幕末の激動の時代を駆け抜け、後世に名を残した新選組。当時の彼らの年収は現代に換算するといくらなのだろうか。歴史エッセイストの堀江宏樹さんは「新選組は一般的な武士の2倍の月給をもらっていた高給取り集団だ。池田屋事件の活躍で月給3倍になり、役職ナシの隊士でも月給100万円が保証されていた」という――。

※本稿は、堀江宏樹『偉人の年収』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

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近藤勇と新選組隊士供養塔(東京都北区) - 写真=時事通信フォト

■高給取り集団・新選組。近藤勇、土方歳三の年収は?

幕末の京都を駆け抜けた新選組。結成されたのは文久3年(1863年)、もとは14代将軍・徳川家茂が江戸から京都へ上る際の警護を目的としていました。

その役目を終えた後も、薩摩や長州の藩士など京都の反幕府勢力を次々と粛清。血なまぐさい武装集団として町人たちから忌み嫌われ、恐れられていました。

堀江宏樹『偉人の年収』(イースト・プレス)

新選組の中心人物が、2代目局長の近藤勇と、副長の土方歳三です。結成当時、新選組隊士は数十名程度しかおらず、幕府の公認組織でもありません。

よって、活動資金の大部分は、彼らに賛同してくれる商人たちからの融資で賄っていたと考えられます。融資という名目のもと、力ずくで金をもぎ取ったといえるかもしれませんが……。

新選組の月給は当時の水準としては高く、平隊士の月給でも3両程度はあったといわれています。1両=現代の約1万円とする場合も多いのですが、労賃については1両=10万円くらいに捉えたほうがよさそうです。さすがに月3万円では、高い給与水準だったといわれても「?」となってしまいますから……。

この「労賃レート」を用いると、月給3両=30万円程度。当時の一般的な武士の月給は、この半額程度だったようです。

■「池田屋事件」で月給3倍

新選組の羽振りが一番よかったのは、結成翌年の元治元年(1864年)頃でした。6月に起こった「池田屋事件」での活躍に対し、幕府や朝廷から多額の褒賞金が与えられたからです。

池田屋事件とは、京都の旅館・池田屋で密談中だった倒幕派の武士たちを新選組が襲撃、一挙に討ち取ってしまった事件のことです。

近藤や土方といった幹部には300両、隊士たちには200両もの褒賞金・慰労金が、幕府や朝廷から与えられました。現代の貨幣価値で3000万と2000万にあたりますから、相当な収入です。

写真=iStock.com/Yusuke Ide
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke Ide

新選組の「組頭」(=中間管理職)だった永倉新八の証言によると、永倉のような組頭で30両。平隊士が10両、つまり役職ナシの隊士でも月給100万円が保証されていたらしいのです。

この当時の局長・近藤勇は毎月50両(=月給500万円)、副長の土方も40両(=月給400万円)の高給取りだったと知られています。

しかし、全盛期からわずか2年後の慶応2年(1866年)、おそらくはスポンサーの減少により、新選組の給与は確実に目減りしていました。

組頭で10両(=100万円)、平隊士で2両(=20万円)という数字を記した資料が、新選組から出資を求められた豪商・三井家に残されています(『新選組金談一件』)。

近藤や土方の給与については判然としないものの、おそらく組頭と同様、最盛期の3分の1程度になっていたのではないでしょうか。

ただ、収入と反比例するように、新選組への幕府からの評価は上がりつつありました。隊士たちの身分を正式な幕臣とすると決定されたのが、慶応3年(1867年)6月10日。

給料は目減り気味でも、農民出身の近藤や土方にとって、「武士になる夢」が名実ともに叶ったのは喜びでした。

■新選組の斜陽期でも評価が上昇し50万石の大名へ

慶応4年(1868年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」において、旧幕軍の総大将・徳川慶喜は味方を見限るような形で戦場を去り、わずかな供だけを連れ、江戸に逃げ戻ってしまいます。

