今回は以前ご紹介した「江戸時代の貴重な忍術書に書かれていた変装術「七方出」や「忍者六道具」とはどんなもの?」に続いて、「歴史上有名な人物が実は忍者だったのでは?」という説をご紹介します。

伊賀の血を引く松尾芭蕉

いわずとしれた俳諧の超・超・有名人ですよね。

芭蕉は実は伊賀国生まれで、父親は忍者と関係が深い無足人という名字帯刀を許された準士分の上層農民でした。

また、母親は伊賀の三大上忍の一人である「百地氏」の家系です。

その二人から生まれた芭蕉。

出自が伊賀だったこと、『奥の細道』で毎日40キロ近く歩く体力があったことや、全国をめぐる旅費が相当必要だったであることから、忍者説が生まれました。

確かに、『奥の細道』のために行脚した頃にはもう名を馳せて各地にパトロン的な存在がいたとしても、資金を工面するのは大変なことでしょう。

俳諧の天賦の才能がある芭蕉に、旅費を工面する代わりに各地の様子を報告するという話を幕府が持ち掛けたとしてもおかしくはありません。

「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良(森川許六作、Wikipediaより)

能楽師・観阿弥は楠木正成と伊賀・服部氏の血を継ぐ?

能楽堂にて(1891年、尾形月耕、Wikipediaより)※イメージ

観阿弥・世阿弥といえば有名な能楽師。彼らもまた、伊賀出身の可能性があります。

昭和37年に発見された「上嶋家文書」には、伊賀服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、母親は楠木正成のきょうだいだと記されています。

そのことから、観阿弥・世阿弥は南北朝時代は北朝側の足利将軍に仕えましたが、実は楠木正成のいる南朝側に仕えたスパイだったのでは?という疑惑があります。

子孫の観世太夫にはこんなエピソードもあります。

三代将軍・徳川家光と剣術指南の柳生宗矩が、観阿弥の子孫・観世太夫の能を鑑賞していたときのこと。

家光が何を思ったか「隙があれば、観世太夫に斬りつけてみろ」と宗矩にもちかけます。腕試しをしたかったのでしょうが、宗矩は能が終わるまで動けませんでした。

そして「大臣柱で隈を取った時にわずかに隙があったので、あのときなら斬れたかもしれません」と家光に白状します。

そして観世太夫も、同じ瞬間に「殺気を感じたが、あれはだれか?」と付き人に質問しました。

それを聞いた家光はさすがだと二人の極意に感心したといいます。このことから観阿弥・世阿弥やその子孫は「ただの能役者」ではなかったということなのでしょう。

各地にネットワークを持つ能楽師と、全国行脚を許された俳諧師。幕府が隠密として利用してもおかしくはないですね。

参考:忍者の教科書−新萬川集海(笠間書店、伊賀忍者研究会/編