なぜ日本人の給料は上がらないのか。多くの日本企業の変革を支援してきた柴田昌治さんは「日本人は、会社に忠義を尽くすことで高度経済成長を支えてきた。しかし今は、その『まじめで勤勉』な性質が日本経済の停滞を生んでいる」という――。

※本稿は、柴田昌治『日本的「勤勉」のワナ』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

■努力が生産性の伸びにほとんど結びついていない

他の競合国がこの数十年の間に急速に生産性を伸ばしている中で、日本も懸命の努力は続けているのですが、その努力がバブル崩壊後の生産性の伸びにはほとんど結びついてはいない、という厳しい現実があります。

生産性とは、投入した資源(労働など)に対する創出した「付加価値」の割合です。より少ない資源からより多くの付加価値が得られるほど、より生産性が高いという関係になります。生産性を高めるのは、豊かな社会を創り上げるためであり、そのためには無駄な「動き」を減らし、価値を生み出す「働き」の部分を増やすことが必要なのです。

しかし、約30年前のバブル崩壊以降、日本の給料はまったく上がらず、世界の水準から取り残されてきている、という事実があります。今、そのことがようやく問題だと認識され始めています。

努力は必死に続けているにもかかわらず、給料の水準は伸びていない。この厳しい現実は、努力の方向性が間違っていることを示しています。

■社会全体として新しい価値を生み出せていない

その前提にあるのは、高度経済成長期以来、日本の得意だった経済モデルが通用しなくなってしまったことです。すなわち、日本の代わりを圧倒的に安い人件費でやってしまう国々が、一瞬のうちに世界市場を席巻してしまったのです。従来通りの日本的モデルでは、成り立たない時代になったことが明白になっています。

一方、世界では、米国を中心にデジタル化が急速に進んでいきました。日本も相応の努力はしているのですが、結果として一歩も二歩も後れを取っています。

確かに、個別に見れば素晴らしい結果も残してはいるのですが、残念なことに全体として見れば、新しい価値を生み出せていないのが日本の実態なのです。

今、私たちにいちばん必要とされているのが「創造性」です。しかし、それが当たり前になっていないところにこそ、問題があるのです。

なぜ創造性というものが当たり前になっていないのか。それは、みんなの力を合わせてものづくりに励む、という経済の高度成長を支えてきた旧来の考え方ややり方、いうなれば、ある種の文化が今もそのまま残っているところに問題が潜んでいます。

■「まじめで勤勉」が日本経済を停滞させている

日本人はまじめで勤勉です。この性格は経済の高度成長には間違いなく大きく寄与してきました。しかし、そこに問題が隠されている、ということです。つまり、「日本経済の高度成長を支えてきた、日本人が持つ職務に忠実な勤勉さこそが、今の停滞の主因になっている」というのが、約30年にわたって日本企業の変革の現場に身を置いてきた私がたどり着いた結論なのです。

では、この「職務に忠実な勤勉さ」とは、どのような中身なのでしょうか。詳しく見ていきましょう。

まだ記憶されている方も多いと思いますが、2017年2月から2018年3月にかけて、学校法人森友学園問題が日本中を騒がせました。中でも衆議院予算委員会等で、財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)が重ねた答弁は、私たちの記憶に何かおさまりの悪い感覚で残っています。

その答弁は、「交渉や面会の記録は速やかに破棄した」「電子データは短期間で自動的に消去されて、復元できないようなシステムになっている」などと、当時の政権を擁護する姿勢で終始一貫していました。しかし、佐川氏のそうした言動に対して、たいていの人は彼が実際にあったことをそのまま正直に言っているとは思っていないのではないでしょうか。

■「このようにふるまうべき」という信念が見えた

ただ、ここで私が問題にしたいのは、佐川氏の言っていることが事実に即しているかどうか、ではなく、彼が取った行動が彼なりの「規範を守り抜く」という信念に基づいていたように見えた、という点です。

佐川氏の答弁する姿勢に関して言えば、多少苦しげではありましたが、余計な迷いは見えませんでした。もし本当に悪いと思っているのなら、首は垂れるものです。しかし、首を垂れることなく堂々としていた。つまり、佐川氏には、「国家公務員たるものこのようにふるまうべきだ」という彼なりの信念があったということです。

彼の心のうちは想像するしかありませんが、「ことを荒立てて属している組織に混乱を起こすことよりも、穏便に済ますことのほうが最終的には日本のため、日本人のためだ」と考えていたのかもしれません。

