で「指の股を切ろうかな?」って考えましたね。で、どうにかしようと思って、時間があればずっと指をグニャグニャ揉んでいたんですよ。そうしたら、ものすごく腫れて、「あっ、マズいな」と思っていたんですけど、腫れが引いたら指がグニャグニャ動くようになって、自由に関節が外れるようになったんです。

── 関節を外すことによって、深くボールを握れるようになったんですか? 痛みとか、後遺症とか、大丈夫だったんですか?

牛島 そもそも、関節を外そうとは思っていなくて、「もっと緩くならないかな?」ってストレッチ感覚だったんですけど、なぜか自由に関節が外れるようになって、いくら乱暴にやっても何も痛くない。ボールを握ると自然に外れて、すぐに元に戻る便利な指が出来上がって、そこからフォークボールがよく落ちるようになった。それがプロ3年目のことで、その年に抑えとして17セーブで優勝に貢献したんです。手術しなくてよかったですよ。もし、切って縫っても、投げているうちにまた裂けてきただろうし(笑)。

「気の強いイメージ」を演出

── プロ入りして、中日時代には中利夫、近藤貞夫、山内一弘監督の下でプレーしました。印象に残っている監督はいますか?

牛島 監督というよりは、ピッチングコーチにはいろいろなことを教わりました。入団時の稲尾和久さん、権藤博さんがとくに印象に残っていますね。稲尾さんにはピッチングについて、権藤さんからはメンタル面について、いろいろなことを教わりました。

── プロ1年目のミーティングの際に、稲尾コーチからの「9回二死満塁、カウント2−3(2ストライク3ボール)からどんな球を投げるか?」という質問に対して、「どんな状況によって、2−3になったかによって投げるボールは変わってくる」と、ルーキーだった牛島さんが答えたことが伝説になっていますね。

牛島 このミーティングはよく覚えています。僕の場合、高校時代から「これ」といった決め球がなかったんです。真っすぐは速くない、カーブはちょっとしか曲がらない、で、フォークは落ちない。高校時代からずっと状況や過程を意識しながら投げてきたので、当時考えていたことをそのまま答えただけなんですけどね(笑)。

── かなり意識の高い高校生だったという証明ですね。

牛島 配球を考えずに抑えられるピッチャーじゃなかったっていうことですよ。高校3年春のセンバツで、準々決勝の川之江高校戦は延長戦220球を投げて、準決勝の東洋大姫路高校戦では150球投げて、次の決勝の箕島戦では全然投げられなかったんですよ。そんなこともあって、当時から身体の負担を少しでも軽くするために、「フォアボールは出さない」とか、「なるべく早めに打ちとる」とか、そんなことをずっと意識していたからだと思いますね。

── 一方の権藤さんとはどのようなやりとりがありましたか?

牛島 権藤さんからは、「打たれても、下を向くな。ベンチの上のお客さんの顔を見ながら、堂々と戻ってこい」って言われましたね。おかげで、「牛島は生意気なヤツだ」とか、「アイツは気が強い」と言われたけど、そういう印象づけをしたかったんだと思います。一度、「オレの足元にグラブを叩きつけろ」と言われたこともありましたね。

── どういうことですか?

牛島 ピッチング練習をしていたら僕の横に権藤さんがやって来て、「おい、オレの足元にグラブを叩きつけて、そのままロッカーに帰れ」って言うんです。そして、「これで、おまえ、明日の新聞の一面だぞ」って。だから、実際にやりましたよ(笑)。今から思えば、それはイメージづくりだったんでしょうね。「コーチに反抗するほど、牛島は気が強い」というイメージをつくりたかったんだと思います。

星野仙一にかわいがられた日々

── 当時現役だった星野仙一さんにも、すごくかわいがられたと聞きました。

牛島 入団以来、星野さんはずっとかわいがってくれました。当時、一軍ベンチでは僕が最年少だったんで、タオルを出したり、水を用意したり、いろいろ星野さんのお世話もしました。途中降板して、星野さんが投げつけて割れてしまった湯飲み茶碗を片づけるのも僕の役目でした。だから、途中から陶器製をやめて割れない湯飲みに変えました(笑)。すぐに元の割れる湯飲みに戻したけど。

── どうして、わざわざ割れる湯飲みに戻したのですか?

牛島 星野さんが湯飲みを投げつけた時に割れなかったんです。いくら投げつけても割れないから、星野さんがさらに怒って、「オレが金を出すから、割れる茶碗を買ってこい!」って言われたので、元に戻したんです(笑)。

── 当時、現役選手だった星野さんはまだまだ血気盛んでしたでしょうからね(笑)。

牛島 ある時、試合途中に星野さんがいなくなったんです。試合中なのに、姿を消してしまって、ベンチ内では「星野がいないぞ!」って大騒ぎになったんです。僕ももちろん探しに行ったんですけど、お風呂で音がしたので覗いてみたら星野さんがいたんです。

── まだ「交代」を告げられたわけではないのに?

牛島 そうです(笑)。でも、もう星野さんはお風呂に入っていて投げられないから、「おい、誰が次投げるんだ?」となるわけです。すると、みんなが僕を向くわけです。いちばん若かったから。それで、僕が急遽登板することになったんです。

── 心も身体も準備できていない、まさに緊急登板ですね。

牛島 だから、権藤さんに言われましたよ。「投球練習後に、次の打者、その次の打者と二人フォアボールを出していいから、その間に肩を温めろ」って。それで、「ノーアウト1、2塁の場面から0点に抑えろ」って(笑)。

── さて、その星野さんが87年シーズンから中日の監督となりました。就任当時は39歳の青年監督の誕生でした。

牛島 星野さんにはずっとお世話になっていましたから、僕としても「よし、オレも星野さんのために頑張るぞ」という思いでした。でも、そこでいきなりトレードの話が飛び込んできたんです......。

── 今もなお伝説に残る「1対4トレード」ですね。ロッテ・落合博満に対して、中日からは牛島さんを筆頭に、上川誠二、平沼定晴、桑田茂の1対4という前代未聞のトレード劇でした。この一件については、ぜひ次回お尋ねしたいと思います。

牛島 あの時は本当に驚きました。このトレードについては、次回お話ししましょうか。

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