遊女に入れあげた末に左遷され、後に心中。家を滅亡させた上級旗本がいる。通称・藤枝外記こと、藤枝教行(のりなり)である。

 教行は加賀松任城4万石の城主だった戦国武将・徳山則秀の子孫・徳山貞明の8男として生まれ、後に親戚の藤枝貞雄の養子となった。

 藤枝家は無役の旗本寄合席だったが、知行4500石を誇る上級旗本の家柄。教行が当主の時代でも、4000石だった。1石は約150キロ。4000石は60万キロに相当する。現在の価格では、米10キロは約5000円。4000石の旗本は、年俸3億円の高給取りということになる。

 教行は19歳になるみつという妻と貞吉ら4人の子供がいながら、新吉原の妓楼・大菱屋抱えの遊女・綾絹(綾衣)と深い仲になった。

 だが、その話がいつしか、幕府のお偉方の耳に入った。武士が遊女に熱を上げるとは何事だ、という話になり、甲府勤番支配に回されることが決まる。聞こえはいいが、当時の甲府勤番は、武士にとっては島流しのようなもの。左遷以外の何物でもない処分だった。

 その上、綾絹に身請け話が持ち上がった。相手は裕福な商人だといわれている。いくら高給取りの教行でも、財力では太刀打ちできない。

 もう会うことができない…と思い詰めた教行が取った行動は、綾絹の足抜け=脱走だった。

 遊郭からの脱走は重罪だ。すぐに追っ手に見つかり、進退窮まった教行は「もはやここまで」と、綾絹を刺殺。自身も後を追い自害してしまった。心中である。場所は現在の台東区三ノ輪、当時の箕輪にある餌指(鷹狩りで使用する鷹の餌となる小鳥などを捕まえる役)の家ともいわれている。教行28歳、綾絹は19歳だった。

 ワリを食ったのは、残された家族だ。当時、心中は「相対死」と呼ばれ重罪だったため、隠蔽工作が行われたが、発覚。教行の母である本光院と妻みつは、一定期間幽閉される刑罰の、押込処分を受けた。

 その上、上級旗本の藤枝家は武士の身分を剥奪され、武蔵国と相模国内にあった4000石の領地と、湯島妻恋坂の屋敷も没収される改易処分となった(写真=藤枝教行の屋敷があった湯島・妻恋坂にある「妻恋神社」)。家が潰れてしまったのである。

 この事件は現代ならワイドショーの格好のネタだが、当時もセンセーショナルな話題だった。本来は4000石だが、語呂がいいため「君とぬやるか(寝ようか)五千石とるかなんの五千石君とねよう」という端唄もでき、大はやりしたという。

(道嶋慶)