時は天正10年(1582年)6月2日。京都・本能寺に滞在していた織田信長(おだ のぶなが)が、重臣の明智光秀(あけち みつひで)に襲撃され、命を落としてしまいました。いわゆる「本能寺の変」です。
戦国乱世を駆け抜けた偉大なる英雄の退場。あまりにもあっけない死に衝撃を受けた人々は、この謀叛は光秀の単独犯行でなく、光秀を陰で操る「黒幕」がいたと提唱します。
では、信長を歴史から抹殺した「黒幕」とはいったい誰なのでしょうか。
日ごろ一番の忠義ヅラをしていた羽柴秀吉(はしば ひでよし)か。
それとも愚直に寄り添っていた盟友の徳川家康(とくがわ いえやす)か。
あるいは京都を追われ、室町幕府の復活を企む足利義昭(あしかが よしあき)か。
もしかしたら、武家から権威を取り戻したかった朝廷のご意向か。
中には日本やアジア征服を企んでいたというイエズス会が……なんて説まで。
放っておいたら「宇宙人説」とか「フリーメイソン説」とか出て来そうですが、そもそも本能寺の変には黒幕なんかいなかったんじゃないでしょうか。
今回は各種の黒幕説に共通する特徴と共に、じゃあ光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのか、その動機を紹介したいと思います。
本能寺の変「黒幕」説・5つの特徴
ここで各種の黒幕説を紹介すると恐ろしく長くなってしまうため、まずは結論となる特徴を並べていきましょう。
一、黒幕はどうやって光秀に信長暗殺をそそのかしたのか?その説明がない。
ニ、信長暗殺はいつ・どのように実行するのか?具体的な計画がない。
三、光秀が信長暗殺に同意しても、光秀の重臣たちはどのように説得したのか?
四、黒幕たちは信長暗殺の前後に光秀を支援している形跡がない。
五、黒幕がいたという裏づけ史料がまったくない。
三と五については黒幕の有無に関係なく、また四については何が支援なのか定義があいまいなため、あえて言及しなくてもいいでしょう。
黒幕からの指令(イメージ)
しかし一とニは黒幕の有無を論じる上で決定的なカギとなります。黒幕説は、光秀が事前から信長暗殺を計画し、他勢力と連絡をとりあっていることが前提だからです。
まず黒幕が光秀に「信長を討てor討とう」と勧誘・説得し、光秀が同意したら初めて計画段階に移行できます。
しかし光秀が必ずしも承諾するとは限らず、何なら信長に黒幕による信長暗殺の意図を通報してしまうリスクもあるでしょう。そうなったら一巻の終わりです。
(暗殺の意図がバレても堂々とできるほどの勢力を持っているなら、そもそもリスクを冒して光秀をそそのかすなどせず、自ら信長暗殺を主導するでしょう)
まぁ、そこは幸運にも光秀が同意してくれたものとします(実際に暗殺を決行していますし、まったく殺意がなかったということもなさそうですから)。では、信長暗殺はいつ決行するのでしょうか。
「そんなの6月2日に決まってるでしょ?」
「何か完璧な計画があって、それを実行したから成功したんでしょ?知らんけど」
なんて思う方がいるかも知れませんが、それは結果を知っているから言えるのであって、信長暗殺が高確率で成功する(計画を決行できる)条件が揃うかどうかを事前に予測するのは非常に困難(というより、現実的に不可能)なのです。
あり得ないほどの好条件がたまたま出現
信長暗殺が成功するであろう条件を考えると(1)織田家の有力武将がみんな畿内(信長の近辺)から出払っており、かつ(2)光秀だけが畿内で大軍を率いていることが必要になります。
じゃあ当時はどうだったのでしょうか。中国地方の毛利氏と戦っている羽柴秀吉、北陸地方で上杉氏と戦っている柴田勝家(しばた かついえ)はともかく。他の武将たちが畿内から出払ったのはつい最近のこと。
滝川一益(たきがわ かずます)が北関東方面へ向かったのは天正10年(1582年)3月、織田信孝(のぶたか。信長の三男)・丹羽長秀(にわ ながひで)が四国に出陣したのは同年5月7日。
そして光秀が秀吉の援軍として中国地方への派遣を命じられたのが同年5月17日。つまりそれ以前には軍勢を集めることが出来ません(理由なくそんなことをすれば、それこそ謀叛を疑われるため)。
信長の後継者として織田家を主導していた信忠。総見寺蔵
さらに5月17日から兵を集めても、信長は既に家督を嫡男の織田信忠(のぶただ)に譲っており、信長だけ討ったところで信忠によって鎮圧されてしまうでしょう。
となると謀叛の成功には先ほどの条件に「信長と信忠を同時に討てること」を追加しなくてはならないのです。
「畿内に無防備な信長・信忠父子、そして大軍を擁する光秀だけがいる」
そんな都合の良すぎる状況を前提とした暗殺計画を立てたところで、何の実現性もない……と思っていたところ、それがたまたま起こった(※)からこそ、光秀は間髪入れず「本能寺の変」を決行したものと考えられます。
(※)徳川家康を接待するため、堺へ向かおうとしていた信忠が、父・信長を迎えるため京都に留まっていたのでした。
【後編へ続く】
※参考文献:
呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年3月外部リンクJapaaan