なぜ台湾は「デジタル先進国」になれたのか。李登輝元総統の秘書だった早川友久さんは「政府と市民ハッカーの協力を抜きに台湾のデジタル化は語れない。異国の文化やシステムを取り入れ、自分たちが使いやすいように改良するのは、日本が得意とする“お家芸”だ。台湾の事例は必ず日本の役に立つ」という――。

※本稿は、早川友久『オードリー・タン 日本人のためのデジタル未来学』(ビジネス社)の一部を再編集したものです。

写真=CC BY 4.0 Camille McOuat @ Liberation.fr
台湾の蔡英文政権において35歳の若さで行政院に入閣したオードリー・タン氏=2016年3月9日 - 写真=CC BY 4.0 Camille McOuat @ Liberation.fr

■デジタルの世界で花開いた台湾の“柔軟性”

私がオードリーとの20時間以上にわたる対話から得た、日本の今後について考えなくてはならないキーポイントを紹介していこう。

『オードリー・タン 日本人のためのデジタル未来学』(ビジネス社)で紹介しているように、トランスジェンダーで中卒のITプログラマーであるオードリーを大臣に任命し、しかも国民の命に直結するコロナ危機対策の中心に据えるという“柔軟性”が、台湾の大きな特徴だといえるだろう。

ただ、台湾が柔軟性をいかんなく発揮し、少数派や弱者の意見を聞いて政治や行政に反映する、という歯車がポジティブにまわり始めたのは、実はそう古いことではない。具体的なきっかけは、やはり2014年に起こった「太陽花(ヒマワリ)学生運動」だったといえよう。

そもそもオードリーが政治の世界へ入ったきっかけをつくったのは、馬英九政権で政務委員を務めていた蔡玉玲との出会いだった。

蔡玉玲は弁護士だが、IBMの中華圏における法務責任者を務めていたこともあり、デジタルに造詣が深かった。彼女が2013年11月に政務委員として入閣したのも、当時の法律と社会の変化に齟齬(そご)をきたすことが多くなり始めたからだ。ネットの世界が発展するにつれ、デジタル社会や仮想世界(Virtual World)といった新しい領域が加速度的に広がっていった。その結果、既存の法律では処理できない事件も増えていったのである。

■天才IT大臣が生まれた経緯

蔡玉玲が入閣してまもなく、2014年3月に「太陽花(ヒマワリ)学生運動」が起きると、政治は混乱し、馬英九政権に対する国民の批判も日に日に大きくなっていった。そのあおりを食うかたちで、サービス貿易協定とは関係のない政策や法案も軒並みストップしてしまったのである。

そこで、ネット関連の法案整備を考えていた彼女が注目したのが、『オードリー・タン 日本人のためのデジタル未来学』で紹介した、ネット空間で意見を交換するコミュニティ「g0v」(ガブゼロ)だった。

蔡玉玲が言うには、「g0v」には素晴らしいシビックハッカー(市民プログラマー)たちがたくさん集まっている。しかもハッカーたちは、「鍵盤救国」(キーボードで国を救う)を合言葉に、社会や国に貢献したいという強い気持ちを持っていた。

蔡玉玲は、2014年末に行われた「g0v」主催のハッカソン(アイデアや成果を競い合う開発イベント)に、現職大臣として初めて参加した。

写真=iStock.com/PrathanChorruangsak
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PrathanChorruangsak

ここで彼女は、オンライン上に「vTaiwan」というプラットフォームを立ち上げ、誰もが――未成年であっても、外国人でも、国外にいても――これから制定する仮想世界関連法案について意見を表明できる環境をつくることを提案したのだ。

ちなみに、蔡玉玲の前に、中国語から台湾原住民の言葉まで調べられるオンライン辞典「萌典」(MoeDict)についてのプレゼンテーションを行ったのが、オードリーだったという。

■市民ハッカーと政府の橋渡し役

オードリーも設立当初から「g0v」に参加しており、のちに「vTaiwan」プロジェクトの顧問として蔡玉玲と一緒に働くことになるのだが、無論、当時はそんなことなど知る由もなかった。

