宇宙産業のフィールドに実績ゼロで参入したベンチャー企業が今、日本の宇宙産業のキーマンと目される存在になっている(写真:metamorworks/iStock)

2020年12月6日。小惑星「リュウグウ」に着陸し、砂粒状のサンプルを地球に持ち帰った探査機「はやぶさ2」の偉業は、日本に久々の明るい話題をもたらした。宇宙は、多くの人に壮大なロマンと希望を抱かせるフィールドだ。一方で、ビジネスの観点からも、宇宙には無限の可能性を秘めたフロンティアが広がっている。

その宇宙産業のフィールドに実績ゼロで参入し、衛星打ち上げサービスの分野で存在感を放つ企業がある。「Space BD株式会社」。“日本初・宇宙商社”として国内のみならず世界が注目するベンチャーだ。

社長の永崎将利氏は三井物産の出身。「スターウォーズも観たことがなかった」宇宙知識ゼロの状態から、なぜ短期間で日本の宇宙産業のキーマンと目される存在となったのだろうか。

主要事業は「衛星の打ち上げサービス」

「宇宙産業、といっても、ぜんぜんイメージ湧かないですよね? 宇宙とビジネスってどう結びつくの?って感じで(笑)」

インタビューの冒頭、永崎氏はこちらの反応を見透かすように気を遣ってくれた。

内閣府が2017年に発表した「宇宙産業ビジョン2030」によると、2017年当時の宇宙産業の市場規模は約1.2兆円。それを2030年代早期には倍増を目指すとしている。

その宇宙産業のマーケットは大きく「ハード」と「ソフト」に分かれる。前者はロケットや衛星、映像機器などの技術開発。堀江貴文氏が小型ロケット開発のベンチャーに出資して話題を提供しているほか、近年ではとくに衛星の超小型化が進んでいる。後者の「ソフト」は、その衛星やカメラなどのハードから得られるデータや映像・画像を利活用して新たなビジネスを創出するマーケットだ。

「まずは、衛星や映像機器などハードの民需を促進し成功事例を増やすのが、日本の宇宙産業においては優先課題と捉えています。それによって宇宙空間で得られるデータや画像が増えていけば、ソフト分野の裾野もおのずと拡大していくと思います」

そこで、スペースBDが目下の主要事業と位置づけているのが、衛星の打ち上げサービス。宇宙航空研究開発機構(JAXA)が保有するロケットや国際宇宙ステーションに物資を運ぶ補給船の打ち上げ枠を獲得し、衛星などのハードを打ち上げたい民間事業者等に提供する事業だ。この事業において、スペースBDはJAXAとパートナーシップを結ぶ主要な企業となっている。

民間の小型ロケット開発は進んでいるものの、商業化にはまだ時間がかかるといわれている。なので、JAXAから大型ロケットや補給船のスペースを“間借り”して、小型衛星などを開発する民間事業者等に提供するスペースBDの役割は、日本の宇宙産業の民需拡大には欠かせないのだ。

スペースBDがこれまでJAXAとの“縁談”を取り持ち、受託した小型衛星やカメラの実績は、創業から3年間で30基近くに上る。顔ぶれは海外のトップ企業から日本の大学や社会人サークルまでさまざま。打ち上げサービスといっても、JAXAと民間事業者の間に入って打ち上げ枠を横流しするだけの単純なブローカー業ではない。重要なのが「技術サポート」だ。

地球から持ち込んだ小型衛星が、打ち上げの振動に耐えられず破砕して国際宇宙ステーションの宇宙飛行士に傷を負わせたり、バッテリーが引火したりといった事故が万が一にもあっては大惨事となる。それを避けるために、民間事業者には厳重な安全審査が課せられている。

「宇宙空間を模擬したいろんな試験を地上で行い、安全性を証明した英文のドキュメントを作成し、JAXAの審査にかけます。場合によってはNASAの審査も通さなければなりません」

この安全審査の煩雑なプロセスが、民間事業者にとっては参入の高いハードルになっていた。その一連の手続きをスペースBDが代行することで、ハードルはぐっと下がる。

屈辱のエストニア出張

2017年に創業したスペースBD。しかし、永崎氏はそれまで大学で宇宙工学を学んだわけでも、JAXAで研究に勤しんでいたわけでもない。もともとは三井物産の商社マン。「スターウォーズを観たことすらなくて」と笑う。


Space BD社長の永崎将利氏。1980年福岡県北九州市生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、三井物産株式会社入社。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員、横浜国立大学成長戦略研究センター連携研究員(写真:Space BD提供)

三井物産では人事部門や鉄鋼石部門を渡り歩いた。順風満帆なキャリアにみえたが、「思うところがあり」33歳で退職する。ところが、その時点では明確にやりたいことがあるわけではなかったという。

