良い情報を取り入れてよく考えることによって、問題意識はより高度なものに進化していく(写真:YAMATO/PIXTA)

誰もが大量の情報を簡単に手に入れられる今、オリジナリティーのある発想力がより強く求められています。

では、オリジナリティーのある発想力とはいったい何でしょうか? 『東大教授が教える知的に考える練習』の著者、柳川範之・東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授が本書より解説します。

絶えず自分の問題に置き換える訓練をする

情報をうまく使うためには、絶えず意識して、自分の問題に置き換えていく訓練が有効です。
ある情報を自分の問題に置き換えてみる頭の使い方は、話が上手な人の頭の使い方に似ています。話が上手な人というのは、相手の話の要点を的確につかみ、自分に関する似た話をして場を盛り上げていきます。他人の話を自分の話にして、自分のペースに巻き込んでしまうわけです。無意識に抽象化と具体化ができているのです。

情報を自分のものにしていくには、そうした頭の使い方が必要です。自分に関心があることがらはもちろん、自分の問題とは無関係のように見える情報も、どんどん自分の話に置き換えてみるのです。

例えば、テレビ番組で、ある人の失敗談が放映されているとしたら、「自分も似たような経験をしたなあ」と思うのでもいいですし、逆に「自分はそういうこととは正反対のことをしているな」と気がつくだけでもいいのです。あるいは、「自分だったらそういうときにどうするのか」を考えてもいいでしょう。どんなことでもいいので、自分に置き換えて考えるクセをつけるのです。これが、情報を自分のものにしていくプロセスです。

そうやって情報を自分のものにするクセをつけておくと、情報に含まれているさまざまなエピソードを、人生の教師にしたり反面教師にしたりできます。

絶えず自分の問題に置き換えて考えていると、どんな情報でも役立てることができるようになってきます。

例えば、広告や宣伝の効果的な方法を書いたビジネス書を読むと、広報の仕事をしている人に役に立つのは当然ですが、うまい頭の使い方ができている人ならば、まったく関係のない接客業やクリエイターのような仕事にも役立てることができるのです。

突拍子もないと思われるかもしれませんが、そういうことは結構あるものです。

なぜなら、問題の本質というのは似ていることが多いからです。

以前、私のほかに生物学や物理学など、異分野の研究者が集まって、自分たちが直面している問題についてプレゼンをし合うという集まりがありました。すると、分野は違っても、問題の本質は結構似たところにあるのだなということに気づきました。経済学と生物学は、当然ながらまったく違うものですが、経済学で悩んでいる問題と生物学で悩んでいる問題は、驚くほど構造が同じといってよいのです。

個々の動きをとらえられないという本質は同じ

生物学はどんどん深掘りしていくと、生物の中にある分子の動きが問題になるのですが、個々の分子の動きはきちんとつかまえることができず、ぼんやりとしかわからないそうなのです。

実は、その構造というのは、経済学において、社会の中で人々が動いている様子を把握しようとするときに似ています。個々の人がどのように動いているかは、やはり完璧な情報としては追うことができず、社会のトータルとして動きを把握するしかありません。

そのレベルで考えると、社会と個人の間の関係と、生物と分子の間の関係とが、まったく同一とはいわないまでも、似たような構造になっていて、研究者としては似たような悩みを持っていることがわかってきます。

逆にいうと、生物学の本を読むことで、それが経済学の理解や経営の問題に役に立つ面があり得るということです。問題の本質を理解することができれば、つまり問題の抽象的な意味合いや構造を理解することができれば、違う分野の情報であっても、自分のテーマを深掘りするのに役立てることが可能なのです。

たくさんの情報を頭の中に流していると、前に見た情報とは矛盾した情報が見つかることもあります。

例えば、いろいろな本を読んでいたら、あせって失敗するという話と、のんびりしていたら失敗するという2つの矛盾した話が出てきたとします。そうすると「この違いはどこから来ているのだろう」という、別の「なぜ?」が生まれてくるわけです。また、さらに別の情報に当たると、「気がはやったおかげで成功した」「決断を遅らせたのがよかった」という話も見つかるかもしれません。

情報同士が矛盾しているように見えたり、原因がよくわからなかったりするかもしれませんが、新しい情報が見つかるたびに、「では、どういうときに決断を急ぐべきなのか?」「時流に遅れたはずの会社が、なぜ最終的に勝者となったのか?」というように、新しく問題意識を追加していくことが重要なステップでしょう。

1つの答えが出るたび新しい問題意識が生まれる

自分なりの解決策を考え出したとしても、たいていの場合はそこで終わらないのです。問題意識に対する部分的な解決策がもたらされると同時に、新しい問題意識(問いかけ)もまた生まれてきます。ときには、せっかく大量の情報を頭の中で熟成させてきたのに、解決策がほとんど見つからず、新しい問題意識しか生じない場合もあるのです。

さらに、新しく生まれた問題意識に対して別の情報が入ってくると、再び新しい問題意識と新しい解決策に分かれていきます。つまり、考えるという行為は、こうした繰り返しがずっと続いていくことをイメージするといいかもしれません。

このように、1つの答えが出るたびに、新しい問題意識が生まれるのですから、考えることに終わりはないのです。

また、解決策と思っていたら、実はそれがうまくいかなかったということもあるので、その場合はまた別の問題意識が生まれます。

難しい問題であればあるほど、100%の解決策は簡単には見つかりません。

結局は問題意識が頭の中で変容しながら、進んでいくことになります。それでも、良い情報を取り入れてよく考えることによって、自分なりの解決策が少しずつ導き出され、問題意識はより高度なものに進化していくのです。

場合によっては、広がりのある大きな問題意識に成長するかもしれませんし、逆に解決していく部分が多ければ細部の問題意識に収束していくかもしれません。いずれにしても、質が変わっていくわけです。

考えることに終わりはない

私にとっては、だからこそ考えることがおもしろいと思うのです。

例えば、料理をつくったりコーヒーを淹れたりすることを考えてみてください。そこには、正解というものはありませんし、明確なゴールもありません。

同じ料理人が毎日同じ料理をつくっていて、「今日はよくできた、これは満足だ」ということはあっても、「今日の料理でとうとう正解に達した」ということはないと思います。

料理の喜びは、毎日少しずつ改善していき、自分なりに少しずつ良いものができたというところにあるのだと思います。その点はプロの料理人だけでなく、料理を趣味にする人でも同じです。試行錯誤しながら少しずつ向上していくことに、ある種の楽しみを見いだすのです。

考える楽しみは、これと同じだと思うのです。確固とした正解を求めるのではなく、情報を頭の中で整理しながら、問題意識を少しずつ変容させて深めていき、進歩させていくプロセス自体に楽しみがあるのです。


考えた結果、新しいアイデアが出てきたり、自分なりに理解できたと思えれば、誰しも満足感やワクワク感を覚えることでしょう。たとえ問題に正解がなくても、料理人と同じく、そこに楽しみを見いだすことができると思います。

おもしろいと思える方向に頭を使っていけば、それがさらに考えることにつながり、能力も身についていくという、良い循環ができてきます。そもそも、正解は誰にもわからないのです。行動した結果、また自分なりにそこから問いかけを発して、より良い方向に向かうことが大切なのです。

考えることはけっしてつらいことでも小難しいことでもなく、楽しいことなのです。