このハッカソンで提案されたアイデアは、シビックハッカーたちが「公益性がある」と判断すれば、即座にボランティアで実行に取りかかってくれることになっていた。蔡玉玲の「vTaiwan」構想は見事採用され、のちに政府とシビックハッカーが共同で推進するプロジェクトとして動き始める。

同時に、オードリーの才能に注目した蔡玉玲は、オードリーを行政院のリバースメンターに任命しようとした。リバースメンターとは、18歳から35歳の若者が自薦他薦で応募できる青年顧問団のようなもので、若者世代の政府への要望や提言を反映させるために設けられた制度だ。

ただ、このリバースメンターのルールが、オードリーは気に入らなかった。メンバーは、会議で話し合われたことなどについて、自分の意見を外部に公表してはいけないことになっていたのだ。なにかコメントしたい場合には、承認を得なければならないという。

それではあまりにも制約が大きすぎると感じたオードリーは蔡玉玲の申し出を辞退し、代わりに彼女が進めるプロジェクトの顧問に就任した。オードリーは、すでにこのときからシビックハッカーたちと政府のあいだの橋渡し役となっていたのである。

■ハッカーたちが大事にする「公開・透明・協力」

オードリーや蔡玉玲とともに仕事をしたシビックハッカーに、王景弘という人物がいる。「TonyQ」という名前で呼ばれる彼には、ほとんど知られていない功績がある。

2014年8月1日の深夜、台湾南部の都市、高雄で大規模なガス爆発事故が起きた。高雄は南部の主要港湾都市で、郊外には石油化学コンビナートがあり、市内の地下には多数のパイプラインが通っている。そのうちの可燃性物質であるプロピレンガスが漏れ、大規模な爆発を起こしたのだ。

この事故の死傷者は300人近くに上り、爆発現場一帯に住んでいた人たちは、家が倒壊したり避難を余儀なくされたりして、一晩にして住む場所をなくしてしまった。そのとき、迅速に動き出したのが、「g0v」のメンバーでもあるTonyQだ。

彼は真夜中に爆発が起きてから2時間後には、「g0v」のサイトが持つリアルタイムテキストエディタ「Hackfoldr」(ハックフォルダ)を使って「高雄爆発事故関連情報」サイトを立ち上げた。

住民が、ネットやテレビのニュース、SNSや政府機関のサイトで流される情報の海におぼれてしまい、混乱するのを防ぐため、このサイトを見れば常に最新の情報が網羅され、ワンストップで必要な情報を得られるようにしたのだ。

写真=iStock.com/howtogoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/howtogoto

■「透明化することで議論が生まれる」

「Hackfoldr」は、もともと「g0v」を立ち上げた高嘉良が開発したオープンソースで、「太陽花(ヒマワリ)学生運動」の際、立法院の抗議活動の様子をライブやテキストで放送したり、必要な物資のリストを作成するのに使われたりしたことで、その効果が実証されていた。

高雄のガス爆発事故に関する情報は、シビックハッカーたちによってこのサイトに一元化され、危険地域がどのエリアなのか、学校はいつまで休校になるのか、交通はどうなっているのか、不足している物資はなにかといった情報が可視化されたのである。当時の陳菊市長もフェイスブックで、「被害を拡大させないためにこのサイトを見て! まず理解してから動きましょう」と市民に呼びかけたのだ。

前に説明したように、オードリーは中学校中退。このTonyQも、プログラミングやデジタルの世界で自分のやりたいことを見つけたため、大学には進学しなかった。「g0v」を立ち上げた高嘉良も国立台湾大学に進学したものの、興味のない必修科目がイヤで中退している。

台湾社会の柔軟なところは、学歴よりも能力があれば人材登用し、活用することだ。オードリーを政治の世界に引き込んだ蔡玉玲も本業は弁護士で、議員ではない。

蔡玉玲が言う。

「私がオードリーをはじめ、ハッカーたちから感銘を受けた言葉があります。それはハッカーたちがもっとも尊重していることは『公開・透明・協力』だということ。何事も公開することで信頼が生まれる。透明化することで議論が生まれる。協力し合うことで、ひとりではできないことが可能になる、というわけです」