「三井物産という会社のことしか知らない人間が、会社の外でやることを構想するのは無理だと思ったんです。だからまず辞めるのが先だ、と」

1年間の充電期間を経てひとまず会社を立ち上げ、2年ほどで教育事業を軌道に乗せた。黒字を維持できるほどには安定していたが心のどこかに、「もっと突き抜けたい」という思いがくすぶっていたという。そこに、以前から永崎氏を目にかけていた投資家から、突然電話がくる。

「永崎さん。ロケットです。ロケットをやりましょう!」

予想だにしない打診。一瞬戸惑ったが、その場の勢いで二つ返事で応じてしまう。

「ロケットって何? という感じでしたが、思わず『やりましょう!』って。で、帰り道に『やるって言っちゃったなぁ……』みたいな(笑)」

その投資家から1億円の出資を受け2017年9月、会社名を「スペースBD」に改称。宇宙分野でさまざまな事業を手がけていこうという思いを「BD=ビジネスディベロップメント」の言葉に込めた。

しかし、ここからが苦労の連続だった。知名度も実績もない極東のベンチャー企業。それが、宇宙業界のグローバルマーケットに突如飛び込んだのだ。大学時代はテニスに打ち込んだという永崎氏だが、例えるならラケットの握り方もわからない素人がウィンブルドンの会場に乗り込むようなものだ。

あるとき、エストニアで宇宙産業の国際シンポジウムがあると聞き、商機とばかりに渡航した。ところが、各国から集う宇宙業界の要人に「日本で打ち上げサービスをやるんです」と語りかけるも「実績はどうなんだ?」「どこのロケットを使うんだ?」と聞かれるとボールを打ち返せない。

「『まだ決まっていないんです』と答えた後の、シーンとした空気。あれに毎日さらされるのが辛くて……」

体当たりのコミュニケーションには自信のあった永崎氏も、誰からもまったく相手にされない状況に心が折れてしまう。1週間の滞在予定にもかかわらず、3日後には昼からビールをあおっていた。

JAXAのコンペにすべてを懸ける

糸口をつかめずに焦燥感を募らせていた永崎氏の耳に朗報が飛び込む。2017年12月、JAXAが国際宇宙ステーションの実験棟「きぼう」から船外に、超小型衛星を放出する事業を初めて民間事業者に開放すること、そしてそのパートナー事業者を公募することを発表したのだ。

「これだ。これしかない!」

永崎氏はこのコンペに懸けた。蜘蛛の糸のようなコネクションをたぐり、小型衛星の打ち上げサービスでは先駆者的存在であるアメリカ・ナノラックス社にアタック。JAXAの公募を勝ち取っていないにもかかわらず、日本の「きぼう」の商業利用に関心を持っていた同社とのMOU契約(Memorandum Of Understanding:交流協定)の締結にこぎつけた。技術サポートを担う企業もパートナーに迎え入れ、座組を整えた。

プレゼンでは実績がない分、宇宙産業の「大義」を、力を込めて目の前の審査員に訴えた。

やるべきことはすべてやり切った。この日のために頑張った社員を慰労しようと、一足先にパブでビールを飲んでいた永崎氏に、JAXAから1通のメールが届く。今日のプレゼンの補足か今後のスケジュールの連絡か、と何気なく目をやった。

<貴社を事業者として選定します>

思わず立ち上がり、何度も文面を読み返す。拳を握りしめ、ハッピーアワーで賑わう店内で人目もはばからず大泣きした。そのくらい、永崎氏にとっては文字どおりすべての退路を断って挑んだコンペだったのだ。

「これで落っこちたら、テニスコーチでもなんでもやって食いつなごうと、部下とも話していました」

実は、このJAXA公募枠を争う名だたる企業の中には、古巣・三井物産の姿もあった。そのことにも、永崎氏個人としては特別な思いがあった。

「ここで負けたら、なんで三井物産を辞めたのかわからなくなる。あのときの僕にとっては会社としても個人としても、デッド・オア・アライブの闘いだったんです」

名声も実績もないベンチャーが、なぜJAXAにとって初の民間開放だった「きぼう」の打ち上げ枠を勝ち取れたのか。そこには2つの「勝因」があったと永崎氏は想像している。

1つは「大義」を語ったこと。宇宙産業の発展が日本の成長にどれだけ不可欠なのかを、永崎氏は滔々と語った。この大義が、審査員の胸を打ったのではないか。もう1つは、スピーディーな意思決定だ。ナノラックス社のCEOジェフリー・マンバー氏は、宇宙関係者の間では「クセ者」として知られた人物。そのジェフリーが無名のベンチャーとMOUを結んだことをJAXAも評価したのではないか。

