東京五輪組織委員会会長に、橋本聖子前五輪相の就任が決まったが、川淵三郎さんでもよかったんじゃないの、とは、個人的な感想だ。とは言っても、五輪組織委員会会長は具体的にどんな仕事をするのか、部外者にはイメージが湧きにくい。仕事内容の詳細が伝わってこないので、どのような人物が適任なのか、正直よく分からない。

 仕事内容の分かりにくさは、会長というネーミングそのものにも原因がある。社長なら、実務に直接関与する姿が想像されるが、会長はいろいろだ。社長然と前面に出て、テキパキとその場を取り仕切ろうとする人もいる一方で、大きなソファーにデンと構え、葉巻をくゆらせる長老風もいる。

 サッカー協会会長時代の川淵さんは社長風だった。8代会長の長沼健さん、9代会長の岡野俊一郎さんまでは名誉職だった。会長職に無給で就いていた。それが10代目の川淵さんから有給で働く実務派に変わった。

 Jリーグのチェアマン時代もそうだったが、川淵さんは奧座敷で泰然自若に構えるタイプではない。その行動力で日本のサッカー界を活気づかせたことは確かだった。

 ドーハの悲劇(1993年10月)の時は、Jリーグチェアマンと同時に、日本サッカー協会の強化委員長も兼ねていた。カタールのドーハには、もちろん駆けつけていた。1994年アメリカW杯最終予選。川淵さんは大会前、もし日本が敗れたら、強化委員長を辞めると啖呵を切っていた。

 ご承知の通り日本は、最終戦(イラク戦)の終了間際、同点弾を叩き込まれW杯初出場を逃した。川淵さんの囲み取材が行われたのは、翌日の午前中だったと記憶する。

 しかし、辞めると言っていた川淵さんは自ら、その話題に触れようとしなかった。囲みの記者も、聞きたくても聞けない状態が続いていた。その嘘臭くもまどろっこしい空気に耐えかねたのか、1人の知人カメラマンが「あれ、川淵さん、辞めるって言ってませんでしたっけ?」と、輪の外から肝心の質問を、呆けた口調で投げかけた。よくぞ聞いてくれました。記者の多くは心の中で喝采を送ったはずだ。

 川淵さんはその時、56歳。平均的な記者より20歳程度年上だった。年嵩のお偉いさんに、何となく遠慮していたと言うか、その独得の勢いに圧され、記者はその時、沈黙を余儀なくされていた。

 その瞬間に飛び出した一言だった。川淵さんは直ちに色を成した。威圧的な大声でこう反論した。

「辞めれば、いいってもんじゃない!」

 今回、辞任した森喜朗元会長が、謝罪会見に臨んだにもかかわらず、記者の質問に半ば逆ギレする姿を見て、かつての川淵さんを想起したのだった。そうこうしていると、森氏の後任に川淵さんの名前が挙がったわけだが、それはともかく、なぜ我々はそこで川淵さんから怒鳴られなければいけないのか。理解不能だった。付いていけない感覚とはこのことである。

 周囲を取り囲む記者を対等に見ていないことが、伝わって来た瞬間でもあった。上司が部下に発するような命令口調と言えば、どこからか「いまどき、ウチの会社はそこまで旧態依然としていませんよ」と、反論されそうだが、いずれにしても苦境に立たされたとき、年齢差を拠り所に威圧的な態度に出る姿はいただけない。森元会長(元首相)にそっくりだった。

 昔から共感できない感覚だった。中学、高校時代の部活動で、何かと威張ろうとする先輩の姿、つまり先輩、後輩の関係がとてつもなく嫌だった。大学時代にアルバイト先の会社で見た上司と部下の関係も、同様に肌に合わなかった。

 大学卒業後、フリーランスのスポーツライターとしてここまできた大きな理由だ。あいつは何年入社とか、何歳年上だとか、下だとか、サラリーマンが気にしているであろうことが、フリーランスのこちらには全くない。仕事で関わる8〜9割方の人が、年下になってしまった現在もなお、だ。