真面目で、仕事も順風満帆だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。恵瓊は「聖人君子」と評価される反面、酒癖が悪く、男児好きという一面もありました。
この記事では、恵瓊の性格や活躍とともに、性癖や大失態なども紹介いたします。
安国寺恵瓊とは
安国寺恵瓊は、毛利元就に滅ぼされた安芸武田氏一族の生き残りです。安芸安国寺を出家してから、臨済宗東福寺派の僧侶となりました。
僧侶になってからは、「三本の矢」の話で有名な毛利3兄弟(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)のうち、小早川隆景(こばやかわたかかげ)に重用されています。
そして、徐々に毛利家の外交僧としての地位を確かなものにしていきました。恵瓊は毛利家の外交僧として活躍したのち、豊臣秀吉に仕え毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめてもいます。
また、「中国大返し」を演出したりしたことで秀吉に気に入られ、豊臣政権内で出世していったのです。
酒癖と性癖で危機一髪
真面目で優秀だった恵瓊には、酒癖の悪さという欠点と男児好きという面がありました。酒を勢いよく飲んで酔っ払った恵瓊は、当時の主君であった毛利輝元の小姓らを呼びつけ、手を出してしまいます。
小姓は雑用係のような役回りですが、時には主君の夜の相手をすることもあったのです。また、主君と小姓の間で恋愛関係に発展していることも珍しくなく、恵瓊の不貞行為は毛利輝元の逆鱗に触れてしまいます。
翌朝、目を覚ました恵瓊が「どれほどに申し訳ないことをしたか、計り知れません」と毛利輝元に謝罪文を送ったため、毛利輝元は恵瓊の優秀に免じて許したそうです。
普段の真面目な行動が、恵瓊自身を救ったのでした。
本能寺の変を予言
織田信長が全国制覇を果たしたとき、京都にいた恵瓊は「織田信長の横死と羽柴秀吉(豊臣秀吉)の出世」を予言し、自身の主君・毛利輝元に伝えていたそうです。
楊斎延一 画
そして、その約9年後に「本能寺の変」が起こり、信長はこの世を去りました。信長の死後、恵瓊は毛利輝元に仕えながら、秀吉に気に入られることで側近となり出世します。
関ヶ原にて斬首された恵瓊
秀吉が亡くなった後、秀吉の後釜を狙った石田三成と徳川家康の間で戦が起こります。毛利家は石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍のどちらの味方につくかで意見が分かれていました。
石田三成と仲の良かった恵瓊が西軍を推したことで、輝元も恵瓊を信頼し西軍につきます。しかし毛利家は、出陣することなく西軍を裏切ります。
というのも、戦況は東軍に有利な状況であったため、毛利家は「家」存続のために徳川家康の元へくだっていたのです。
恵瓊は毛利家に裏切られ、毛利家の将軍の代わりに関ヶ原にて斬首されました。
戦国時代を生きた男
恵瓊は、僧侶でありながら戦のキーポイントとなる場面では重要な役割を果たし、戦国時代を生きました。
僧侶としても参謀としても優秀だった恵瓊ですが、彼にも酒癖の悪さと男児好きという弱点があり、人間味あふれた人生を送っていたと思うと親しみもわいてきますね。
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