■価値観の共有が奏功した台湾のコロナ対策

蔡玉玲とオードリーたちシビックハッカーは、育ってきたバックグラウンドや経歴はまったく異なるが、「公開・透明・協力」を共通の価値観にして一緒に仕事をしてきた。これらの価値観は、そのまま新型コロナウイルスの封じ込めに成功した台湾社会そのものだといえよう。

政府はあらゆる情報を公開し、正確に説明することで国民の不安を抑えた。そうやって醸成された信頼を基盤に、政府と国民が協力し合い、台湾は新型コロナウイルスの感染拡大を防いだのである。

2016年、蔡英文率いる民進党は総統選挙に勝利し、国民党から政権を奪取した。まもなく新政権発足という時期になって、新しい行政院長(首相に相当)に決まっている林全や国家発展委員会の主任委員(閣僚)に決まっている陳添枝が蔡玉玲のところにやってきて言った。

「前政権が進めてきたデジタルやネットに関する政策は、新政権になっても引き継いでいきたい。この分野について誰か適材を推薦してくれないか」

そこで蔡玉玲が推薦したのがオードリーだったのである。

■“弱者”にも活躍の場を提供するのが政治の仕事

前述のように、仮想社会における法整備が政務委員の蔡玉玲らの主導で進められていた。そして「g0v」の協力で進められたネット上のプラットフォーム「vTaiwan」のプロジェクトをめぐり、蔡玉玲はオードリーらと連日のようにミーティングを開いたのである。

裁判官を経験し、現職の弁護士でもある蔡玉玲の頭のなかには「仮想世界のユーザーのためにつくる法律なのだから、彼らの考えを知らなければならない」という考えがあった。

それもまた「g0v」のハッカソンを通じてオンラインプラットフォーム「vTaiwan」の構想を進めようとしたもうひとつの理由だ。

蔡玉玲は、こう語る。

「台湾のシビックハッカーたちは、普段まったく姿を現しません。でも彼らは社会の片隅で、間違いなく生きている。なかには、学校が合わなくてオードリーのようにドロップアウトしたり、自分のやりたいことのためにわざと進学しなかった人もたくさんいます。彼らは学歴社会というモノサシで測れば“弱者”かもしれませんが、キーボードを使って社会や他の人たちのために役立ちたいという気持ちはきちんと持っている。そんな彼らに活躍の場を提供するのも、政治の仕事なのです」

■日本はラッキーだ。自国のすぐ隣に成功例がある

実際、彼女が「こんなふうにできないか」と提案すると、オードリーたちハッカーは即座に「それはいい、すぐやってみよう」と作業を進め、あっという間にひな形ができる。

早川友久『オードリー・タン 日本人のためのデジタル未来学』(ビジネス社)

すると別のハッカーが「いや、こっちのやり方のほうがいい」と違うアイデアを出し、「じゃあ、とりあえずやり比べてみよう」と動き出す。そんな試行錯誤の連続だったという。

そもそも、政府が推進する法案について、ネット上のプラットフォームに国民も参加してもらい、政府とともに議論していこうという試みは、世界のどの国も行ったことのないチャレンジだった。それゆえ、毎回みんなでアイデアを出し合い、いちいちトライしていくしか方法がなかったのだ。

その点、日本はラッキーだ。自国のすぐ隣に成功例がある。デジタル庁の発足とともに、デジタル革命の推進が期待されている。異国の文化やシステムを取り入れ、自分たちが使いやすいように改良するのは、日本が得意とする“お家芸”だ。台湾の例が参考になるのは、間違いない。あとはそれを誰が、どう生かすかだ。

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早川 友久(はやかわ・ともひさ)
ライター、翻訳家、李登輝元総統秘書
1977年、栃木県足利市生まれ。現在、台湾台北市在住。早稲田大学卒。「台湾民主化の父」と呼ばれた故・台湾総統 李登輝の唯一の日本人秘書であり、現在も、李登輝の遺志を引き継ぎ財団法人李登輝基金会顧問として日台の外交をサポート。オードリー・タン著『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』(プレジデント社)の翻訳チームのリーダーとして書籍翻訳を担当。著書に、『李登輝 いま本当に伝えたいこと』(ビジネス社)、『総統とわたし』(ウェッジ)がある。
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(ライター、翻訳家、李登輝元総統秘書 早川 友久)