ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。

名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

クレオパトラ7世(紀元前69年〜紀元前30年8月12日、以下「クレオパトラ」と表記)は、言わずと知れた古代エジプトの女王です。約3000年間続いた古代エジプトにおいて、“女王”がクレオパトラただ一人だったわけではないものの、特出して有名ですよね。そして「美女伝説」も世界中に伝えられています。

クレオパトラの人生をひもとくと、そのあざとさに驚いてしまうようなエピソードが出てきます。権威のある人を巧みに引き寄せ、利用することで20年以上に渡り治世の座についていました。

また美女伝説にも所説あり、掘り起こせば起こすほど、「えっ、それってホント!?」「ビ、ビックリ」と驚かずにはいられないことが次々出てくる大変興味深い人なのです。

クレオパトラは「エジプト人」ではなかった!?

…と聞くとビックリしませんか?

「エジプト人ではない」言い切ってしまうとやや語弊がありますが、彼女の人種・民族的ルーツはエジプト(アフリカ)にはなかったと言われています。

クレオパトラはエジプトで生まれたエジプトの女王なので、その意味ではエジプト人です。しかし彼女自身の人種・民族的ルーツは、マケドニア系ギリシャ人。古代エジプトにはいくつもの王朝がありましたが、クレオパトラは「プトレマイオス朝エジプト(紀元前304年〜紀元前30年)」の統治者でした。

プトレマイオス朝エジプトは、古代ギリシャ人が建国した「古代マケドニア王国(現在のギリシャの北部)」出身のプトレマイオス1世(紀元前367年〜紀元前282年)が開いた王朝です。

ギリシャ風文化を指すヘレニズム国家であり、ギリシャ系の一族が代々統治してきたこの王朝の最後の女王がクレオパトラ。つまり彼女は人種・民族的にはギリシャ系なのです。

クレオパトラを描いた絵画や映像は多いですが、エジプト系やアフリカ系ルーツの容姿と異なるのは、こんな理由があるからなのです。

時の権力者2人を虜にクレオパトラの「引き寄せ」策略

クレオパトラはファラオ(古代エジプトの国王の呼称)であったプトレマイオス12世の娘として、首都アレクサンドリアで誕生。紀元前51年、彼女が17〜18歳のときに父が死去したため、父の遺言どおり幼い長弟・プトレマイオス13世(紀元前62/63年頃〜紀元前47年、即位当時10歳前後?)と共同統治者として即位しました。

その際、王朝の慣習により、女王はその兄弟と結婚しなくてはならなかったため、姉弟は結婚しています。

若すぎるファラオ(弟)の周りには廷臣たちがたくさんおり、実際のところはクレオパトラと廷臣たちとの統治。うまくいくわけがなく、お互いに「相手を追い出したい」と思っていたのです。

一人目の男性「ユリウス・カエサル」

当時共和制ローマが地中海全体を支配しており、エジプトもその配下にありました。共和制ローマには3人の権力者、カエサル、ポンペイウス、クラッススが「三頭政治」を行っていましたが、これが破綻。

そしてカエサルは、ポンペイウスをローマから追い出しました。ポンペイウスはエジプトを目指しましたが、紀元前48年9月29日、弟・プトレマイオス13世の取り巻きたちに殺害されてしまうのです。殺害理由は「きっと天下を取るであろうカエサルに恩を売るため」でした。

このポンペイウス殺害に、「カエサルが弟側についてしまったら、困る!」と焦ったクレオパトラ。彼女は何とかカエサルに会おうと策を講じます。そして自身の魅力で引き寄せ、“自分をプレゼント”という方法でカエサルの心を掴むことにしました。

「絨毯の中にくるまって」「寝具袋の中に入って」など諸説ありますが、彼女はカエサルへの贈り物の中に入りこみ、届けられた先で姿を現し、彼を誘惑したとされています。

そしてクレオパトラの策略は成功。カエサルはクレオパトラの願いを聞き入れ、彼女と弟側との仲介役を引き受けました。両者の和解は一時的に成立しましたが、本当の意味では何も解決していませんでした。

紀元前48年、弟・プトレマイオス13世側はカエサルとクレオパトラに戦争(アレクサンドリア戦争)を仕掛けます。この戦争より弟・プトレマイオス13世は戦死。カエサル&クレオパトラ側が勝利しました。

邪魔な弟を追い払ったクレオパトラでしたが、彼女にはもう一人、弟がいました。紀元前47年、彼女は次弟・プトレマイオス14世と結婚し、二人で共同統治することに。

アレクサンドリア戦争後もカエサルは9カ月間エジプトに滞在し、二人は贅沢三昧の生活を送りました。二人の間には息子・カエサリオン(紀元前47年夏頃〜紀元前30年)も誕生。紀元前47年6月、カエサルがローマに帰還すると、すぐにクレオパトラも息子と共にローマに向かいます。

ローマ帰還後、カエサルは独裁官に就任し、権力の頂点に立ちました。しかしカエサル独裁化に反対するブルトゥスらによって、紀元前44年3月15日に暗殺されてしまいます。

2人目の男「マルクス・アントニウス」

カエサルの暗殺により、身の危険を感じたクレオパトラはすぐにエジプトに帰国。不思議なことに同年、弟であり共同統治者であるプトレマイオス14世も死去します。これはクレオパトラが息子・カエサリオンをファラオにするため、弟を毒殺したとする説が強くあります。