「会った当初から、ジェフ(ジェフリー・マンバー氏)は『日本人と仕事するのは本当に難しい』と言っていたんです。『何が本音なのか本当によくわからないんだ』と」

実はマンバー氏は以前より、高い技術力を誇る日本とのパートナーシップを望んでいた。しかし、日本組織の石橋を叩くような意思決定プロセスや結論がはっきりしない国民性に苛立ちを感じていたのだ。そこに日本の見知らぬ若者が現れ、その場で「やりましょう!」と言ってくれる。

これまで会った日本人とは異なる熱量とスピード感に、マンバー氏も「こいつならやってくれるかも」と可能性を感じたに違いない。結果、ナノラックス社と手を結んだことがJAXA採択の大きなアドバンテージとなった。

大義を掲げることと、スピーディーな意思決定が、日本の宇宙産業に風穴を開けたのだが、永崎氏は「昔の商社マンは皆そうだったのではないか」と語る。

「1970年代から80年代にかけて、鉄鉱石部門がすごく儲かっていた時代の取引をみると、『なんでこんな案件に投資できたんだ?』と首をかしげたくなる契約があるんですよ。商社が日本の高度成長を支えていた時代は、大義を持って個人でぶつかり、上司のハンコを待たずに握ってしまう、根性の座った商社マンがたくさんいたはずなんです」

「非合理な意思決定」が爆発的なパワーを生む

具体的な青写真がないまま三井物産を飛びだした背景には、そういう昔気質の商社マンが大切にしていた大義が失われつつあるのではないかという危機感を感じていたこともある。

「極力リスクを減らすことが必要なのはわかっています。ただ、稟議で6つも7つもハンコをもらううちに、企画の角が取れて丸くなってしまうと感じることがありました。そういったゼロリスク思考の意思決定に違和感を持つようになっていったんです」

心血注いで作ったA案で行こうと決めたはずなのに、上司が本部長室から戻ってきたら保険で入れておいたB案に覆っていた。そんな悔しさも味わってきたからこそ、三井物産を飛び出した以上は、自分の信念だけにしたがって生きていこうと決めた。どんな辛いことがあっても、屈辱にまみれても、「宇宙産業を日本の成長ドライバーにする」という大義の旗を降ろさなかった。

そんな自身の経験から、永崎氏は「結局、爆発的なパワーを生むのは『非合理な意思決定』なのではないか」と信じている。「宇宙をやろう」と決めたのも、マンバー氏をはじめとする世界の宇宙産業のキーマンとの出会いも、算段があったわけではない。いや、算段はないに等しかった。

「ボロボロだったエストニア出張で、唯一僕の話を聞いてくれたスペインの企業がいました。今、彼らが開発した衛星搭載用カメラが、僕たちの仲介で「きぼう」の中型曝露実験アダプター(i-SEEP)の中に搭載されているんです。こういう縁は、ロジックや確率論からはぜったい生まれないと思うんですよ」

非合理な意思決定は、ロジックで説明できないがゆえに、時に奇異に映る。大義を口にすれば「できっこない」と嘲笑にさらされる。しかし、永崎氏は意に介さない。

「大きな目標を掲げたところで、デメリットはひとつもないんですよ。バカにされるだけです。僕だって今もこの瞬間に『あいつバカなんじゃないの?』と言われていると思います。でも、どうしても成し遂げたい大義があるのなら、人の目に耐え抜く気持ちが必要なんです」

思うに、馬車が交通インフラの主流だった時代に自動車や鉄道を熱く語っていた先人も、その当時は嘲笑の的になっていたことだろう。まだまだ黎明期の宇宙産業において、永崎氏はその笑われ役をあえて買って出る。

「売り上げも社員も増えてきて、上場も視界に入っている。社長として守るものが大きくなっているのは確かですが、僕はそういうバカをやるお手本であり続けたい。そこは自分との勝負ですね」

「合理的な意思決定」が意味をなさない予見できぬ未来

宇宙空間から得られる知見やデータなどを利活用するソフトの民需拡大にも、スペースBDは動き始めている。内閣府が推進する、宇宙ビジネスを社会課題の解決に結び付けるプロジェクト「Space Biz for SDGs」のパートナーにも採択された。


2030年代には、世界の市場規模が70兆円にも達するともいわれる宇宙産業。何がどう発展していくのか、正解は誰にもわからない。正解がないからこそ、合理的な意思決定はより意味を失う。大義を持ち、嘲笑に耐え、非合理な意思決定を続けられる人間こそがブレイクスルーできる。永崎氏はまさに今、それを体現している。

「たとえ非合理にみえても、自分の信念にしたがってチャレンジし続ける。その結果、今までにないビジネスが生まれ、さらにそれが誰かのチャレンジを喚起する。そんなスパイラルを世の中に起こせるような存在でありたいですね」