岩手県陸前高田市の佐々木一義さん(67)の妻・美和子さん(当時57)は市内のそば店で出前担当をしており、近くに住む実母の様子を見に行って津波の犠牲になったとみられる。遺体は3週間後に見つかった。4人の子どもは独立しており、ふたり暮らしだった。あれから10年──。

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 手には白とピンクの花。店員に「菊だけじゃないようにして」と注文をつけた。花を取り替え、花立を水で満たし、線香を焚く。

「はい、高田の名産・米まんじゅう。食べてください」

 とポケットから取り出して供えた。

 一義さんは、市内最後の仮設住宅から災害公営住宅に引っ越したばかり。もとあった自宅は津波で1階が浸水したため2階で寝起きし、やがて仮設住宅で暮らすようになった。

“美女と野獣”と冷やかされました

 妻・美和子さんは地元の小・中学校の同級生。中学生のとき、可愛いなと思って3回アタックした。

「付き合ってほしいとラブレターを書いたんです。返事は“友達でいましょう”だった」

 別々の高校に進み、男子校の色に染まった一義さんは、美和子さんに会っても声をかけなくなった。高校を卒業して就職する前の晩、急につまらない意地を張っているのがバカバカしくなり、美和子さんに電話をかけた。

「僕はあなたが好きだった。でも、これからは同級生として声をかけるから、イヤかもしれないけどよろしくね」

 数年後、実家のスーパーを継いで働くようになっていたある日、仙台市の歯科医院で働く美和子さんから電話があった。

「美和子です。声が聞きたくて」

 仙台にすっ飛んで行った。

「恋は盲目だね(笑)。どんな話をしたか覚えていないけれども、それから付き合うようになった。同級生からは“美女と野獣”と冷やかされました」

 交際すると、思ったとおりの女性だった。元気で、きれいで、人あたりがよくて。

 結婚後、2男2女に恵まれた。一般人が自宅の風呂でカラオケを歌うテレビ番組の企画に申し込んだときは怒って拒み、1か月間、口をきいてくれなかったことも。

お父さん、ここで頑張っぺし

 賑やかな家庭を築く反面、時代の流れとともにスーパーの経営はうまくいかなくなり、2006年に倒産。従業員を解雇したり、取引先にも迷惑をかけた。故郷を離れることも考えたが、

 美和子さんは、

「いや、お父さん、ここで頑張っぺし。何があってもついていくから」

 と支えてくれた。

「幸せにするといったのに。迷惑をかけた従業員や取引先、銀行などを一軒一軒、頭を下げて回りました。恥ずかしくて顔をあげて外を歩けませんでした」

 誰にも会いたくなくて、夜明け前から働ける新聞配達を始めた。やがてホテルの夜間マネージャーの仕事をするようになった。

「ホテルの宴会場などで偶然、再会した人たちが“ここにいたのか! がんばれよ”と異口同音に励ましてくれたんです。恨み言ひとつ言わずに。本当にありがたかった」

 そんな町を津波は容赦なく襲った──。

 一義さんは震災の半年後、市議会議員になった。全国からボランティアらが駆けつけて見知らぬ土地で奮闘する姿に触発された。美和子さんは政治的なことを嫌っていたから反対したかもしれない。

あ〜津波は夢だったんだ。いがった〜

 お墓にまんじゅうを供えた一義さんは、手を合わせてお経を唱えはじめた。その声が震え、詰まった。

 あーあ。読経を終えると照れ隠しのようにひと息ついた。

「5年前のバレンタインデー、夢に彼女が出てきたんです。昔のままで本当に可愛かった。僕が“しばらく。なんでここにいるの”と言うと笑うんですよ。“あれ、津波で死んだんだよな”と聞いても笑う。久しぶりだったから、ほっぺたにキスしたもん。そしたらね、唇に肌感覚があって、あ〜津波は夢だったんだ。いがった〜と思って。でも、ハッと目を覚ましたら仮設住宅の白い天井で、震災前のわが家の天井ではなかった」

 この年になって、こんな話をするのは恥ずかしいけれど、とまた照れた。

 引っ越す前に暮らしていた仮設住宅や高台への避難路、火葬場などを積極的に案内してくれた。それは市議としての使命というより、被災地の住民として伝えずにはいられないようだった。

 墓前で何を語りかけたのか。

「陸前高田には星になった人がたくさんいる。いつそっちの世界に行くかわからないけど、行ったときには胸を張って会えるようにするから、と」

◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)

〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する