戦場に取り残された新選組の面々も1月10日、旧幕方の軍艦で江戸に帰還しますが、この時の隊士数はわずか40名ほどに減っていました。最盛期には200名を超えた新選組も、斜陽期を迎えていたのです。

一方、近藤・土方に対する江戸城上層部の評価は上昇するばかりでした。老中から、逃走兵が新政府側に寝返らないように甲府で管理しろ、という任務を課せられる代わりに、「成功の暁には、幕府の直轄地だった甲府100万石のうち半分を差しあげる。

君を50万石の領地を持つ大名にしてあげよう(当時の50万石=500億円)」などと持ちかけられたのです。

幕府は瓦解、徳川慶喜は将軍位を退き、謹慎生活を強いられていた当時、近藤にとっては暗闇に差し込んだ一筋の光明でした。50万石の大名とは、途方もない出世です。近藤勇は喜びのあまり、冷静さを失ってしまいました。

将来の大名らしく駕籠に揺られながら、近藤が江戸を出発したのが慶応4年(1868年)3月はじめのこと。土方の故郷にして、新選組の生まれ故郷ともいえる日野に立ち寄った近藤は、彼が昔、剣を教えた近所の若者たちに囲まれます。

「先生、先生」とおだてられ、嬉しくなって飲めない酒をあおるなど、彼にとっては幸せな時間が過ぎていきました。

■豪商からの融資が生命線に

しかし、新選組を待ち受けていた未来はあまりに過酷でした。新政府軍との実戦で、新選組は連敗を重ねます。近藤のもとからは、永倉新八らが「靖共隊(せいきょうたい)」を結成して離れ、土方もやがて去っていきました。

土方が近藤を見限ってしまったのか、自分の限界を悟った近藤が、土方の足手まといとなることを恐れて別れを切り出したのか……両者が沈黙したまま亡くなったので、詳細は明らかではありません。

4月3日には千葉・流山で近藤の身柄は新政府軍に拘束され、同月25日、江戸のはずれにあたる板橋において斬首刑となってしまったのでした。

土方は旧幕軍と合流、のちに函館で戦死するまで戦い抜きました。いわゆる“蝦夷共和国”において土方の役職は「陸軍奉行並(りくぐんぶぎょうなみ)」、つまり陸軍の副司令官の重職にありました。

しかし、慢性的に財政難で、蝦夷地の住民に重税を課して嫌われてしまっていた“共和国”からまともな支払いが受けられたとは思えません。土方という個人を見込んで、多額の活動資金を提供していた函館の佐野専左衛門など、豪商からの融資が彼の生命線だったと考えられるのです。

明治2年(1869年)2月28日には、市中の取り締まりを担当していた石井勇次郎という若者の働きを称え、土方が「金千疋」(=2両2分=約20万円)の褒賞金をポンと与えた記録があります。

土方自身が困窮していた可能性は低いと見られる一方、部下たちの給与の不足分を土方がポケットマネーで補っていたとしたら、彼自身の取り分はほとんどなかったでしょう。

この年の5月11日、新政府軍と交戦中だった土方は、流れ弾に当たって落馬、そのまま亡くなりました。しかし、土方の遺体の行方はその直後からわからなくなっています。

これは、遺体と斬首された首が行方不明になっている近藤も同様です。さすがは親友同士、こんなところまで同じなのですね。

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堀江 宏樹(ほりえ・ひろき)
作家、歴史エッセイスト
大ヒットしてシリーズ化された『乙女の日本史』(東京書籍)、『本当は怖い世界史』(三笠書房)のほか、著書多数。雑誌やWEB媒体のコラムも手掛け、恋愛・金銭事情を通じてわかる歴史人物の素顔、スキャンダラスな史実などをユーモアあふれる筆致で紹介してきた。漫画作品の原案・監修協力も行い、近刊には『ラ・マキユーズ ヴェルサイユの化粧師』(KADOKAWA)などがある。
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(作家、歴史エッセイスト 堀江 宏樹)