古来「飛鳥(ひちょう)尽きて良弓蔵(かく)れ、狡兎(こうと)死して走狗(そうく)煮らる」と言われます。

鳥を狩り尽くしてしまえば、射るための弓は不要となってしまわれ、兎(ウサギ)を狩り尽くしてしまえば、追い立てるための猟犬は不要となって喰われて(煮られて)しまう……まさに戦国乱世の終わりを表す言葉と言えるでしょう。

さて、世の変わり目には変化に適応できず淘汰されてしまう者も少なくありませんが、あくまで武士たる意地を立て通す者も、少数ながら存在しました。

そこで今回は、頑固一徹で知られる三河武士の中でも、ひときわ頑固だった大久保彦左衛門忠教(おおくぼ ひこざゑもんただたか。以下、彦左衛門)のエピソードを紹介したいと思います。

乱世は遠くなりにけり

大久保彦左衛門。Wikipediaより。

大久保彦左衛門は戦国時代の永禄3年(1560年)、三河国(現:愛知県東部)の大名・徳川家康(とくがわ いえやす)の家臣として生まれました。

17歳となった天正4年(1576年)に初陣を飾って以来、兄の大久保忠世(ただよ)・大久保忠佐(ただすけ)と共に各地を転戦。常に最前線で身体を張った奉公に努めます。

しかし徳川家が天下をとると、槍働きしかできない武辺者は次第に疎んじられ、冷遇されてしまうのでした。

「彦左殿、そこは拙者の席ぞ!」

先祖代々奉公してきたにもかかわらず、処世術に長けるばかりの新参者に追いやられ、古参の武士たちは不満を募らせます。

「……なんじゃい、ロクに戦さ働きもせなんだ連中が、お追従とソロバン勘定で成り上がりおって……」

徳川家が天下をとれたのは誰のお陰か?外でもない、我ら譜代の者どもが命を懸けて戦さ奉公して参ったからではないか……そんな彦左衛門に、また声をかける者がありました。

刀の鞘サイズ規制に反発

「おい、彦左!」

「……そなたに彦左と呼びつけられるほど安うはないが、何用じゃ?」

歴戦の勇士に凄まれていささか怯んだものの、その者は上から目線で言い放ちます。

「知らぬのか?此度、差料(刀)の鞘は二尺三寸(約70cm。刃渡り)が定寸(じょうすん。規定の長さ)となったのじゃ……」

彦左衛門が平素から差している刀は三尺六寸(約109cm)、彼の身長が戦国時代の男性平均158cmだとしたら、刃渡りだけで胸近くまで届く長さになります。

「そうでなくとも、貴殿の刀は何かと邪魔じゃ。これを機会に、短いものと替えられよ」

石突(刀を納める鞘の先端)を引きずらないためには、柄頭(つかがしら。柄の先端)を持った手を突き出して歩く必要があり、その姿が周囲からは傲岸不遜に見えたのでしょう。

しかし、そんな言葉に黙って従う彦左衛門ではありません。

戦場で大太刀を奮う武将。「姉川合戦図屏風」より。

「うるさい!それがしの刀はそなたらとは違って飾りではなく、戦場(いくさば)にて敵を斬るために差しておる。それがしにとってはこれが最も使いよく、ご奉公に適したものであるから、つまらぬことを申すでない」

武士にとって大切なのは、外ヅラを整えて御主君の機嫌をとることではなく、敵を倒して戦さに勝つこと……その目的を考えれば、刀の長さは各人にとって最も適したものであるべきです。

とは言え命令は命令……ロクに実戦経験もなく、刀を飾りと侮られたその者は、なお彦左衛門に食い下がります。

「ふ、ふん……貴殿がいくら意気がったところで、命令に背けば処罰は免れぬ……よいか、刀の鞘は二尺三寸。確かに伝えたぞ!」

さて、彦左衛門はどこまで意地を貫き通すのでしょうか。

鞘は短くしたものの……

翌朝、江戸城へ登った彦左衛門の姿に、一同は息を呑みます。

「彦左殿、それは……?」

彦左衛門が差している刀の鞘は、短く二尺三寸に切られていました……が、石突(鞘の末端)を突き抜けた白刃が、一尺余りも伸びていたのです。

江戸城内を歩き回る彦左衛門。鞘から突き出した刃先が畳を傷つけている。錦絵「大久保忠教 権勢之図」より。

引きずられたその刃先は、畳であろうと板の間であろうとズリズリ、ガリガリ……ところ構わず傷つけました。

「こらっ、彦左……やめろ、やめないか……っ!」

日ごろ彦左衛門を快く思わぬ者たちが揃って咎めてもどこ吹く風、彦左衛門は江戸城内をあちこちと歩き回ります。

「鞘は木製ゆえ簡単に切れたが、刀は鉄ゆえそうも参らぬ。さりとて替えの差料を買う銭もなく、刀がなければ武士の奉公は叶わぬでな」

「えぇい、屁理屈を申すな!上様に楯突くつもりなら、切腹は免れぬぞ!」

ここまで言えば流石の彦左衛門も引き下がらざるを得まい……そんな周囲の眼差しを一身に受けながら、彦左衛門は呵々大笑。その声は城内に響き渡ります。

「……何がおかしい!気でも触れたかこの老骨め!」

「たわけ……切腹が怖くて奉公が出来るか!」

彦左衛門はその場で裃(かみしも)を脱ぎ捨て、傷だらけの上半身を露わにすると、一同は息を呑みました。

彦左衛門が訴えた、命の「意味」と「使いどころ」

「……この老いぼれが傷だらけの腹を切って、間違ったご政道に意見が出来るなら安いもんじゃ……これまで数多の戦場をくぐり抜け、とうに捨てた命の使いどころとしては、悪くなかろう?」

もはや戦国乱世も遠く過ぎ去り、その本分を忘れかけていた武士たちに、彦左衛門のメッセージがどこまで響いたかは分かりません。

またある時は、大ダライに乗って登城した彦左衛門。誰が笑おうと、是と信じたなら断行あるのみ。月岡芳年「大久保彦左衛門盥登城之図」より。

しかし、彦左衛門の想いはその著書『三河物語(みかわものがたり)』によって後世へ伝えられ、現代を生きる私たちに、命の意味と使いどころを訴え続けているようです。

結局は許されて命を永らえた彦左衛門が世を去ったのは寛永16年(1639年)、将軍は三代目・徳川家光(いえみつ)の時代となっていました。享年80歳。

戦国乱世の遺風を湛えた彦左衛門の不器用な偏屈さは、今なお多くの人々に愛され続けています。

※参考文献:
岡谷繁実『名将言行録』岩波文庫、1997年12月