さっそく土筆をオリーブオイルで炒めて春の晩酌。タケノコご飯と吸い物は近所のおばあちゃんからのお裾分け(写真:筆者提供)

疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第4回をお届けします。

「春の野草」は体にもいい!

さて「タダで食べる」王道とも言える採取生活。


稲垣えみ子氏による連載4回目です。

コロナだろうが緊急事態だろうが、いやむしろこういうときだからこそ今年もウッキッキとハンティングを満喫中のアフロであります。何しろ採取自慢にかまけてうっかり書きそびれていたが、実は春の野草を食べることは、体にもいいことこのうえないのだ。

そう「春は苦味」と昔から言いましてですね。

ほろりと苦味のある春の新芽を食すことで、冬の間にため込んだ体の毒を排出するらしい。そう、かの有名な「デトックス」ですぞ! 高いお金を出してサプリを飲んだりホットヨガに通ったりスーパーフードなど購入したりせずとも、その辺に気前よく生えてくるものをありがたく食すだけで、いわゆる「体の中からキレイになる」ってやつを易々と実現できるのだ。

誠に自然とは合理的にできている。そのナチュラルな流れの中にそっと身を滑り込ませるだけで、すべてがうまいこといくようになっているのだ。これぞ採取を始めてようやく気づいた仏のごとき新境地である。

そして昨今では、去年までハーブ生え放題だった近所の空き地にピカピカの投資用アパートが建っているのを見てガーンとなり、チッ、ニンゲンめ余計なことをしやがって!などと自分も人間であることを忘れて毒づいたりしている。どうも野草など常食していると、だんだん虫とか鳥とかの側に近づいていくらしい。

それはさておき、このように書いていくといいことづくめでしかないので、ヨシさっそく自分も採取してみようと思う方がおられるやもしれぬ。なので今回は、そのような超ビギナーの方のために、私がこれまでの経験で重ねた失敗と教訓を気前よくお伝えしたく思う。

まずは、初心者が必ず陥るミスから。

野草初心者へのアドバイス 屬箸蠅垢注意!」

これはもう絶対こうなる。だってもうそこらじゅうに貴重な「季節限定の味」がニョキニョキ生えているとなれば、普段は高いお金を出してそれらを購入している身としては、どうしたってフンフンとコーフンして採りまくらずにいられようか!

しかしこれは、まずもって絶対にやってはいけない。やればわかる。過ぎたるは及ばざるがごとし。調子こいて欲張っていると災いが山ほど降ってきて、昔話の定番である「欲張り爺さん」の悲劇を身をもって体験することになる。

わが過去最大の悲劇は、都市近郊で趣味の畑をやっている友人が「今ならノビルがいっぱいあるよ」と誘ってくださったときに発生した。

なぬっ、ノビル!

その真っ白いコロンとしたかわいらしいお姿を本や雑誌で拝見したことはあったものの、実際には見たことも食べたこともなく、いったいどんな食感なのか味なのかと、かねてより想像を膨らませていたあの憧れのお方ですか!

当然のことながらスキップして出かけ、採って採って採りまくった。だってもうそこら中ノビルだらけ。細い芽を引っ張るとシュポンと収穫できる快感もクセになり、かくして大きなレジ袋2個にあふれんばかりのノビルを手に意気揚々と畑を後にしたのである。

だが。早くも帰りの電車の中で「やりすぎたか……」と気づく。早い話が匂いがスゴイよ! 畑では全然気づかなかったが、密閉空間ではデカい袋からニンニクのようなラッキョウのような刺激臭がハッキリと漂いまくり、ほかの乗客の冷たい目が(鼻が)気になって身の置き所がない。

冷や汗をかきながらようやく自宅に着いたが、もちろんこんな大量のノビルを一気に食べられるわけもなく、必死でネットを検索してしょうゆ漬けやらみそ漬けやら塩漬けやらに仕込んでも仕込んでも終わりが見えぬ。歯を食いしばって作業を続けるも、その間ずっと精の強い匂いにさらされ、だんだん気分が悪くなってくる。

だがせっかくいただいた命を無駄にするわけにはいかないので、その後は来る日も来る日もノビルを食べ続けた。細かく切って豆腐に乗せ、サラダもパスタもチャーハンもすべてノビル入り。もちろんそのまま酒のつまみにも。それは文字どおりの格闘であった。ようやくすべてのノビルを食べ終えたときには、体の毛穴という毛穴からノビルの香りが染み出している気がした。

野草が教えてくれた「足るを知る」ということ

はっきり言おう。もうノビルは一生食べなくてもいい。

そうなのだ。春の野草は、形はかわいらしいが、実は非常に「強い」食べ物なのである。体にいいとはそういうことなのだ。「適量」食べることが重要で、クスリもとりすぎればかえって毒となる。ということを私はこのノビル事件により、毛穴レベルで心底思い知ったのであった。


