両国の差はますます開いていく(写真:freeangle/PIXTA)

アメリカでは、賃金と物価が上昇している。日本では、物価は上昇するが、賃金は上昇しないだろう。なぜなら、第1に、労働力がアメリカのように逼迫していない。第2に、企業の業績が悪く、賃金を上げる余力がない。

昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第65回。

アメリカで賃金と物価が上昇している

コロナからの回復に伴って、アメリカで賃金が上がっている。商務省経済分析局(BEA)のデータによると、賃金給与総額の対前年同期比は、2021年第2四半期から急速に上昇し、第4四半期まで13.4%、11.4%、10.0%と非常に高い伸びを示した。


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アメリカでは情報産業を中心として業績が良好なので、企業に賃金を上げる余力がある。そして、ジョブマーケットが機能しているから、賃金を上げなければ、優秀な従業員を他の企業に引き抜かれてしまう。

他方で物価も上昇している。2022年1月の消費者物価指数は、前年同月比7.5%の上昇となった。こうして、賃金と物価が上がっている。

日本でも、輸入物価が高騰している。対前年同月比は、2021年11、12月に40%を超えた(2022年1月速報値は37.5%)。

他方で、消費者物価は上がっていない。2022年1月の消費者物価(生鮮食品を除く総合)の前年比はマイナス0.2%だった。

しかし、これは携帯電話通信料の値下げによるものだ。これがなければ、すでに2%近い上昇率になっている。

4月からはこの効果がなくなるので、実際に2%程度の物価上昇率になるだろう。

ウクライナ情勢で原油価格が上昇したので、輸入物価はさらに上昇する可能性がある。

それによって、消費者物価の上昇率が3%、4%程度になることは十分に考えられる。

問題は、これが賃金を上昇させるかどうかだ。そうなると、物価と賃金のスパイラル的な上昇が生じる危険がある。

日本の賃金決定メカニズムは、アメリカのそれと大きく異なる。

日本の賃金は企業ごとに決まる

アメリカではジョブマーケットでの需給によって1人ひとりの賃金が決まるのに対して、日本にはそれに対応したマーケットがない。賃金は企業ごとまとめて、労使の交渉で決められる。

アメリカでジョブマーケットがあるのは、従業員の企業間移動が頻繁に行われるからだ。日本にそれがないのは、多くの従業員が1つの企業に固定されていて、移動することがまれだからだ。

日本のジョブマーケットは、ハローワークのレベルと、専門家のヘッドハンティングなどに限られる。

では、日本では、どのようにして賃金が決まるのか?

高度成長期においては、春闘を通じて上げ幅の「相場」が形成され、それによって大企業の賃金が決定され、それが中小企業に波及していくと考えられていた。

しかし、その後、春闘の影響力は低下した。

仮に春闘で賃上げが実現しても、それが経済全体の賃金を引き上げることはない。

これは、安倍内閣時代に政府が春闘に介入して、2014年以降2%の賃上げが実現したにもかかわらず、経済全体では実質賃金伸び率がマイナスになったことをみてもわかる。

連合は、今年の春闘で定期昇給を含めて4%程度の賃上げを求めている。

しかし、これは、日本では過去四半世紀の間に実現したことがない数字だ。

物価が4%程度上がる可能性があるから、それに見合った賃上げを要求するということかもしれない。

しかし、以下に述べる2つの理由によって、このような賃上げは不可能と考えられる。

日本で賃金が上がらないと考えられる第1の理由は、労働需給が逼迫しているとは考えられないことだ。

ハローワークでの有効求人倍率を見ると、2020年以来1.1を下回る水準だったのが、2021年11月、12月には1.2を超えた。しかし、コロナ前に1.5を超えていたことを考えると、まだ低い。

職業別にみると、介護や建設関係では有効求人倍率が3を超える高い値になっているが、事務的職業では、0.4程度でしかない。

アメリカのように、企業に雇われている人々が引き抜かれていくような状況ではないと考えられる。

1人当たり付加価値が増えないから、企業に賃上げの余力はない

賃金が上がらないと考えられる第2の理由は、企業の1人当たり付加価値が増加していないことだ。

ここで付加価値とは、売り上げマイナス原価だ。賃金は、付加価値から支払われる。

最近時点での日本企業の状況を見ると、図表1のとおりだ。


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従業員1人当たりの付加価値は、2020年4〜6月期に新型コロナの影響で落ち込んだことを除くと、ほとんど変化がない。

2020年4〜6月期には、1人当たり付加価値が落ちこんだにもかかわらず、賃金カットをせずに、賃金を一定に保った。

輸入価格が顕著に上昇したのは2021年10月頃からで、その影響はここには現れていない。原材料価格の上昇によって原価がさらに上昇し、付加価値が減少している可能性が高い。

以上で見たような状況のなかで賃金を引き上げれば、労働分配率を合理的な水準以上に引き上げることとなってしまう。

つまり、現在の日本で、企業に賃上げをする余力はないのだ。

日本の賃金は企業ごとに決められるので、「過度な賃上げをすれば企業自体がダメになる」という論理が受け入れられる。だから、労働組合としても、賃上げをそれほど強くは要求しない。

また、個々の労働者にとっては、賃金が上がらないことよりも、解雇されることのほうが恐ろしい。

以上を考えると、企業に雇われている人々の賃金が、「物価が上がったから」というだけの理由で上がることはないと思われる。

だから、輸入物価の高騰に伴って消費者物価が上がっても、それが賃金に反映されることはないだろう。その結果、実質賃金が下がる可能性が強い。

オイルショック時とは違う

「1970年代のオイルショック時には、原油価格の上昇で物価が上昇したのに対応して賃上げが行われた。それと同じことが今回も行われるのではないか」との意見があるかもしれない。

オイルショック時の1973〜74年に賃金が大幅に引き上げられたのは事実だ。

しかし、この時には、従業員1人当たり付加価値が1973年に大幅に増えたことが、賃上げを可能にしたと考えられる(図表2参照)。


消費者物価上昇に先立って1人当たり付加価値と賃金が上がっているという意味で、現在の状況とは異なる。

また、1973年までも、毎年の賃金上昇率が10%を超える状況が続いていたことに注意が必要である。しかも、賃上げ率が物価上昇率より高かった(実質賃金が上昇していた)のである。

以上のように、オイルショック時と現在とでは状況がまったく異なる。

こうして、アメリカの高物価・高賃金、日本の低物価、低賃金という状況がさらに続くだろう。

本来であれば、為替レートが円高になることによってこの状況を調整するはずであるが、日本銀行が金融緩和を続けているために、それが生じない。したがって、日本とアメリカの格差がさらに拡大していくことになるだろう。

(野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授)