紀元前44年9月2日、若干3歳のカエサリオンがプトレマイオス15世としてファラオに即位。クレオパトラは後見人として君臨しますが、治世は不安定でした。

共和制ローマも混迷状態。カエサル暗殺後、カエサルの部下であった武将マルクス・アントニウスとカエサルの養子・オクタウィアヌスが、激しい覇権争いを繰り広げていました。アントニウスはプトレマイオス朝エジプトの協力を得るため、紀元前41年にクレオパトラを小アジア(現在のトルコ共和国)のタルソスに呼び会見します。

後ろ盾がほしかったクレオパトラは、この会見でアントニウスを誘惑したと言われます。そしてアントニウスはあっさり骨抜きにされた…とも言われていますが、権力争いがうごめく中、二人が関係を持つことはお互いにとって好都合だったのでしょう。

そして二人の間には、3人の子ども(男女の双子、その後男児)が誕生。アントニウスは妻(オクタウィアヌスの姉オクタウィア)と離婚し、紀元前37年にクレオパトラと結婚。紀元前34年、アントニウスはクレオパトラを正式に「エジプトの女王」、プトレマイオス15世(カエサリオン)を「諸王の王」と宣言し、広大な領土も与えました。

なんだか…至れり尽くせりです。一見「クレオパトラ様の天下!」が成就したようにも見えます。

しかし、裏では不穏な動きも進行していたのです…。紀元前36年、アントニウスはパルティア戦争に敗北し、次第に宿敵オクタウィアヌスの勢力が増していきました。

紀元前31年、アントニウス・クレオパトラ連合軍はアクティウムの海戦に敗北。二人は別々に落ちのびますが、アントニウスは翌紀元前30年8月1日に自死してしまいます。

守ってくれる人がいなくなったクレオパトラは、必死にオクタウィアヌスに取り入ろうとしたようです。しかしオクタウィアヌスは誘いに乗らず、「第三の男」にはなりませんでした。捕虜となって監禁された女王クレオパトラ。ローマに移送されて見せしめにあうのを恐れ、紀元前30年8月12日、毒蛇に乳房を噛ませて自死しました。

クレオパトラ美人伝説はどこから?

「世界三大美人」と言えば、クレオパトラ、楊貴妃、そして小野小町ですが…これは日本でだけ言われていることなのです。東京大学・大学院の記事によると、明治時代中期頃からこの3人がひとくくりで「世界三大美女」と言われるようになったそうです。

海外でも、フランスの哲学者ブレーズ・パスカル(1623〜1662年)の著書『パンセ』の中の「クレオパトラの鼻がもっと低かったら、地球の全貌が変わっていただろう」という言葉は有名です。しかし、クレオパトラの美しい容姿について語った書物は多いものの、実際にクレオパトラを見て描いたわけではありません。

紀元前32年に造幣したと思われるコインにも、クレオパトラの横顔が彫られています。

▲2007年2月、ニューカッスル古物協会の所蔵品から発見された小さなコイン。アントニウスが紀元前32年に造幣したもので、表面にはアントニウスが、裏面にはクレオパトラと思われる横顔が描かれ「王たる女王、そして王たる子どもたちの女王であるクレオパトラ」と書かれています。

同じ時代に作られた頭部彫刻はもう少し柔和な面持ちです。

アントニウスの死後、宿敵オクタウィアヌスはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスとなりますが、<Ancient World Magazine>によると、この時代に書かれた書物に「クレオパトラ=絶世の美人」と書かれたものが多くあるとのこと。

これはアウグストゥスが「エジプトの女王が同胞・同僚であったアントニウスを性的に誘惑した」というプロパガンダ的ネガティブキャンペーンを展開したため、と説明しています。

彼女の本当の容姿を知る術はありませんが、カエサルとアントニウスという共和制ローマのトップ2人と関係を持った事実や美しい彫刻が残っていることから、「魅力的な女性」という印象が伝わり続けたのかもしれません。

クレオパトラはたった39年の短い生涯でしたが、それから2000年経った今でも忘れられることなく語られ続けています。自身の魅力を武器に天下に居続けようと画策したものの、若くして自死に追い込まれました。

しかし、紀元前に国と国とを渡り歩いた「とんでもない野心家」という部分は、大変興味深く、稀に見るダイナミックな女性だったと言えるでしょう。

エリザベス・テイラー主演の映画『クレオパトラ』は脚色した部分も多いですが、後世に残る傑作映画であることは間違いなし。興味があったらぜひ視聴してみてください。

参考文献

『クレオパトラの謎』(講談社現代新書)吉村作治・著

『クレオパトラ―消え失せし夢』(みすず書房)J.ブノワ=メシャン・著、両角良彦・訳

『プルタルコス英雄伝(上・下)』(筑摩書房)プルタルコス・著、村川堅太郎・編集

『Nefertiti and Cleopatra: Queen-monarchs of Ancient Egypt』(The Rubicon Pres)Julia Samson・著

『What to do with caesarion』(Cambridge University Press)Michael Gray-Fow・著

『The Last Days of Cleopatra: A Chronological Problem』(The Journal of Roman Studies)T. C. Skeat・著

『Chronicle of the Pharaohs: The Reign-by-Reign Record of the Rulers and Dynasties of Ancient Egypt』(Thames and Hudson)Peter A. Clayton・著

<東京国立博物館>

<東京大学>

<National Geographic>

<Academia>

<Harvard University The Center for Hellenic Studies>

<Britannica>

<History.com>

<Smithsonian Magazine>その他多数。