このときの佐川氏は、私が日本に停滞をもたらしていると考える「職務に忠実で勤勉な日本人」の象徴のような存在です。彼のことを、お上に仕える「現代の武士」と呼んでもよいのではないか、とも考えています。

■組織が危うい状況になったとき、日本人はどうするか

詳しくは『日本的「勤勉」のワナ』(朝日新書)で解説していますが、私たちの組織人としての勤勉なふるまいは、武士の信条である「主君に対する忠義を尽くす」ことからすべてが始まっています。主君との関係性において忠義を尽くすことで、自らの「拠り所」(居場所)をつくっていたのが武士でした。

そして、そのような在り方は、私たち日本人の多くが会社に対して持っている姿勢にも通じるところがあるように思います。会社という存在がまさに自らの「拠り所」だということです。そのような傾向は、伝統のある規模の大きな会社や、日本の中心に位置する会社ほど強く残っています。

たとえば、もし会社に重大なコンプライアンス(法令遵守)上の問題が生じて、自分がどう動くかでその問題が世間の目にさらされるかどうかが決まる、という立場に置かれたならどうでしょう。

出世街道を順調に歩んでいる人ほど、「組織を守る」という規範を踏み外さないことが会社員としての大前提になっていることが多く、佐川氏と同じような行動を取る人がいたとしても不思議ではありません。実際、似たようなことは企業の中でも起こっています。

写真=iStock.com/Yagi-Studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yagi-Studio

■善悪よりも「組織を守る」ことが優先される

忘れてはならないのは、置かれている前提を問い直さず、どうやるかしか考えない姿勢は歴史由来であり、ある種の社会規範としてあまりにも深く根付いているために、誰もがそのことがもたらす意味の大きさに無自覚である、という点です。まさか自分が思考停止に陥っているなどとは考えたこともない、ということが往々にして起こりがちなのです。

少し前のデータですが、日本生産性本部が2018年度まで行なっていた「新入社員春の意識調査」の中に、「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるように指示されました。このときあなたは……」という問いがありました。これに対し、おおよそ4割程度が「指示の通り行動する」と回答しています。

過去最大だった2016年度にいたっては45.2%です。そして、「わからない」という回答が約半数、「指示に従わない」が1割程度というのがおおむねの傾向です。こうしたことを見ても、善悪はともかく、自分が属する組織を守るという姿勢を優先するのは決して例外的な話ではないということです。

■出世頭のエリートほど思考停止に陥りやすい

今の日本の主要な舞台で活躍している人たち、特に順調に出世街道を歩いている、もしくは歩いてきたような組織人たちは総じて、まじめで勤勉であればあるほど、上司が言っていること、先輩が言っていることがそのまま規範になり、どうさばくかしか考えない思考停止に陥っているのです。

日本人は、勤勉で粘り強く、結束力は世界一でありながらも、こうした「思考停止」に陥りやすいという“特異性”を持っています。それは、「運命として与えられた規範を耐え忍ぶ姿勢」にどこか親近感を持ち、それを率先垂範することを美徳とする、という一種の「勤勉美学」が組織の中に息づいている、ということでもあります。

柴田昌治『日本的「勤勉」のワナ』(朝日新書)

だからこそ、組織人としての規範から外れる行動を選ぶことは、日本人にとってハードルの高い課題になってしまうのです。傍観者としてなら、評論めいた批判を口にしやすいのですが、いざ自分が同じ立場になったとき、まわりを取り巻く環境のことなどを踏まえつつ、何ができるのか。自分のすることにどういう意味が生じるのか。

大切なのは、そういう状況に置かれたとき、自分も何も考えずに規範にただ沿ってしまうという思考停止に陥りがちである、という自覚をまずは持つことです。

「思考停止」とはどういうことなのか。自分、および自分のまわりでどのような影響、意味を持っているものなのか。それを本書で一緒に考えていきたいと思います。

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柴田 昌治(しばた・まさはる)
スコラ・コンサルト創業者
30年にわたる日本企業の風土・体質改革の現場経験の中から、タテマエ優先の調整文化がもたらす社員の思考と行動の縛りを緩和し、変化・成長する人の創造性によって組織を進化させる方法論〈プロセスデザイン〉を結実させてきた。近著に『日本的「勤勉」のワナ まじめに働いてもなぜ報われないのか』(朝日新書)がある。
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(スコラ・コンサルト創業者 柴田 昌治)