樹木葬をした母の墓参りで、手を合わせるのもソコソコに土筆摘みに熱中し、ついつい採りすぎる……悪い例です! でも楽しかったー(写真:筆者提供)

ならば一気に食べずとも、冷蔵庫などで保存してチョビチョビ食べればよいではないか……と思われるかもしれない。

そうだよね。現代人はそう思う。冷蔵庫は時を止めると心底信じているからね。だが冷蔵庫は時を止めるわけではない。冷蔵庫にできるのは、時の流れる速度をやや緩めることだけである。

で、一旦摘んだ野草の時間は「超高速」で流れていく。玉手箱を開けた浦島太郎のようなものと思っていただければ間違いない。人が改良を重ねてつくリあげた野菜とは違い、生の状態では冷蔵庫に入れようがまったく日持ちしないのだ。

すぐ食べきるか、あるいは乾燥させたり塩漬けにしたりなどの加工をすぐに施さねば、香りも味も効能も急速に失われていくのである。リアルな自然の恵みを得るには、お手軽な文明の利器などお呼びじゃないんである。

となれば、われらがとるべき態度は1つしかない。

その日に食べられる分だけ、つまりは片手にほんの1つかみ程度を採り、ありがたく食す。以上。

……え、それじゃ物足りないって? いやいやそれで十分。というかそれがいちばんなのだ。体にもいい。ほかの人とも分け合える、採り尽くさないから来年もちゃんと収穫できる。もうちょっと食べたいナというところで止めておくからこそ来年も春が来ることが楽しみになる……よく考えればいいことづくめである。

そしてこの「足るを知る」という態度こそは、現代人が最も苦手なことではなかろうか。われらはつい、使いきれないものも際限なく貯めこまねばと当たり前に考えてしまう。取れるだけ取っとかないと、誰かに先に取られて損するんじゃないかと思っちゃう(例:災害時のトイレットペーパー)から、この不毛な競争からなかなか抜け出せないんだよね。

でも本当はそんなことしなくても大丈夫なのだと身をもって教えてくれるのが採取生活なのだ。いやー貯められないってスゴイね! 貯められなければ分けるしかない。で、実際にやってみれば自分が損をするわけでもなんでもないとわかる。

「奪い合えば足りない、分け合えば余る」(沖縄のことわざ)体験は、案外あなたの行き詰まった人生を変えるかもしれませんよ!

と、このように案外奥が深い採取生活を深く楽しむために、もう1つ重要な助言をしておこう。

野草初心者へのアドバイス◆峽亳骸圓鮹気察」

私のごとき採取のベテランともなれば、どの野草が食べられるかは見ただけでだいたいわかる。知らない野草であっても、なんといいますか「人相」ならぬ「草相」みたいなものがありまして、そこらの道端の草を見るだけで「あ、これなんとなく食べられそう!」とカンが働くのだ。

となれば早速、試しにちぎって臭いを嗅ぎ、「やっぱり菜の花だ!」などと、過去に採取したものの記憶と答え合わせ。そして、めでたく食卓に乗ることになる。

このように改めて書くと、やはり動物に近づいている気がしないでもない。われながらカッコイイと思う。

だが、初心者は決してこのようなことをしてはいけない。

植物とは、基本「毒」である。うかつに動物に食べられぬよう毒で身を守っているのだ。ごく一部が、なんとか人間にも食べられるものであるにすぎない。じゃあいったいどれが「食べられる」のか?

昔の人は経験と伝承を重ねることで、誰もがそのような知恵を備えていたんだろうが、食べ物は「店で買う」ことが当たり前になった現代人はそのような知恵をすっかり失ってしまった。そこらの草を目で見て、匂いを嗅ぎ、食べられるかどうかを判断するなんて、ほとんどの人が人生において一度もやったことがないに違いない。

なので最初は、田舎の人、農家の人、あるいは私のような「都会の狩人」など、そのような知識と経験のある人に教えを請い、一緒に採取することをぜひお勧めする。

野草にはそれぞれ好みの住環境というものがあり、どの時期にどの辺を探せば何があるかも少しずつわかってくる。ネットでいくら姿形を検索したところで、素人はそもそもどこを探せばいいのかさっぱりわからんからね。それがベテランと行くと、次々と目の前にご馳走が現れる不思議さといったら! それはワクワクする探検そのものだ。

さらには、お年寄り、田舎の人など、この変化の早い社会において、ややもすれば「遅れた人」とジャッジされがちな方々が、実はめちゃくちゃスーパーな知識を持っているということもうれしい驚きだ。

「役に立つ」とか「価値がある」とか、日々自分も他人もジャッジしながら一喜一憂してセコセコと生きているわれらの判断基準の小ささ、狭さを実感するのはなかなかに爽快なことである。